ポポロ通信舎

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脱北日本人妻の手記

2011年01月09日 | 研究・書籍

新春の読書一冊目は、新刊『北朝鮮に嫁いで四十年』。

一気に読みました。著者斉藤博子さんは20歳の1961年、朝鮮籍の夫、夫家族1歳の長女とともに帰国事業に応じて北朝鮮に渡る。日本を離れるにあたって多くの日本人妻は悩んだ。著者は「弥生(長女)がかわいそう。わたしは両親のそばで20年間も一緒にいたので母たちと別れてもいいだろう。でも弥生はこれから大きくなっていくのです。それに日本から離れて知らない国に行くのだから」と子を想う気持ちを優先して朝鮮行きを決めています。帰国事業での帰国者は9万3340人。うち日本人妻、子は6839人。朝鮮に渡ってからの生活は過酷、その兆候は、すでに清津港に着くなり、貧しい現地の子供たちの姿をみて楽園とはちがう、「だまされた」と大部分の人が感じたとあります。

北朝鮮は出身成分により3区分51階級に分類され、日本からの帰国者は「敵対層」に入り要監視対象者、なかでも日本人妻は最下位の身分になるという。それでも著者は、夫とともに6人の子を育て、運命を受け入れ、けなげに生き抜いてきました。

まだ日本にいた頃60年前後、嫁ぎ先でテレビを購入。「サンヨーという名前で初めて家に置くテレビは本当に美しく見えました。テレビが来てからは仕事が済んでご飯を食べてから見るのが楽しかった」。また北朝鮮においても1985年頃、日本からの送金を得て450ウォンでテレビを買う。それも「サンヨー」!!

それにしても帰国事業とは、なんだったのでしょうか。不十分な、一方的な情報だけを信じ「地上の楽園」を宣伝扇動した団体、報道の責任は重い。平均寿命は男50代、女60代と言われるだけに、生存されている日本人妻はもう少ないかもしれません。ただこうしたご苦労をされた人たちの存在は、しっかり知っておかなくてはと思います。

【写真】大泉町の東京三洋電機で初めて生産されたテレビ14-F10W 画面はテレビ工場ライン(直接本文とは関係ありません)

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北朝鮮に嫁いで四十年 ある脱北日本人妻の手記
斉藤博子
草思社
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