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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■イエス様こそ権威ある方 / 関根弘興

2016年06月20日 | Weblog
2016/6/20放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 新約聖書エペソ人への手紙4章14節のことばを毎週読んでいます。
 「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ人への手紙4章14節、15節)

このエペソ人への手紙が書かれてから30年ほど過ぎた頃、ヨハネの黙示録というものが書かれました。この黙示録の中に、当時の教会の中に色々な教えの風が吹き荒れていたことが書かれています。

 その一つに、特定の人間に特別な権威があるかのような教えがあったと言われます。つまり聖職者たちを幾つもの階級に分けて様々な権威を持たせて行ったのです。はしごを登るようにして、より上の階級の者ほど大きな権威をもって行くんですね。そして遂には聖書のことば以上に権威をもってしまうという、何だかアンバランスなことが起こってしまったのです。

 しかし聖書は、一人ひとりそれぞれの役割の違いはあっても神様のみ前ではみな同じです。みな神様と親しい関係を持つことができ、いつでもどこでも自由に大胆に神様の御前で祈ることができる。また聖書を通して自由に神様のことばを聞くことができるんだ、と教えます。そして神様と私たちの仲介をすることができるのはイエス・キリストだけです。

 新約聖書の第一テモテ2章5節には、「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」と書かれています。イエス・キリストは神であられる方なのに人となって私たちのもとに来てくださり、神様と私たちの関係を回復してくださるかけ橋となってくださるお方だと言うのです。そしてイエス様は、天においても地においても一切の権威を持たれているお方です。そして素晴らしいことに、私たちはこのイエス様の権威あるお名前によって、どこでもいつでも何でも自由に祈ることができるんです。もし誰かに特別な権威があると言うような教えをあなたが聞いたら、それは決して聖書から教えられているのではありません。イエス・キリストこそ天においても地においても一切の権威が与えられている方だからです

  (PBA制作「世の光」2016.6.20放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■キリストはすべての人の主です / 羽鳥頼和

2016年06月18日 | Weblog
2016/6/18放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は異邦人にも福音で語られるようになった最初の出来事についてお話しします。

 使徒ペテロはキリストの福音をユダヤ人だけに語っていました。ユダヤ人は異邦人は穢れていると考えていました。ペテロもそうだったのです。ところが神が夢でペテロに、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」(使徒 10章15節)ということばをいただいたのです。

 そして神はペテロに、コルネリオという人物を出会わせました。コルネリオはローマ人で、百人隊長をしていました。彼は敬虔な人で、家族と共に神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをし、いつも神に祈りを捧げていたのです。

 ペテロはコルネリオと出会い、「神が清めたものをきよくないと言ってはならない。」という神のことばを思い出して言いました。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」(使徒 10章34、35節)

 そして神の救いについてコルネリオたちに語り始めたのです。「神はイエスを遣わして平和を宣べ伝えられました。このイエスはすべての人の主です。神はイエスに聖霊と力を注がれました。それでイエスは巡り歩いて良い行いをし、また悪魔に支配されているすべての者を癒されました。ところが人々はこの方を十字架につけて殺してしまったのです。しかし神はこのイエスを三日目によみがえらせました。よみがえられたイエスは私たちに、イエスこそさばき主として神によって定められた方であることを人々に宣べ伝えるように言われたのです。イエスを信じる者は誰でも罪の赦しが受けられます。」(使徒 10:36~43節参照)

 ペテロがこれらのことを話し続けている時、みことばに耳を傾けていたすべての人々に聖霊が降り、その人々は神を賛美しました。それでペテロは彼らに洗礼を授ました。こうして神の救いはユダヤ人だけでなく世界のすべての人に与えられるものとなったのです。コルネリオのように神を恐れかしこみ、イエスを救い主と信じる者を神は救ってくださいます。

 明日は日曜日です。救いを与えてくださる神を礼拝するために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.6.18放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■病をも癒してくださる方  マルコ⑨ / 岩井基雄

2016年06月17日 | Weblog
2016/6/17放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三週の金曜日はマルコの福音書から学んでいます。

