ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

いろんなできごとを面白がってしまおうと思っています。
日常のあれやこれや記事です。

善意・悪意、加虐

2008-09-06 10:53:05 | 本や言葉の紹介
 武蔵浦和“ふうるふうる”のたらです。



 田口ランディさんの対談集『生きる意味を教えてください』(バジリコ)から、映画監督で作家の森達也さんの発言をご紹介します。

 ▼
●僕はね、最初の映画である『A』撮影時に、初めてオウムの施設に入って信者たちの日常を撮ったとき、事件直後だから世間では、『凶悪な殺人集団』とか『洗脳されて自分の意思を持たないロボットのような集団』などと言われていた彼らが、とても優しくて純粋で善良であることに衝撃を受けたんです。だからこそ考えねばならない。邪悪で凶悪だから人を殺すわけじゃない。むしろ善良で純粋で優しいからこそ、人を殺す場合があるんです。それも大量に。悪意が燃料になった場合は数人が限度です。人はそれほど強くない。でも善意や正義などが燃料になったとき、人はとても大勢の人を殺戮します。なぜなら摩擦係数が少ないから。だからホロコーストでも、あるいは文化大革命とかポルポトとか、これほどの規模の戦争や虐殺を考えるときは、悪意よりも善意を射程に置くべきだと僕は思っている。

●(ポーランドのある村の名士の息子が、自分にはとても優しかった父がユダヤ系住民の虐殺に積極的に荷担したことを知って慟哭したという「NHKスペシャル]のドキュメンタリーを例に引いて)
 人は優しいままに残虐になれる。だから僕は思うんだ。加虐だけを攻める。被虐だけを語り継ぐ。どちらも充分じゃない。特に加虐する側の矛盾、もっと端的に言えば、加虐する側の優しさや善良さ、この属性を僕たちは直視せねばならない。その矛盾や二律背反性に引き裂かれねばならない。

●善意って制御できないんだよね。悪意のほうが制御可能。善意は気持ちいいんです。陶酔できる。だから怖いんだけど。
 ▲


 「悪意が燃料になった場合は数人が限度です。人はそれほど強くない。」「悪意のほうが制御可能。」という発言には全面的な賛成はしかねますし、「加虐する側の優しさや善良さ、この属性を僕たちは直視せねばならない。」では、それは属性ではなくて本性のひとつだと言いたいです。
 でも“善意”や“善良さ”などについてのこういう意見は心にとめておくほうがよいことだと思います。

 実際、自分は善人だと思っている人の言動って“こわい”ことがけっこうあります。
“小さな親切=大きなお世話”程度ならまだいいけど、それが戦争のような加虐も引きおこす場合がある……。

 そうならないように、自分の中のいろいろな感情や考え方のくせなどをきちんと把握し理解することはとっても必要だなと思ってます。
 他にもいろいろと考えたり省みたりするきっかけをくれたこの本に感謝。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