ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

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そうか、“呪い”だったのか

2008-06-18 09:57:45 | 本や言葉の紹介
武蔵浦和“ふうるふうる”のたらです。


▼(内田樹さんのホームページ6月17日から)
気づかぬうちに私たちの社会には「他人の苦しみをおのれの喜びとする」タイプのマインドが瀰漫しつつある。
自分には何の直接的利益もない(どころか、しばしば不利益をもたらす)にもかかわらず、それによって自分以上に苦しむ人がいるなら、その苦しみを自分の「得点」にカウントする風儀がいつのまにか私たちの時代の「ふつう」になってしまった。
他人の苦しみをおのれの喜びとすることを「呪う」という。
この古い日本語がメディアから消えると同時に、日本中の人々がそれが「呪い」であることを知らずに、「呪い」の言葉を吐き散らすようになった。
(中略)
むろん、呪いは祓われなければならない。
それは「呪うものは呪われよ」ではない(それでは呪いは増殖するばかりである)。
「呪詛には祝福」と人類の黎明期から決まっている。
「他者の喜びをおのれの喜びとする」ことである。


 内田のたっちゃんたら! さすがです!! なんか変だなあと思っていたことを、さりげなーく言ってくれました。

 もう何年も前、サッカーのN選手に賞賛が集まっていたころに聞いた言葉です。
「Nはね、絶対に私と同じ○○出身だと思う。
 ○○のくせにそれを隠してるのってむかつく。
 いろんなところでばらしまくってやりたい。
 メディアで叩かれまくればいいきみだ。
 つぶれてしまえ」
 さも憎々しげに吐き捨てるような言いかたでした。

 私の反応は「???」
 ……そう語ったかたは○○出身ということをマイナスと思っているのですが、自分が同じ立場で、同じ出身者がとっても活躍しているなら、「嬉しいね」「よかったね」「がんばってるね、応援するよ」と思うだろうなと考えたからからです。
(もちろん、私が思いも及ばないようなつらさを経験なさっておいでなのでしょうから、私がそのように思ったのは“しょせんは大甘ちゃんの考え”かもしれません)

 これほどあからさまではありませんが、同じような場面に遭遇することがけっこうありました。
 例えば、友人に彼・彼女ができた、仕事がうまくいった、地位が上がった、子どもが優秀な成績を取った、●●を買った等々を聞いた場合です。
 その相手に面と向かっては「よかったね」と言うそうですが、でも心の中では「なんであんな人がいい思いをするんだ」「私のほうが素晴らしいのに私は損している」「自分ばっかりが貧乏くじを引いている」「いやなことは全部私に押しつけるくせに」と思ったと、そんな言葉をしばしば聞いたのです。
 他人の喜びを自分の苦しみにしてるんだなあと感じました。なんか変だなあ、と。

 これって、内田樹さんの表現だと“他人の苦しみをおのれの喜びとすること”に通じるし、それが“「呪う」という”ことですよね。

 “さすがは内田のたっちゃん”と思うのは、呪いを払う方法を言ってくれていること。

 “ 「呪詛には祝福」と人類の黎明期から決まっている。
   「他者の喜びをおのれの喜びとする」ことである。 ”  と。

 他人の喜びを自分の苦しみにする“苦行”をするより、
 「あなたが幸せになって機嫌よく暮らしてくれることで、まわりも私も機嫌よくなれて嬉しい」
 「他人の喜びを喜べる自分に感謝!」
と、そう楽しめる“楽業”をしたほうが気持ちいいよ。   

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