 私たちは様々な病を経験しますね。自分の病も苦しいものですが、家族の誰かが大きな病を経験するとき、その苦しみはもっと増すことがありますね。しかし、病の中でこそ教えられていく真理があることもまた事実ではないでしょうか。

 イエス・キリストの弟子の一人ペテロの義理の母も病をもっていました。聖書はこう記しています。
 「イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると 熱がひき、彼女は彼らをもてなした。
  新約聖書マルコの福音書1章29節から31節

 天地万物を創造された神様は、時間も空間もすべてのいのちをも創造されました。私たちの身体は弱さを持つ存在として創造されましたが、私たちが弱く生まれて来ることも愛を学ぶための大きな恵みとなるのですね。弱く小さな私たちは、親や家族の愛情を受けながら育まれるように神様が御計画してくださったのです。そして病も神様が私たちに与えてくださったものなのですね。

 神の御子イエス・キリストはこの病をも癒す権威を持っていらしゃいます。しかし病さえ癒されたら人間は幸せなのでしょうか? キリストご自身の権威をもってすべての病をこの地上から取り除くということはなさいませんでした。私たちは病や怪我がもたらす苦しみや悲しみによって自らが向き合うべき問題を明らかにされ、本当の信仰へと導かれていくことがあるからです。それはこの癒されたシモンすなわちペテロの姑が取った行動にも表されています。癒され愛を受けた彼女は与えられた恵みと祝福を今度は与える者としてイエス・キリストと弟子たちをもてなすことによって自らを差し出していったのです。

 あなたが今どのような問題で悩んでいらっしゃったとしても、真の権威を持つキリストは、あなたを内側から変え、癒し、そして使命と生きがいをあなたに与えてくださるのです。神様はあなたを豊かに用い、愛を届ける器としてくださるのです。

  (PBA制作「世の光」2016.6.17放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■主にのみ仕える / 福井 誠

2016年06月16日 | Weblog
2016/6/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主にのみ仕える」です。それでは第一サムエル記7章3節から読んでみましょう。
 サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。
 「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」


 先週も話しましたが、イスラエルでは神の臨在の象徴である神の箱が長いこと失われたままでした。ペリシテとの戦争に敗れ、神の箱が奪われてから彼らは、普段の生活の中で神を感じることのできない毎日を過ごすようになっていました。そして次第に神を求めるようになったのです。イスラエル人たちは指導者サムエルの助言を求めました。サムエルが答えて言いましたね。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」 神を求めると言うのなら心を尽くして唯一まことの神に仕えることである、というのですね。

 そこでイスラエルの人々はバアルやアシュタロテ ---当時パレスチナの地でよく拝まれていた神様--- を捨てて、ただ聖書の神様にのみ仕えたと言います。

 日本の国には様々な神様がいますね。家にも神棚だけではなく仏壇もあり、その他、お札が飾られていたりと、とにかく様々な神様が祀られ拝まれています。つまり日本人というのは宗教的には混交主義であり、ありとあらゆる神を味方につけて安心すると考える性質をもっているのですね。

 しかし聖書は、神々と呼ばれるものは多くあっても信じるべき真の神はただお一人である、と言います。この天地には木や石などで作られた様々な神様あるいは太陽や月、星、山、川と拝まれているものはたくさんありますが、拝むべき本当の神様はただお一人です。その神様を信じるならば、おみくじも星占いも不要です。偶像を捨て去ったイスラエルの人々を神様は祝福されました。唯一まことの神に頼りきる人生こそ祝福された人生になると心得たいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.6.16放送でのお話より )

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■会見の幕屋 / 板倉邦雄

2016年06月15日 | Weblog
2016/6/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 私たちは、天の神様とお会いしたいなあ、そのような希望と求めを持って高い山へ登ったり巡礼の旅に出るのではないでしょうか。

