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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■すべてを益に/関根弘興

2015年09月07日 | Weblog
2015/9/7放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 新約聖書の後半にある多くの手紙を書いたのはパウロです。彼は様々な地域を旅して回り、イエス・キリストの福音を伝えていきました。今のように交通機関が発達している訳ではありませんから旅をするだけでも大変だったと思います。そして信仰のゆえに迫害を受けたり投獄されるなんていうこと事もですねえ何度もあったんですね。

 新約聖書にパウロが記したエペソ人への手紙というものがありますけども、これはパウロがローマで軟禁生活を余儀なくされた時に書いた手紙なんです。もし皆さんが捕えられ自由を奪われたらどんな手紙を書きますか? 私なら「信仰を持っているというだけで自由を奪うのは不当だ! 早く何とかしてくれ。良い弁護士をつけてくれー!」と言うような手紙になるのではないかと思うんですが、軟禁状態にされ自由を奪われるわけですから、普通ならこれマイナスとしか考えられませんよね。でもパウロにとってはその時間は外に出られない代りにじっくりとイエス・キリストの恵みを思い起こし、深遠な手紙を何通も書くことに繋がっていったんです。

 今日あなたにぜひ知って欲しいことがあります。それは人生には自分の願い通りにならないことがしばしばあるということです。しかし聖書を開くとこう記されています。ローマ人への手紙8章28節
  「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
  なんと励まされる約束でしょうねえ。神がすべてのこと働かせて益としてくださると約束されているんですから。

 それではこの約束はどのような人に与えられているのでしょう。それは「神を愛する人々すなわち神のご計画に従ってなされた人々のためには」と書いてありますね。神を愛する人々に約束されたのです。

 神を愛する人々ってどんな人でしょう。「神様なんか知るものか。神様なんか信じない。」と背を向けている人でしょうか? そのような人は神様が差し出す助けを受け取ろうとしませんね。神様を愛するとは心から神様を敬い礼拝するという姿がそこにあります。つまり「私たち一人ひとりは弱い存在ですけれど、神様が私を支え生かしてくださってることを信じ歩んで行きます。神様感謝します。」と告白している一人ひとりのです。

 私たちは明日のことが分りません。でもすべてを益にしてくださる神様がいてくださるなら、勇気をもって生きていくことができますよね。

 (PBA制作「世の光」2015.9.7放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■わたしはことごとくは滅ぼさない/羽鳥頼和

2015年09月05日 | Weblog
2015/9/5放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は旧約聖書のエレミヤ書からお話しします。

 エレミヤは南王国のユダで神のことばを語った預言者です。その頃ユダの国は北はバビロニヤ、南はエジプト、当時最強の二つの国に挟まれた状態にありました。神はエレミヤに語りました。「わたしは北から災いをもたらし国も町も廃墟とする。北からバビロニヤがすぐに攻めてこようとしている。あなたがたは自分の行なっている悪を悔い改めなさい。あなたがたが悔い改めないなら、わたしはあなたがたをバビロニヤによって滅ぼす。」 (参照エレミヤ書 25章5~9節)

 エレミヤはユダの国の様子をみます。正しい人が一人もいません。神から警告を受けているのに人々は神の言われることを聞こうとしません。指導者たちも神のことを忘れてしまっています。人々はまことの神を捨てて偶像に頼っています。そのようなひどいユダを神が裁かれるのは当然のことでした。

 ところが神は続けてこう言いました。
 「しかしその日にもわたしはあなたがたをことごとくは滅ぼさない。」(参照 エレミヤ書 4章27 節、エレミヤ書 5章18節) 「ことごとくは滅ぼさない」というのは、悪い者を滅ぼすが人々の中に神を恐れ敬う人がわずかに残っていてその人は滅びから免れて生き残り、神が国を再建するというのです。神の厳しい裁きは人々を悔い改めさせる機会であり、国を再建するためでもあったのです。

 旧約聖書の伝道者の書7章13節14節にこのようにあります。
 「 神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。」

 すべてのことに神は関わっておられます。しかしその全てを人は知ることができません。ですから謙遜になって、良いことがあった時は神に感謝し、困ったことがある時は自分を顧みて反省し、神を信頼しよう、というのです。良いときに神に感謝し、困ったことがある時、神に信頼するなら私たちの人生はいつも神によって守られ導かれていることを実感することができるでしょう。

