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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■人を内側から変えるキリストの愛-マルコの福音書①/岩井基雄

2015年09月18日 | Weblog
2015/9/18放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 今日からこの第三週の金曜日はマルコの福音書から学びたいと思います。

 新約聖書には四つの福音書がありますが、その一番最初に記されたのがこのマルコの福音書です。福音書とはイエス・キリストの生涯について証しされた書で、聖書の中でもとても大切な証しが掲載されているのです。

 このマルコの福音書の著者マルコはヨハネとも呼ばれ、パウロやバルナバという神様の愛を伝える宣教師たちと共に伝道の旅行をした人です。しかしその働きの途中で彼はその働きから逃げてしまいます。その具体的な理由について聖書は語っていませんが、様々な困難さを前にして去ってしまったのではないかと考えられ、後にパウロとバラナバという二人のリーダーの間に、この彼の扱いのことで論争が起こったほどでした。しかしそんな失敗者、落伍者とも言えるマルコが、後には神様の愛と恵みによって変えられ、彼を否定していたパウロも後に彼を重要な人物また同労者として評価するほど、神様の愛を伝える器として変えられ用いられていくのです。

 神様にあって歩む人生はどんな人であっても内側から作り変えてくださるのです。特にこのマルコの福音書は私たち人類のしもべとなって仕えてくださった救い主イエス・キリストの姿を描いています。どんな弱さを抱える人とも共に歩み、恵みと愛を注いでくださるイエス・キリストによって導かれる人は、その愛によって喜んで人に仕える者へと内側から変えられていくのです。

 聖書のことば

  「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
               新約聖書マルコの福音書10章44節、45節

 どんなに弱く愚かな存在をも限りない愛で愛し、その人に仕えてその人を愛によって作り変えてくださるために、イエス・キリストは来てくださいました。それはイエス・キリストのいのちを通してあなたにも永遠のいのちが与えられ、輝いた人生を歩むことができるためなのです。あなたもキリストの愛によって生かされる人生を歩みませんか?

 (PBA制作「世の光」2015.9.18放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■あなたの祈りを聞いた/福井 誠

2015年09月17日 | Weblog
2015/9/17放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「あなたの祈りを聞いた」です。それではイザヤ書38章5節からお読みしましょう。
 「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。」

 この時、イスラエルの王様ヒゼキヤ王は重い病気にかかっていました。そこに預言者のイザヤが来て言うのです。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。」 何ともショックなことばですねえ。耳をふさぎたくなる何とも悲しいことばです。

 しかしヒゼキヤはくじけずにそこで神に祈っています。
 「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」(イザヤ書 38章3節)

 こうしてヒゼキヤは大声で泣いたと言います。ああ、私などはこんな悲しみある人のそばにはとてもいられそうもありません。不器用にことばもなく立ち尽くしてしまう気がしますねえ。

 ともあれそんなヒゼキヤにイザヤが再び神のことばを伝えています。
 「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」(イザヤ書 38章5節)

 何とヒゼキヤのそばに神がいてくださったのですねえ。神がいてくださって祈りも聞いたし涙を見た、そしてあと15年寿命を加えよう、と言うのです。神様は心を動かしてくださったと思いますか? 確かにそうなんですが、実は神様がそのように心を動かしたのはヒゼキヤの祈りの熱心さや信仰深さによるものではないのです。イザヤは、「あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。」(イザヤ書 38章5節)と言いました。つまり神はヒゼキヤの父(※父祖)ダビデに免じてヒゼキヤの祈りを聞いてくださったのですね。神はダビデに、あなたの子孫を祝福する、と約束しておられましたが、それを守られたのです。

 自分にも神と祝福を約束してくれる人がいてくれたらなあ、と思いますか? 実はそういう人がいます。聖書は、キリストが私たちのために神と祝福の約束を交わしてくださった、と教えていますね。ぜひ聖書を調べてみて、あなたのためにキリストが神の祝福を勝ち取ってくださっていることを知っていただきたいと思います。

 (PBA制作「世の光」2015.9.17放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


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■紅海のそばに宿営/板倉邦雄

2015年09月16日 | Weblog
2015/9/16放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「紅海のそばに宿営」という題でお話ししましょう。