 さてモーセは一つの移動式テント・幕屋を解体すると、この幕屋を宿営とは離れた場所に張りました。モーセはこれを「会見の幕屋」と名づけたのです。主なる神様と会見する聖なる場所、主なる神様とお会いしたい、祈りを聞いてもらいたい、自分の悩みを知ってもらいたい、そのような人々は自分の住居である天幕を出て、宿営の外にある会見の幕屋に行ったのです。

 ところでモーセが会見の幕屋に行くときには、人々はみな立ち上がり、モーセが幕屋に入るまで、それぞれの天幕の入口に立ってモーセを見送りました。モーセが会見の天幕に入りますと雲の柱が下ってきて、会見の天幕の入口に立ったのです。主なる神様は雲の柱を通してモーセに語られました。雲の柱は霊的なイエス・キリストを表していたのではないでしょうか。

 人がその友と語るように主イエス・キリストがモーセと顔と顔を合わせて語られたことがあります。新約聖書の福音書の中で山に登られたイエス様の姿が変わった事件が書かれています。その時イエス様がモーセと語り合っていたのを弟子のペテロは目撃いたしました。栄光に輝くモーセが肉体を持つイエス様と会見したのです。しかしこのシナイ山のふもとではその逆でした。

 ところで、イスラエルの人々は会見の幕屋の入口に雲の柱が立つのを見ると、自分たちの天幕の入口に立って主なる神様を礼拝したのです。

 私たちキリスト信徒は毎日聖書を読み、祈りを捧げる礼拝をもっています。しかし、日曜日は神様とお会いして導きを求めるために会見の幕屋なる教会へ行きます。私たちの雲となってくださったイエス・キリストを礼拝するためです。荒野の人生において私たちは天に父なる神を持たせていただき、地上には母なるキリストの教会をいただきながら巡礼の旅をさせていただきたいものです。

  (PBA制作「世の光」2016.6.15放送でのお話より )

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■主の祈り -53 アーメン / 大嶋重徳

2016年06月14日 | Weblog
2016/6/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった「主の祈り」という祈りがあります。主の祈りには、「アーメン」ということばで祈ります。

 新約聖書には、「マラナタ ---主よ早く来てください。---」や、「アバ ---お父ちゃん---」というように聖書の記された当時に用いられたヘブライ語、アラム語がそのまま残って使用されています。「アーメン」もまた、「確かにその通りです」という意味ですが、歴史的に教会ではそのまま「アーメン」ということばを用い続けてきました。そして英語ではエイメンと言ったりもしますが、アーメンということばこそ万国共通の教会の祈りのことばです。世界中のクリスチャンは間違いなくこのことばによって祈り終えます。アーメンこそ世界中の教会をつなぐ祈りのことばはなのです。

 しかし正直に言いまして私たちは必ずしも隣で祈っている人の祈りに心から同意している訳でもないことがあります。誰かが祈る祈りの途中に、その祈りってどうなのかな?と思うことがあったり、あの祈りは間違っている!と裁くこともあります。祈っている途中に他のことを考えてしまって、その祈っていることを聞いていなかったりすることもあるでしょう。それでは祈り終えた時に、「アーメン。確かにそうです。」と言えない状況の時はアーメンとは言わないほうがいいのでしょうか。しかし、アーメンはいつでも全員で唱和するのです。これはお互いが祈った事は嘘ではありません、と意味してはいません。そうではなく、神様に対して私たちは今真実を申し述べました、と祈った私たちにはそれぞれ違いがありますが、今精一杯互いに正直に神様にお祈りをしましたと言っているのです。そして、互いの祈りを聞いてくださる主の真実に祈ったすべてをお委ねするのです。私たちは祈り続けて行くとき、私たちの交わりはアーメンを繰り返しながら一致に近づいていきます。祈りのあるところにのみ、神様のくださる一致が生まれます。アーメンと言うとき、世界中で争いがあり、教会で仲違いがあったとしても、正直に神様に祈りをなしながら、少しずつ少しずつ、「アーメン、確かにそうです」と神様の御心に近づいていくことができるのです。だからこそ私たちは一つになるために、「アーメン」と今日も一緒に祈るのです。

  ( PBA制作「世の光」2016.6.14放送でのお話しより )