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にぜひいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2015.9.5放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■年を重ねる恵みと豊かさ/岩井基雄

2015年09月04日 | Weblog
2015/9/4放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
  今日は旧約聖書の詩篇92篇から、「年を重ねる恵みと豊かさ」と題して人生の恵みを共に考えてみましょう。今月の半ばには敬老の日を迎えますね。今の私たちの歩みを力強く支えてくださっている人生の先輩たちの存在の重要さを思います。年を重ねていくことには寂しさを覚えることも時にはあるでしょね。しかし聖書は、年を重ねることの祝福を語り、経験や知識を重ねる中で本当に真実なのもの正しさを求める歩みへと導かれていくその恵みを語っています。

 詩篇の92篇の12節から14節をお読みします。
 「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。

 ここに「正しい者」とありましたが、聖書が語る正しさは欠点や間違いが無いという正しさではなく、神様の前に自分の弱さや愚かさを正直に認める真実さ謙遜さをも意味することばです。若い時には自分の心の闇を正直に見つめることができなかった人が人生の後半で真実にまた誠実に歩むことの恵みを教えられ、人の前以上に神様の前に真実に歩むその正しさということができるでしょう。

 神様の前にも人の前にもへりくだって真実に自分の心の闇を認め誠実に歩む人はなつめやしの木のようにまっすぐに成長し、レバノンの杉のように力強くまた豊かに成長していくというのです。 そしてその人は神様の近くに人生の基盤を置き、ゆるぐことのない神様の大庭で豊かな祝福と恵みを味わい続けていくことができるのです。 更に、年老いてなお豊かに実を結び潤いと輝きのある人生を歩むことができるというのですね。

 その人生の鍵は、神様の前における真実さと誠実さです。神様の前に自分の愚かさや罪深さを正直に認める正しさ、人の前にもへりくだって誠実に歩む豊な歩みは私たちが年を重ねていくごとに、実るほど頭を垂れる稲穂のように祝福と恵みを人生の中で味わい尽くしていくのです。あなたの神様の前にへりくだり、真実に誠実に歩むその人生を歩み始めて行きませんか?

 (PBA制作「世の光」2015.9.4放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■何により頼んでいるのか/福井 誠

2015年09月03日 | Weblog
2015/9/3放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「何により頼んでいるのか」です。それではイザヤ書の36章4節5節から読んでみましょう。
いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。 口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。
  
 イザヤ章36章の記事は続く37章と共に第二列王記にもでて来るものです。つまり歴史的な出来事をそのまま描いているものですね。この時アッシリヤ帝国は広くパレスチナにまで影響を及ぼし、エルサレムまであと2キロという場所にまで進出していました。実の所当時のイスラエルは無条件降伏をしていてアッシリヤの属州とみなされていましたが、その後エジプトに援軍を求め、アッシリヤから独立しようとしたのでアッシリヤの王セナケリブは怒りに任せて徹底的にイスラエルを叩き潰そうとしていたのです。

 セナケリブ王はラブシャケという将軍を遣わしてイスラエルを脅迫して言います。「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。 エジプトに拠り頼むことは傷んだ葦の杖に拠り頼み、」、つまり全くあてにならない、と言います。そして、自分たちの攻撃はイスラエルが拠り頼む神の差し向けである、と言います。しかしラブシャケはイスラエルの神を信じていた訳ではありません。ある意味で、神などいる訳が無い、そういう態度ですね。そしてこの天地はすべて自分が手にしている、思いのままにしている、と思いあがっているのです。

 問題は私たちもこのように赤子の手をひねられるかのように巨大な脅威によって踏み潰されそうになることはあるということです。そんな時にどうしたらよいのか、ヒゼキヤとイスラエルの民の姿が私たちに一つのありかたを教えます。つまり彼らはこのアッシリヤの脅威に黙って一言も答えませんでした。むしろこの脅威を脅威として受け止めながらも、神がどのようにその脅威を取り扱われるのか静かに見定めていく信仰を持っていたのです。

 信仰があるということは強いことですね。確かに必要なのはこの世界を支配しておられる神に対するまったき信頼です。あなたにも、聖書を読むことで本当は何に拠り頼むべきなのかを知っていただきたいと思います。


 (PBA制作「世の光」2015.9.3放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■私たちは誰のもの / 板倉邦雄