 モーセの指導によってエジプトを脱出したイスラエルの人々は、紅海の傍らに宿営しなければなりませんでした。主なる神様の命令だったからです。そこには深い目的がありました。主なる神様はモーセに言われました。「海の傍らに宿営しなければならない。その理由は、エジプトのパロ王様は家来からの報告を聞いてこう考えるからだ。イスラエルの民族は紅海の近くで迷っているぞ。荒野が彼らを閉じ込めたのだ。奴らは袋のねずみだ。わたしがパロ王様の心を頑なにするから、パロ王様はあなたがたを追いかけるだろう。心配しなくても良い。わたしがパロ王様とすべての軍隊を破って栄誉を受けるためである。エジプト人にわたしが全能の主なる神であることを知らせるであろう。」  モーセと民たちは言われたように実行に移しました。

 ところで、場面は一転、エジプトの王宮です。全イスラエルの国民が逃げ去ったことと紅海の傍らで宿営していることがエジプトの王様に伝えられました。喉元過ぎれば暑さを忘れる、とはこのことでしょう。パロ王様と家来たちは十の災害があったことをすっかり忘れてしまいました。60万の奴隷労働者を失ったことの方が悔やまれてならなかったのです。「我々はなぜイスラエルの民族を去らせてしまったのだ。我々の奴隷にして仕えさせなかったのか。」 そこでパロ王様は戦車に乗り、自らエジプト全軍を率いて先頭に立ったのです。そしてイスラエルの人々の後を追いかけました。イスラエルの人々が自分たちの悲劇の時に、意気ようようと出て行ったのも気に食ぬことでした。怒りと憤りが込み上げてきたのです。そしてとうとう紅海の傍らで宿営するイスラエルの人々に追いつきました。

 さて、主なる神様のことばに従ってイスラエルの人々が紅海のそばに宿営したこと、そのことを知ったパロ王様が心を再び頑なにしてイスラエルの人を追いかけてきたこと、実はすべてが神様の素晴らしさを表すことであり、イスラエルの人々の益のためだったと信じることが私たちはできるでしょうか。

 (PBA制作「世の光」2015.9.9放送でのお話より )

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 (PBA制作「世の光」2015.9.16放送でのお話より )

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■主の祈り-33みこころの天になるごとく/大嶋重徳

2015年09月15日 | Weblog
2015/9/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった主の祈りという祈りがあります。主の祈りには「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」ということばがあります。

 私は普段学生伝道をしています。時折、学生たちから恋愛の相談を受けることがあります。「大嶋さん。御心の人に出会ったんです。」 しかし、しばらくすると、「御心の人ではありませんでした。」と報告を受けます。そういうことを聞きながら、「それは御心じゃなくってあなたのお心だろ。」と思ったりもするのです。

 しかし私も学生時代に、ある一人の女性とおつき合いを始めるかどうかで悩み、お祈りをしました。そして聖書を開き読んでいると、「深みにこぎ出して網を降ろせ。」という聖書のことばに出会ったのです。そしてイエス様のことばの通りに深みにこぎ出して網を降ろした弟子たちには魚が大量に獲れたという箇所でした。深み? ・・・ 俺と彼女のことか? 網を降ろす? ・・・おつき合いを始めるということか? 魚が取れる? ・・・ このつき合いは祝福されると言うことか? しかし2年後、「重ちゃんの愛が分からない。」と彼女に言われておつき合いは終わりました。その時私が神様に祈った祈りは、「神様、みことばをくださったじゃないですか。御心だったんじゃないですか!」という怒りのような祈りでした。しかし今思うのは、彼女とおつき合いしたのも御心、別れたのも御心だったと思います。そのおつき合いの中で自分がどれだけ愛のない者なのかを知らされ、彼女との別れの中で「神様。愛するとはどういうことですか?」と神様に愛することを尋ね求めたことも御心だったと思います。

 時折、神の御心を知るために「神様。あなたのみことばをください。という祈りをします。その祈りは誠実なものであると思いますが、同時にその祈りのどこかに自分がしたいと思っていることの駄目押しになるようなみことばが欲しいと、まるでみことばを自分の願いの保険のように扱っていることはないでしょうか。

 御心とは英語ではウィル Will  神の意志、神の思いという意味です。つまり、自分の思いをはるかに超えた神様の願いが自分に実現するようにということを願うのです。この祈りを祈るとき、自分の思いをはるかに超えた神様の最善が自分にも必ず起こるのだと信じる信仰が養われていくのです。

  ( PBA制作「世の光」2015.9.15放送でのお話しより )