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■恵みのゆえに救われた / 関根弘興

2016年06月13日 | Weblog
2016/6/13放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 新約聖書エペソ人への手紙4章14節から。
 「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ人への手紙4章14節、15節)

この手紙が書かれた当時、教会の中にはいろいろな教えの風が吹き荒れていたようでした。特に、イエス様を信じるだけでは不十分ですよ、きちんと戒めを守り、儀式を守ることが必要なんですよ、とたくさんの条件を付けるそういう教えがたくさんあったんです。しかし聖書は何と教えているでしょう。救いは人間の努力で得ることはできない、救いは100%神様の恵みによるのであって、人はその救いをただ感謝して受け取るだけでいいのですよ、と聖書は教えるんです。つまり人は自分でどんなに努力しても自分で自分を救うことはできないということなんですねえ。むしろ努力すればするほど自分の限界を思い知らされて結局は疲れ切ってしまうのではないかと思います。

 赤ちゃんは自分で努力して生まれて来るでしょうか? 違いますねえ。お母さんの想像を絶する痛みと保護の中で産み出されていきます。もし赤ちゃんが、僕は自分の努力で成長し自分の力で産まれてきたんだあ、と言ったらとても滑稽な話ですね。

 聖書が教える救いもそれと同じです。新約聖書のヨハネの福音書1章12節(、13節)には、
 「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
 このように書かれています。

 私たちはイエス・キリストを単純に救い主として信じ受け入れた時、神様のいのちを与えられて神の子どもとして生まれたのだというんです。これは人の意欲や努力によるのではありません。一方的な神様の恵みの御業なんです。またエペソ人への手紙2章8節には、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 救いは愛なる神様からのプレゼントなんですね。その神様の愛を信頼し、そのプレゼントをただ喜んで受け取ること、それが信仰なんですね。

  (PBA制作「世の光」2016.6.13放送でのお話しより)

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■魔術師シモン / 羽鳥頼和

2016年06月11日 | Weblog
2016/6/11放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は、新約聖書の使徒の働き8章に登場する魔術師シモンについてお話しします。シモンはサマリアで不思議な魔術を行い、人々を驚かせていました。その頃サマリアにピリポがやってきて、キリストの福音を語りました。ピリポが悪霊を追い出し、病気を癒す奇跡を行なったので、多くの人々が集まってきてピリポの話を聞きました。それで多くの人々がイエス・キリストを信じて洗礼を受けました。そしてあのシモンも洗礼を受けたのです。しかし彼の信仰はあやふやなものでした。

 その後、ピリポのサマリアでの伝道のことを聞いてエルサレムから使徒ペテロがやってきました。ペテロは信じた人々に聖霊を授けるためにやってきたのです。ペテロがキリストを信じた人の上に手を置いて聖霊を受けるようにと祈ると、その人は聖霊を受けました。それを見てシモンはペテロところにお金をもってきて、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」(使徒 8章19節)と言いました。ペテロは彼を叱って言いました。「あなたは金で神の賜物を手に入れようとしている。あなたはこの神の賜物に与ることはできない。あなたの心が神の前に正しくないからだ。だからこの悪事を悔い改めなさい。」(使徒 8章20~22節参照) シモンは震え上がって悔い改めたのでした。

 新約聖書ローマ人への手紙6章23節は言っています。
 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 この永遠のいのちはどのようにしたら手に入れることができるのでしょう。それは神が与えてくださるものです。ですから私たちはキリストを救い主と信じてそれを受け取るのです。神が永遠のいのちを与えてくださいます。

 新約聖書エペソ人への手紙2章8節は語っています。
 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
 救いも信仰も神が与えてくださる賜物です。この神を信じましょう。

 明日は日曜日です。永遠のいのちを与えてくださる神を礼拝するために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.6.11放送でのお話より )
 