2015年09月02日 | Weblog
2015/9/2放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「私たちは誰のもの」という題でお話ししましょう。

 私たちは一体誰のものなのか、親のものか国家や社会のものなのか、自分のものなのか、夫や妻のものなのか。ある意味ではそうかもしれません。しかし、究極的には誰のものなのでしょうか。聖書は語ります、私たちは神のものである。

 さて主なる神様はモーセに言われました。「イスラエルの人々の内ですべての初子すなわちすべて初めに胎を開いたものを人であれ動物であれ、みなわたしのために聖別・区別しなければならない。それはわたしのものである。わたしの所有である。」(参照 出エジプト記13章2節、34章19節)と。聖別とは主なる神様のために区別されたものとして神のために尊く用いるようにしなさいという意味です。

 なぜ主なる神様は人や動物に対して所有権を主張するのでしょうか。それは人も動物もそして植物も主なる神様が創造されたからです。私たちを造られたのは創造主である神様です。私たちは創造主である神様のものです。私たちの身体も魂もそして霊も神様のものであって私たちの所有ではありません。主なる神様が造り、神様のものですから、どんな人でありましても神様の目の前では高価で尊い存在なのです。かけがえのない大切な人なのです。

 私の息子が小学生の時でしょうか、冬休みの宿題で本箱を作りました。家に持って帰ってしばらく自分の机の上に置いておきました。年末になったので、「この本箱、捨てるよ。」と言うと息子は「捨てちゃだめだ。」と答えました。親の目から見たら捨てたくなるように見える本箱も作った息子の目には大事な本箱だったのですねえ。

 さて、作られたものにはすべて目的があります。主なる神様に造られた私たちは神のために存在しています。主なる神様が「すべての初子をみなわたしのために聖別しなさい。」と言われたのはその意味でした。私たちは神様のために用いられる尊い器となるためにこの世に生まれてきたのです。

 聖書のことばです。
 「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」と主なる神様は言われました。
     イザヤ書の49章16節です。この神様のことばを受けてマザー・テレサはこう
言ったのです。「私は神の毛の中にある鉛筆です。神が考え、神が描くのです。」

 (PBA制作「世の光」2015.8.19放送でのお話より )

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■主の祈り 31 みこころの天になるごとく/大嶋重徳

2015年09月01日 | Weblog
2015/9/1放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった主の祈りという祈りがあります。主の祈りには「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」ということばがあります。

 「御心をなさせたまえ」と祈るとき、私たちは、この日までに、という期日を定めて祈りはしません。主の祈りを祈り私たちが神の御心が成就することを何よりも願うときに、私たちが直面させられる問題の一つは、待つという姿勢を保てるかどうか、ということでしょう。この待つということこそ御心をなさせたまえという主の祈りの心と言っていいでしょう。

 しかし現代は待つことが苦手な時代です。私たちは自分たちの求めているものは今すぐに手に入るように求めたがります。スーパーのレジでも自分の並んだ列の前の人がゆっくりしていると、ああ、ここを選んで損した、と思うのです。ほんの何十秒にもかかわらず待てません。しかし聖書の第二ペテロ3章(8節)には、「主の御前では一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」と記されています。こういう聖書のことを見てしまうと、神のなさる時がいつなのかは人間に分りません。私たちは自分の祈りが私に必要であるならば神様はすぐに答えてくださるということを信じる一方で、それがふさわしくないならばその願いはすぐに叶えられないこともあると言うことを信じることが求められるのです。

 私たちは主の祈りで「御心がなりますように」と祈りながら、神がなされる最良の時を過ごすのです。もしかするとそれは自分が生きている時ではないかもしれませんが、忍耐をしながら待つのです。神の御心を待つ者にとって忍耐こそ最も大切なこととなるのです。待つ祈りとは私たちの忍耐を成長させる祈りとなります。忍耐深く祈るこのことは、私たちが神様を思い通りにしようとする罪深い誘惑から守ってくれることとなります。「御心がなりますように」という待つ祈りは私たちの信仰の力を鍛えます。この祈りは忍耐という信仰を鍛える筋肉トレーニングをしているのです。「御心がなりますように」という祈りをなすときに、私たちは神様の最良の時を持つことができる信仰になりますように、と言うことをもともに祈っているのです。

  ( PBA制作「世の光」2015.9.1放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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