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■使徒パウロ/関根弘興

2015年09月14日 | Weblog
2015/9/14放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 新約聖書の中のパウロが記したエペソ人への手紙を少しずつ紹介したいと思いますが、パウロはこの手紙の最初にこんな挨拶を送っています。

 「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。

 パウロという名前はこれはローマ名なんですねえ。ユダヤ名ではサウロという名前です。そしてパウロは自分のことを使徒であると紹介しています。実はパウロはクリスチャンになる前までは熱心なユダヤ教徒でした。そして多くのクリスチャンを迫害するためにユダヤ教の当局者から派遣された公の使節として働いていたんですね。ところが彼の人生を180度変える出来事が起こりました。それはクリスチャンたちを迫害するためにダマスコという所に向かって行く途中のことでした。突然、まばゆい光が彼を照らしたのです。彼は地に倒れてこんな声を聞くんですね。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒を蹴るのはあなたにとって痛いことだ。」 パウロが「主よ、あなたはどなたですか。」と尋ねると、その方は「わたしはあなたが迫害してイエスである。」と答えられたのです。

 この出来事から彼は少なくとも四つの確信をもって生きることになるんですねえ。 
 第一は、十字架につけられて死んだはずのイエスが復活して生きておられるということ、つまりイエス・キリストはまことの救い主であったということですね。

 第二に、パウロはクリスチャンたちを迫害した訳ですが、イエス様は「どうしてわたしを迫害するのか。」と言われました。つまりイエス様は、ご自分と教会は一体であると言われたのです。

 そして第三に、復活したイエス様を迫害することは棘のついた棒を蹴るのと同じだよ、自分自身を傷付けることになるのだ、ということを彼は知ったのです。

 そして四番目に、イエス様に敵対し迫害に燃えていた自分のような罪深い者に対して福音をすべての人に宣べ伝える使徒としてイエス・キリストは選んでくださった。これは神の恵みの契約によるのだっていうことを彼は知ったのです。ですからパウロは、自己紹介の時にいつも、「私は自分の力ではなく神様の御心によってイエス・キリストの使徒とされたんです」と言ってるんですね。

 そして聖書はあなたにも今日語りかけているんです。イエス・キリストは十字架で知なれたけど復活されて今も生きておられるまことの救い主だ、ということをいうことを。イエス様は今も生きていて、求める一人ひとりを助け救うことができるのです。

 (PBA制作「世の光」2015.9.14放送でのお話しより)

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■神を知ろう/羽鳥頼和

2015年09月12日 | Weblog
2015/9/12放送


世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。今日も旧約聖書のエレミヤ記からお話しします。

 預言者エレミヤは人々の罪を嘆きながら神のことばを人々に語りました。神はまずエレミヤに人々の罪の状態を語られました。神は言われました。
 「彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる。まことに彼らは、悪から悪へ進み、わたしを知らない。」(エレミヤ書 9章3節)
 「彼らはしいたげに、しいたげを重ね、欺きに欺きを重ねて、わたしを知ろうともしなかった。」(エレミヤ書 9章6節)

 神の語ることばで印象深いのは、「まことに彼らは、・・・、わたしを知らない。・・・わたしを知ろうともしなかった。」ということばです。神を知らない、知ろうともしない、これこそ人の罪の姿です。

 続いて神は、人々の神に対する罪を語ってこのように言いました。
 「彼らは、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、それに歩まず、彼らのかたくなな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアル[偶像の神]に従って歩んだ。」(エレミヤ書 9章13-14節)

 これもやはり神を知らない、知ろうともしない人の罪の姿です。神はそれでも人々に語り続けます。人々が神を知ろうとしないことを明らかにした神は、続けて自分がどのようなものであるかを教えました。神を知ろうとしない人々にご自分を知らせたのです。

 エレミヤは真(まこと)の神は人々に恵みと公義と正義を行う方であり、そうすることを喜ばれる方であると人々に知らせました。神は人々に罪を教えることによって、人々が悔い改めて神に立ち帰る事を待ち望んでおられるのです。そしてご自分が人々に恵みと公義と正義を行う方であることを知らせると共に、信じる者にその恵みと公義と正義を行おうとしているのです。

 神は今も私たちに聖書を通して語りかけておられます。人について教えています。すべての人が罪を犯しており、そのままでは滅びなければならないことを、そして神について教えます。神はすべての人を愛して、神を信じる者に救いを与えることを。

