新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

日の丸弁当

2008年02月29日 07時34分51秒 | 身辺雑記

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日の丸弁当   2008年2月20日

 春一番が吹く前、2月20日に撮った写真で恐縮です。

 紅梅が丸い塊となって咲いていました。

 子供のころの「日の丸弁当」を思い出し、パチリと撮ってしまいました。

 太平洋戦争が終わってしばらくの間、日本は衣食住が大幅に窮乏し、特に食糧不足に喘いでおりました。

 そんな日本の窮状を救おうとして、日系アメリカ人が中心となって設立された「日本難民救済会」の活動により、昭和21年以降しばらくの間、「ララ物資」という名の救援物資が日本に届けられました。

 当時の日本は、「難民救済」の名前がついたほどの状態でした。

「浮浪児」という名前をつけられた子供たちが、地下道や公園にたむろしていた時代です。 

 どのような物資が送られて来たのか、小学生だった私の記憶に、はっきりと残ってはおりません。(私の記憶は、まことにいい加減で困ります)

 その中には、豆かすのような物資も含まれていたように思います。

 各家庭ではそれを粉末にして、団子を作って食べたりしました。

 それほど食糧が不足していた時代でした。

 そのころは「食糧管理制度」によって、食糧の配給制度が施行されておりました。

 一時はお米などはなく、サツマイモやジャガイモなどの配給を受けていたのです。

 そんな時代でしたから、「日の丸弁当」は大変なご馳走です。

 アルマイトの弁当箱にご飯を詰め、真ん中に梅干し一つ。

 今になってみればとても質素な弁当だったのに、みんなが羨ましがる時代でした。

 その窮乏時代を乗り越えて、今の日本があります。

 多くの先輩たちの努力が、今の日本に復興させてくれました。

 私たちはそのことを、時には思い出すべきではないでしょうか。

 豊かになることは素晴らしいことです。

 しかし豊かに慣れすぎて、豊かさのありがたさを忘れてはいけないと思います。

 日本の食糧自給率は、カロリーベースで39パーセントだそうです。

 冷凍食品の問題は、日本人に何かを問うているのかも知れません。

 紅梅の丸い塊が、私に「日の丸弁当」を思い出させてくれました。

 思い出しているだけで、何もできない自分を恥じております。

 これから仕事場へ。

 

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止められない暴力

2008年02月28日 06時37分18秒 | 身辺雑記

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枯れ草の中にタンポポ 2008年2月20日

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ヒッツキ虫は健在  2008年2月20日

 先日は見事な春一番であった。すぐその後に、強い北風を引きつれ て吹きまくった。

 そのせいか、今日はまだ肌寒さが残っている。

 今日の写真は、2月20日のタンポポとヒッツキ虫。

 記事とは関係がないので、念のため。

 高校時代からの親しい友人に、K君がいた。

 学部は違っていたが同じ大学に入り、お互いに親友だと思っていた。

 どれほど彼の世話になったか、数えればきりがない。

 きっと私も、彼の役に立ったことがあったに違いないが、ギブアンドテイクを計算していたわけではなかったので、プラスマイナスの評価はできない。

 彼の結婚は、私よりもずっと早かった。

 結婚の相手は、料理屋の女将代理をしていたS子さんで、いかにも玄人風の美人であった。その小料理屋は花街の一角にあって、二次会風の客で盛っていた。

 S子さんはもともと花街育ちではなく、下町育ちの勝ち気な娘さんであった。

 大学を卒業して製紙会社に入社したK君が、その会社でS子さんと知り合ったのだ。

 ところがS子さんは、会社員のまま過ごせる女性ではなかった。

 叔母さんが小料理屋をしていたから、早々に女将代理にスカウトされてしまった。

 そのような環境下での恋愛だったため、結婚問題ははかばかしく進展しなかった。私もK君に駆り出され、S子さんの家に談判に行ったことがあった。

 それからさまざまな紆余曲折をたどったが、一年ほどの後、二人は結婚式を挙げた。

 結婚を許された際の条件は、S子さんが女将代理を続けることだった。

 当初はアツアツだった新婚生活も、一年を過ぎるころから暗雲がたれ込め始めた。S子さんの行動に疑問を抱き、K君が焼きもちを妬き始めたのだ。

 花街の小料理屋なので、疑い始めればきりがなく、ギリギリの話、疑うか信じるかにかかってしまう。

 そんな雰囲気の中で、K君の暴力沙汰が始まった。

 K君の話を聞けば彼の言っていることは理解できたし、S子さんに聞けば彼女の話も理解できた。

 浮気をしているか、それとも噂に過ぎないかなど、当事者の気持ちの中の話で、いくら親友と言えども、私には踏み込めるものではなかった。

 ある深夜、S子さんから、野球のバットを振り回して暴れた証拠として、痣などを見せられた。暴力をふるったとなれば、K君の非は明らかだ。浮気をしたかどうかの問題を越えてしまう。