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■恐れを覚えるときに / 岩井基雄

2016年06月10日 | Weblog
2016/6/10放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。月の第二週の金曜日は、旧約聖書に登場するヤコブの人生について学んでいます。彼は神様によって内側から変えられた人でした。父を騙し兄を裏切ったヤコブがいよいよ自分の故郷に向かう時が来ました。様々な不安を抱えつつもマハナイムで神が共にいてくださるという臨在の守りを体験したヤコブでしたが、兄エサウが400人の者を連れてやって来ると聞いて恐れをなしてしまいます。400人は当時の軍隊の一個小隊に当たる数であり、兄が自分を撃つのではないか、と恐れたヤコブは群れを二つに分け、先の者をエサウへのなだめの贈り物にしようとします。数や力を恐れ、知恵に依存するヤコブの弱さがここにも見られますね。

 しかし内側にはまだ弱さや問題を抱え恐れを抱きながらも、ヤコブは神の祝福と約束と導きに心を留めていくのです。彼はこう神様に祈っています。
 「どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。』と仰せられました。」 旧約聖書 創世記 32章11節、12節

 彼は兄を恐れる気持ちと主を信頼しようとする思いの間で葛藤しながら自分の知恵に頼り続けていた人生を離れ、神様の約束に信頼する人生へと導かれていくのです。神様はあなたの弱さも、あなたが抱える課題も、心の内の恐れもすべて御存知です。そして自分ではどうすることもできない問題の中でこそ無力なあなたは心から神様に信頼し、その約束に心から依り頼み、信仰を持って力強く進んでいく人生へと変えられていくことができでるのです。

 神様の憐みは尽きることがなく、あなたに自分の過ちを認める勇気、内側から変えられていく謙遜さを与え、進むべき道を力強く進ませてくださるのです。

 聖書のことば
 「 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
      旧約聖書 イザヤ書41章10節

  (PBA制作「世の光」2016.6.10放送でのお話しより)

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■偶然起こった? / 福井 誠

2016年06月09日 | Weblog
2016/6/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「偶然起こった?」です。それでは第一サムエル記6章9節から読んでみましょう。

 「あなたがたは、箱がその国への道をベテ・シェメシュに上って行けば、私たちにこの大きなわざわいを起こしたのは、あの箱だと思わなければならない。もし、行かなければ、その手は私たちを打たず、それは私たちに偶然起こったことだと知ろう。

 先週は、ペリシテ人が戦利品として持ち帰った神の箱がペリシテ人に災いをもたらし、神ご自身の存在を知らせようとしたお話をいたしました。その神の箱は依然としてペリシテの地にあり、ペリシテ人を悩ませていました。そこで彼らはついにまことの神の存在を悟ることもなく、災いをもたらす箱を除き去ってしまおうと、それをイスラエルの陣営に返すことにしたのです。しかしただ返すのではありません。彼らは事の真偽を定めようとしました。面白いですねえ。一つの実験をした訳です。一台の新しい車を仕立てて、神の箱や神をなだめるための品々を載せて、それを今まさに乳を飲ませている二頭のお母さん牛に曳かせることにしました。もしお母さん牛が引き離された子牛を残してイスラエルの地に上っていけば、この大きな災いはまさに神の箱にその臨在を象徴される神によるものであることを確認できる。一方、そうでなければ偶然に起こったと考えよう、という訳ですねえ。すると子牛を離れるはずもないお母さん牛がまっすぐにイスラエルの陣営を目指して進み続けたのです。ペリシテ人はもう明らかに神の介入を認めざるを得ませんでした。彼らの地を荒らしたのはイスラエルの神であることを悟らされていくのです。

 けれども彼らはそこで悔い改めた訳ではありません。信仰と言うのは信仰を持とうという気持ちがなければ、どんなに証拠を突きつけられたとしても、人は信じないものです。たとえ誰かが死人の中から生き返って、神は本当にいるのだと証言する仰天ものの出来事が起こったとしても、聞き入れることもない頑なな心が人間にはあるものですねえ。それは神を信じてからも同じです。人間というのはつくづく不信仰の塊だなあと思いますねえ。ぜひ不信仰の心を捨てて、神を信頼し、信頼し続け、神の祝福に与るものでありたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.6.9放送でのお話より )

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