世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。
あのー、江戸時代の狂歌--戯れ歌でしょうか--の作者として知られている燭山人の辞世の句に、「今までは人のことだと思うたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」というのがあるそうですね。人はみな自分が現実のことにならないうちはさっぱり無関心という所がありますよね。何か大変なことが起きて同情する時でも、(ああ我が家のことでなくて良かった)というような安心感が潜んでいたりしますね。老いることも死ぬことも人のこととしか考えられない感覚が、ひとたび我が事となった時にあわてふためく原因にあるんだろうなあと思うんです。
えー、ある人が、「何でも豊かになったと言う日本に、この頃乏しくなったものがある。それは苦しんでいる人を見て我が事と思えない心である。」というふうに言ってましたけれども、本当だなあと思うことがあります。今の世相を見ると実に憤慨に耐えないという方でも、その冷たい利己的な世相を見て「まったく今の世の中は」というような言い方でそれを自分の問題として捉えていない所に問題があるのかもしれませんね。苦しみ悩み悲しみ困っている人を見て我が事と思っていないというだけでなくって、醜い行為をしたり罪を犯したりする人を見ても我が事とは感じ難いってこともあるのではないでしょうか。
聖書の中に人々が不品行な事をした一人の女性をイエス様の所にひきずってきて、「この女は石で打ち殺されてもしかたのない事をしたんです!」って言ってわめいたんですね。その時イエス様が、「みんなの中で罪のない者がいたら、石を投げてごらん。」と言われました。誰ひとり石を投げる者はいませんでした。罪はひとごとではないと分かったからですねえ。創造主であるまことの神様は罪に陥って苦しむ人間をひとごととして見ていられない愛の神様なんですね。聖書に、「彼らが苦しむ時には、いつも主も苦しみ」とありますけども、この愛の神は人間の悩みに関してだけでなくって、その悩みの根源である罪についても我が事として引き受けてくださり、御子を世に遣わして私たちの罪を十字架にかからせてくださったんですね。この愛に触れて、この愛に溶かされる時に私たちは人ごとという無関心の罪、鈍感さから救われるのかなあと思うんですねえ。そして愛に生きる生活を生きていく者にとっては老いや死が我が事となった時にも慌てふためくことがなくなるのではないかなっていうふうに思わされます。
( PBA制作「世の光」2005.8.1放送でのお話しより )
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