「このままでは私は殺されます。別れさせて下さい」、とS子さんに泣いて頼まれた。私としても、K君を説得するしかなかった。

 明るい気だての綺麗な人だったが、K君には縁が薄かったようだ。

 離婚話はスムーズに進んだ。

 K君はその折りの私の動きが、きっと気に障っていたかもしれない。

 数年して、K君は再婚をした。

 再婚と同時に、K君は損害保険の代理店を始めた。高度成長期にさしかかっていたので、業務は順調に拡大して行ったらしい。

 男の子が三人うまれ、家庭も円満に行っているはずだった。

 ある日の深夜、K君の奥さんから電話があった。暴力に耐えられないので、別れたいとの話であった。

 夜中にすっ飛んで行った私が見たものは、奥さんの痛々しい傷だった。

 またもや、彼の暴力が始まったのだ。

 しかし今度は、スムーズに別れ話はまとまらない。奥さんが逡巡したのだ。その後の生活に不安があったようだ。

「今この人と別れては、子供を育てられません」 

 奥さんの逡巡の理由だった。

 K君の暴力が問題なのだ。暴力をふるわなければいいのだが、彼は改めることが出来なかった。

 私との話では納得する。絶対に暴力はふるわない、と彼は幾度も私に誓った。

 しかし、その誓いは空しかった。

 もう私の出番はなかった。あとは夫婦の問題と思わざるをえない。

 かつての親友も、いつの間にか遠い存在となっていた。

 K君の暴力に脅えながら、奥さんは最後の決断が出来ずにいた。

 離婚に踏み切れなかった奥さんの真意は、とうとう分からずじまいだった。

 夫婦とは、そんなものかもしれない。

 K君一家のその後を、私は知らない。

 今日は早朝から外出。

 

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荒びたり

2008年02月27日 14時09分03秒 | 写真俳句・エッセー

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春一番音蹴散らして荒びたり

 去る2月23日、私たち夫婦の恒例となっている外出日だった。

 気象情報によれば、太平洋上を低気圧が進むので、23日の午後3時ごろから強い北風が吹き、また寒い冬に逆戻りすると言われていた。

 ところが昼過ぎから、南西からの強風が吹き始めた。

 寒くなる予報だったが、その時点では、気温はあまり下がらなかった。

 テレビニュースでは、「関東地方に春一番」と報じた。

 そのころ私は息子の家。風邪で高熱を出している孫と遊んでいた。

 「風邪がうつったら大ごとだから、頼むから離れていてくれよ!」、と息子に諄く言われた。

 「人にうつせば治るんだから、そのほうがいいじゃないか!」などと言いながら、私は孫とべったり密着して遊んだ。

 その内に空模様が怪しくなり、北風に変わった。

 春一番とは、立春のあとにはじめて吹く強い南風のこと。北風に変わった時点で、気象環境に変化があったということらしい。

 気温が急速に低下するかもしれない。

 強風に弱い首都圏の電車運行が懸念されたので、未練を残しながら引き揚げることにした。

 しかしすでに遅く、電車はガタガタに遅れ、交通機関の弱体を露呈していた。

 首都圏の交通網は、かなり整備されているように見えるが、気候変動には極めて脆弱だ。

 春一番で乱れる交通では、何かがあったらどうなってしまうのだろうか。

    春一番音蹴散らして荒(すさ)びたり  鵯 一平

 風邪をうつしてもらうつもりだったのに、私はまだ発病していない。

 どなたかのブログに、砂塵の中で撮った根性豊かな写真があった。

 私の写真は、春一番の日の写真ではなく、穏やかな前日のものである。それが証拠に、空に砂塵が舞っていない。

 梅の枝の向こうに、防災放送の鉄塔が立っている。

 強風の中で撮影する根性はなく、少しばかり情けない私である。

 

