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ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

再婚話を子に相談した母

2011年09月04日 | 教育・文化

今年も関東短期大学の公開講座を受講しています。早いもので4年目。昨日の講義は『変る子育て、孫育て』、良い内容でした。講師は同短大のこども学科、木村たか子准教授。

「これからの就学前教育を考える」のところで「子どもの権利条約」の説明がありました。1989年国際連合採択、1994年に日本も批准。同条約の背景には、2回の世界大戦で子どもたちが大きな犠牲を受けた。このようなことが、もう起きないようにとポーランドが草案を提出。その精神的基盤はヤヌス・コルチャック先生の子どもを愛する実践から・・

同条約3条では「子どもの最善の利益を守ろう」・・講義を聞きながら私は、ふと亡母との会話を思い出していた。私が小学校低学年の頃、母に再婚話が2回あった。いずれも私の気持ちを問うた母。私は即座に「お父さんなんか要らない!そんなの不良だイ!」と強く拒んだ。。

性についても目覚めた18歳を過ぎたころ頃、私は母に謝った。「せっかくの再婚の話をボクがいつも反対してごめんね」。母は「なんせ“不良だ!”って言われたからね(笑)。でもお母さんもそれほど気乗りはしていなかったんだよ」

「不良だ!」の言葉は母も私も長く覚えていました。その後、母は再婚せず「妻」より「親」に徹した生き方を選択し、私を育ててくれた。もし母が再婚していたら私は、おそらく「新しいお父さん」には、なつかなかったかもしれない。ただ何よりもうれしかったは母が子どもの私に、一人前扱いして相談してくれたことなのです。いきなり再婚して「お父さんだ」と言われたらどうだったろうか。

実は母に引き取られる前、4~5歳の私は、父親と一時同居していた時期があります。ある日、父は若い女性を連れて来て新しいお母さんだと告げ「今日からお母さんと言いなさい」と命じた。しかし私は決してお母さんとは呼ばなかった。それには父が大いに立腹したのを覚えています。

精神面での「子どもの権利」を尊重してくれた母、対照的にそうではなかった父・・

そんなことを思いめぐらしながら教室を後にしました。

【写真】1950年代、前橋市内の写真館で。

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