 あなたも自分のことを、そしてまことの神を知ってください。明日は日曜日です。まことの神を知るために、お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.9.12放送でのお話より )
 
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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■今度は主をほめたたえよう --  レアの祈り/岩井基雄

2015年09月11日 | Weblog
2015/9/11放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 月の第二週の金曜日は旧約聖書に登場するヤコブの人生について学んでいます。今日は彼の妻となった二人の姉妹レアとラケルについてです。彼女たちの間にも様々な葛藤と涙があり、彼女たちもその悲しみの中で神様に取り扱われていきます。
 妹ラケルには子どもが与えられないという悲しみがあり、姉のレアには父に利用されヤコブに嫁ぎましたが、夫から愛されない、という悲しみがありました。美しい妹と自分を比較して育ったレアですから、ヤコブを更に7年間仕えさせるために父に利用されたそのレアの悲しみは夫に嫌われたことで更に深まったことでしょう。

 しかし神様はそんなレアを決して見捨てませんでした。聖書はこう語っています。  「主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。」 旧約聖書創世記29章31節

 レアはみごもって立て続けに三人の男の子を生み、その子たちの名前をルベン、シメオン、レビと名づけます。しかしその名前にはそれぞれ「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう。」、「主は私がきらわれているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった。」 、「今度こそ夫は私に結びつくだろう。」という意味があり、神様の祝福以上にレアの孤独や悲しみが表現されています。

 しかし神様はその悲しみの中でレアを取り扱われました。聖書はこの後のことをこう記しています。
 「彼女はまたみごもって、男の子を産み、『今度は主をほめたたえよう。』と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。」 創世記 29章35節

 妹との競争心や夫の愛への渇望から解放され、ただ神様を見上げるレアは今度は「主を誉めたたえよう」と主を賛美し、第四子の名前をユダとします。そしてこの後このユダの子孫にイスラエルを導くダビデ王が誕生するのです。

 私たちも様々な争いや競争、自分の願望を遂げようとする思いから解放され、神様に目を向け、神様を賛美するとき、新しい人生・神様の祝福を受け取る人生が始まるのです。どんな悲しみや苦難の中でも神様を見上げる人生をあなたも始めていきませんか?

 (PBA制作「世の光」2015.9.11放送でのお話しより)

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■主の前に広げた/福井 誠

2015年09月10日 | Weblog
2015/9/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主の前に広げた」です。それではイザヤ書37章14節、15節からお読みしましょう。
 「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。ヒゼキヤは主の前で祈って言った。

 信仰を持つというのは一瞬一瞬のことです。それは一度限りの行為ではありませんね。一度信じればそれで良いというものではないのです。

 随分昔の話ですが、私の人生には幾つか山はありましたが非常に苦しいと思った時がありました。人の助けも得られず孤立無縁に遭って目に見えない神頼る他は何もない、そんな状況に置かれたことがあります。そこで私は聖書のことばとそれについての短い説教を小さなカードに書き出しメモ帳に挟んで持ち歩いたのです。そんなメッセージカードを何枚か持ち歩いて電車の中でも職場でも心が折れそうになるたびに取り出して読んだことがあります。本当に聖書のことばに繰り返し繰り返し目を通して心支えられて一日一日を何とか生き延びた、と思った時でした。多分、神の愛と助けを語る聖書のことばがなければ今頃自分はこの世にはいなかったかもしれないと思うこともあります。

 ともあれ、そのように神のことばに支えられた人生は私の力となりました。ですから私は教会に来る人にもそんな事を勧めることがあります。誰でも受け入れてくれる訳ではありませんが、自分が実際に使ったメッセージ・カードを手渡して、「今日のお薬」であるとお渡しすることがあります。症状が強い時には「一日10分おき、あるいは5分おきに目を通してお祈りください。」と。最初はカードを手に戸惑う人も、真に追い詰められて孤立無縁の状況で神以外に頼るものが無いとなれば、必ず受け入れてくれました。

 実にこの章に描かれたヒゼキヤもそうであったのだろうと私は思います。彼はアッシリヤの脅迫状を手に宮に入りました。そして神の前にそれを広げて祈ったのです。

 私はラジオを聴く皆さんにもぜひ神のことばの力を知っていただきたいと思っています。人間ではない、神に頼ることの幸いを知っていただきたいのです。

 (PBA制作「世の光」2015.9.10放送でのお話より )