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タデ食う虫

2008年02月26日 08時39分12秒 | 身辺雑記

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湖の夜明け  平成16年8月25日

 写真を整理していて、上のカットにぶつかった。

 いい評価を受けられそうもない写真、だがこの写真は捨てられなかった。愛着があった。

 湖の向こうの山並みから、太陽が昇ってくる。雲のかかり方によって、うまく焼けてくれるはずだった。しかし、雲が厚過ぎた。5時25分にシャッターを切っている。

 妙な朝焼けになってしまった。焼けていない。

 おどろおどろしいところも不評の原因なのだが、私にはそれが捨てがたい理由なのだ。

 未練がましく保管していて、ブログに使おうというのだから、私もかなり厚かましい。

 つまり、これは好きずきなのだ。

 私が住んでいる地域に、「玉葱の会」(仮称)という集まりがある。

 60歳代の女性が中心のグループで、男性4人を含む十数人の会だ。私が最年長。

 夫婦で参加しているのは私たちだけ。まあ、気の置けない人々の集まりだと思っている。

 世話人はもっとも若い50代男性に頼み、一日コースの散策か一杯会を開いている。

 男性の一人に60歳くらいのT氏がいる。野菜農家と造園業を営んでいる気のいい人物だ。

 飲み会のたび、参加者の送り迎えをしてくれるほど、世話好きな人である。

 ところが、奥方のT夫人は大の焼き餅焼きで、催しが終了するたび、あちこちに電話をしまくる。

 つまり、その後のダンナの動静を探っているのだ。S子さんとのことが引っかかりの最大の原因らしい。

「ウチのダンナ、それからどこかへ行った?」

「Sちゃん、まっすぐに帰ったのかしら?」

 そんな調子のやり取りを、電話でするらしい。

 S子さんは40代後半で、離婚したばかりの二人子持ち。男性なら誰でも親切にしたくなるような憂い顔の美人である。70代の私ですら、つい親切心が湧いてくる。

 だからこそT夫人のヤッカミが始まるわけだ。

 いっそのこと夫人も「玉葱の会」に出席すればいいものを、絶対に出席はしない。

 S子さんとは並びたくない。優劣は明白だからだろうか。

 植木職人でありながら、樹木から落ちて腰骨を折ってしまうT氏。

 一方は憂い顔の40代未亡人。

 あり得ない取り合わせなのだが、「計り難きは男女の仲」、「蓼食う虫も好きずき」、「縁は異なもの」などなど、理屈を越えるのが男と女の仲。

 つまり人は好きずき。

「蓼食う虫も好きずき」だからと言ったら、かなり失礼なことになるのだろうか。 

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酒二合

2008年02月25日 09時33分32秒 | 身辺雑記

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酒二合 我がはらわたの処方箋

 ブログだから打ち明けられる話です。

 私の一族は、酒を呑めない者が多く、なかでも父はまったくの下戸でございました。

 お猪口半分ほども呑めば、真っ赤な形相になり、息苦しそうにして横になってしまいます。

 仕事関係の方々も承知してくれていて、酒席は少なかったようです。かりにそのような羽目になっても、ほとんど呑まずに帰ってまいりました。

 ただ一度だけ、父の大狂乱を見たことがございます。

 どれほど呑んだのか知りませんが、すっかり仕上がった様子で帰ってまいりました。

 いつもより饒舌ではありながら、気分が悪い風でもなかったので、それほどの量を呑んだとも見えませんでした。

 ところが驚いたことに、家に入るやいなや、「踊る!」と言いはじめ、素っ裸になったのでございます。

 私たちは呆気にとられ、声も出せませんでした。謹厳な父でしたので、思いもしない光景でした。

 もっとも驚いたのは母だったようです。笑いながらも、腰が抜けたような状態でございました。

 弟にお盆を持ってこさせ、踊りとも言えぬ妙な手つき腰つきで踊り、ほんの1~2分ほどののち、バタンキューと倒れました。

 醜態と言えば大醜態なのですが、私たちは別な父を見ることができたのでした。

 母は小言や苦情を言いませんでした。父の意外な一面を、歓迎していたようにすら見える母でした。

 そのような父の子供でしたから、私の弟たちも下戸に近い実力です。

 私もまったく駄目でした。

 母は酒を苦手としていた私を、心配していたようです。多少は呑めた方がいいと思っていたような節がありました。

 私の帰省のおり、こっそりとお燗をつけてくれたりしたこともありました。

「男なのだから、少しは呑めなくてはね」と、言われたこともございます。

 だからといって、すぐに呑めるようにはなれるものではありません。

 ビールですらグラス半分で気分が悪くなり、汚い話で恐縮ですが、「小間物屋」の店開きをしてしまう有様でした。

 ところが、「小間物屋」を幾度となく繰り返しているうち、少しずつ酒量が進み、いつの間にか大酒呑みと言われるほどになっておりました。進化したのか堕落したのか。

「酒は吐きながら強くなる」という話を、地でいったわけでございます。

 もちろん酒を呑んでいただけではありません。口幅ったいことを申し上げれば、高度成長時代の一戦士として、気概をもって働いていもおりました。

 一方では、家庭を顧みなかったことに、今も心塞がれる思いがあります。これは私の密かな反省でございます。

 やがてカラオケの時代がまいりました。酔いにまかせ、調子はずれの歌を夜な夜な歌い歩く不行跡を、かなり長い間続けておりました。

 カミさんの立場から言えば、とんでもない遊び人だったかも知れません。

 しかし、もとより強い体質の私ではありませんでした。過激な酒と仕事が祟り、当然の報いとして、体調が乱れ始めたのでございます。

 慌てて酒量を減らそうと努力しましたが、習慣とは恐ろしいもので、もはや一朝一夕で断酒はおろか節酒もままなりませんでした。

 そのころ自戒の気持ちをこめて、「酒二合 我がはらわたの処方箋」を作りました。

 酒に魅入られてしまってからではもう遅かったのです。ついには病を得てしまいました。

 今度こその決意を込めて、「川柳もどき」をご披露する次第でございます。

 「二合までは許容する」、という意地汚い中途半端さ。

 そんな優柔不断な私を、私自身が咎めている昨今でございます。

   酒二合 我がはらわたの処方箋    鵯 一平

      (写真はイメージ写真を使用しました)

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