♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■主の祈り - 55 アーメン / 大嶋重徳

2016年06月28日 | Weblog
2016/6/28放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった「主の祈り」という祈りがあります。

私たちはこれまでイエス様が教えてくださった主の祈りから、祈りとは何か、キリスト教信仰とは何か、ということをずっと考えてきました。そしてこれからも祈る事を大切にして行きたいと思います。そのために大切にしておかなければならないことは何でしょうか。

 ハイデルベルク信仰告白という信仰をいい表したものに、祈りについて書かれています。問い117 「神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには何が求られますか。」
 答え 「第一に、ご自身をみことばにおいて私たちに啓示された唯一のまことの神に対して、この方が私たちにお命じになったすべての事柄を私たちが心から恋い求めるということです。

 ここで記されているのは、聖書こそ私たちの祈るべきお方を知る唯一の道筋であるということです。祈りのそばにおいておくべきものがある。それは聖書です。主の祈り自体が聖書のことばであるように、主の祈りを深く理解するためにも、祈りとは何かをまた聖書全体から学ばないといけません。

 聖書には主の祈りのほかにも実にいろいろな祈りのことばが記されています。アブラハムの祈り、ダビデの祈り、パウロの祈りがあります。イエス様が十字架の上で祈られた「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。」というのは詩篇20篇2節の引用です。これはイエス様が普段どれほど聖書にある詩篇のことばを大切にして祈っていらっしゃったかということを意味しています。私たちはとっさの時には普段のものしかできません。ぎりぎりの時に聖書の中の祈りが出て来るということは、通常の生活でどれほど聖書のことばが浸み込んでいたかを表わされています。

 ボンフェッファーというナチス・ドイツと闘い抜いたドイツの神学者はこう語ります。 「もし悪魔が彼の信仰を無理にもぎ離そうとする時には、彼はこの聖書を読み祈ることに逃れこむ必要がある。もし祈ることができなくなるような状態が襲ってきたら、聖書を読んで思い巡らすという事をもって始めなければならない。」
 つまり、もしあなたが祈ることができなくなった時、何が何でも聖書に行けと語るのです。そして私たちは聖書に喰らいついていくとき、聖書は私たちを祈りに向かわせてくれるのです。

  ( PBA制作「世の光」2016.6.28放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


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