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■荒野の道へ / 板倉邦雄

2015年09月09日 | Weblog
2015/9/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。 今日は「荒野の道へ」という題でお話ししましょう。

 「急がば回れ」ということわざがあります。急いで事をなそうと思うならば、危険な近道よりも回り道でも安全な道を通っていきなさい、という意味ですねえ。

 さて、エジプト王がイスラエルの民族を去らせた時です。エジプトから故郷のカナンへ行く近道はペリシテ人の国を通る道でした。北上して直進すれば良かったのです。ところが地中海沿岸のペリシテ人の国家は強力な軍隊をもっていました。長い間奴隷としてこき使われ貧弱なイスラエル人にとりましてはペリシテ人との戦いに耐えることは無理だったでしょう。ですから主なる神様は、イスラエル民族を紅海に沿う荒野の道に回されたのでした。

 こうしてイスラエルの人々は荒野の端にあるエタムという所へ宿営しました。200万人近い人々が住むテントが張られたのです。これから40年間に渡って荒野の旅が始まります。テントをたたみ、またテントを張りながらの荒野の40年の礼拝生活でした。神様を自由に礼拝する、そのためにこそ奴隷の日々だったエジプトから脱出してきたのですから。

 私の伝道牧会する教会は今年で43年目を迎えています。私と妻と3人の若者とで始まった教会でした。集会所を点々と移動しながらの40年でした。神様を礼拝したいという一心でしたねえ。主なる神様を礼拝してゆこうとする人々に対し、主なる神様が人々の前に進んで行ってくれるのです。ちょうど羊の群れの先頭を行く羊飼いのようです。聖書の出エジプト記には、「主は昼は雲の柱をもって人々を導き、夜は火の柱をもって人々を照らし、昼も夜も彼らを進み行かせられた。昼は雲の柱、夜は火の柱が民の前から離れなかった。」(参照 出エジプト記 13章21、22節)と書いてあります。

 人生は荒野に喩えられます。迷いやすく弱い羊である私たちには私たちの先頭に立って導き進んでくださる主なる神様がどんなに必要でしょうか。私たちには良い羊飼いであるイエス・キリストと私たちの足の灯・道の光となってくださる聖書が必要なのです。

 (PBA制作「世の光」2015.9.9放送でのお話より )

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■主の祈り32  みこころの天になるごとく/大嶋重徳

2015年09月08日 | Weblog
2015/9/8放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった主の祈りという祈りがあります。主の祈りには「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」ということばがあります。

 この祈りの意味する所は忍耐です。実は聖書において「神の御心」ということばが出て来る箇所の多くの文脈で聖書を読む者たちに問われているのは信仰と忍耐です。時に、神様の御心が分るには心の平安があることだ、と言われることがあります。しかしここには心の平安という罠があります。なぜならば示された御心を受け取るには忍耐を要することがあるからです。

 イエス・キリストの母マリヤは彼女がまだ10代の少女であった時に天使が現れて、「あなたはメシヤを身籠ることとなる。」と伝えられました。その時、マリヤは「この身に御心がなりますように。」と答えたのです。一見美しいクリスマスの記事のようにも見えますが、これがどれほどの信仰と忍耐が必要であったでしょうか。

 実際、「神様の子どもを妊娠できるの?? やったあ!」ということはなかったでしょう。既にいた婚約者ヨセフの顔がちらついたはずです。もしかすると自分は婚約者から捨てられるかもしれないという人生の危機に置かれたのです。更にお腹が大きくなる10ヶ月の間、多くの人の目にさらされて多くの誤解と非難の目の中を生きることにもなりました。事実、イエス様がご自分ではっきりと福音を伝え始められるまでの30年間は不思議なことがあったなあと思いつつも彼女の若い頃に起こった出来事の意味ははっきりとは分からないままだったのです。しかしマリアは30歳になったイエス様が福音を伝え始める姿を見て、やっぱりあの30年前の神の使いのメシヤを生むということばは本当だったと受け取ることができたのです。彼女が祈った祈りが実現するのを見ることができるには30年以上の年月が必要でした。

 イエス様の十字架も神の御心ではありましたが、イエス様ご自身が受けとめるためには心の平安と言うよりも血の汗を流されるほどの苦しみがあったことを忘れることはできません。

 私たちが救われるためにも父なる神の忍耐がありました。御心が実現していくとき、私たちには忍耐が求られるのです。忍耐の民として今日も希望を持って主の祈りを祈りたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2015.9.8放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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