新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

子供の心が心配

2008年08月31日 08時14分54秒 | コラム・エッセー

 今朝は静かに夜が明けた。晴れてはいない。晴れてくるような様子もない。

 大分県教育委員会は、昨年(平成19年)の教員採用試験で、不正な点数操作によって合格していた教員の21人を特定した。

 その上、この21人の採用を取り消す方針としたようだ。

 不正は昨年だけではなかった。一昨年(平成18年)の試験でもあったが、裏付けが十分に行えなかったそうだ。従って、採用取り消しは見送ることとなった。

 平成17年以前については、資料が廃棄されているので不正の証明はできなかったとしている。

 つまり、平成18年以前にも不正採用はあったのだが、教員はそのままにしておくということだ。

 今回の措置で採用が取り消しとなるのは、小学校教員が14人、中学校が6人、養護教員が1人。

 この21人に対しては、今後の1週間で説明をおこない、具体的な措置をするのだという。

 取り消される本人に希望があれば、臨時講師として雇用するらしい。

 まさに異常事態だ。過去にこんな例があったろうか。

 採用取り消しとなる21人は、すでに教壇に立っている。生徒たちに与える影響は計り知れない。生徒たちに、どんな説明をするのだろうか。

 採用を取り消されなかった教員の中にも、不正採用の教員もいるのだ。

「19年採用だけが、なぜ採用取り消しなのか!」

「一体、どんな不正があったというのか!」

 21人の教師たちからの反発も強いとのことだ。

「ぼくたちの先生、ヒョットしたら……?」

 生徒たちの間にも、こんな疑いが出てくる。

 教育現場の混乱ははかり知れない。大混乱となるに違いない。 

 教育長は、「取り消し対象者には丁寧に説明し、学校現場に混乱がないようにしたい」と言っている。

 取り消し対象者にどんな説明をしようと、教室は混乱する。1学期まで教えてくれていた先生が、「不正採用」の理由で辞めるのだ。

 教わっていた子供たちに、どのような説明をするというのか。

 と言って、採用し続けることもできない。

 私が父親だったら、子供にどのような説明をするだろうか。

 その結果、子供たちの心に、どんな影響を与えるだろうか。

 私には予測がつかない。

 採用関係の責任者は、どんな責めを負うのだろうか。

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コスモスの温もり

2008年08月30日 06時29分37秒 | 写真俳句・エッセー

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おいと呼びあいよと応へ秋ざくら

 私にとって、秋の花と言えばコスモスだ。

 一にコスモス,二にもコスモスとなる。

「○△のコスモスは綺麗だよ」 そんな話を聞けば、すっ飛んで行きたくなる。

 もちろんそんなことを言っても、行けるときばかりではない。ここのところ2~3年、遠くへ行っていない。

 昨年もこのブログで、コスモスについて書いた。秋になれば、どうしてもコスモスを思ってしまう。

 コスモスの花言葉は、色によって違っている。花の色によって、イメージが違うものらしい。

 ピンクのコスモスは、「愛情」、「少女の純潔」

 白は「清潔」、「美麗」で、赤は、「乙女の真心」、「調和」だそうだ。

 ほかの色でも、花言葉があるかもしれない。

 これらの花言葉は、私が思い描くコスモスとは少し違う。私のコスモスは、もっともっと温もりがある。儚くて寂しげだが、それだからこそ、ふれあいの温もりを感じる。

 山口百恵さんの歌に、「秋桜(コスモス)」がある。私の思うコスモスとほとんどピッタリ。

   ♪ こんな小春日の 穏やかな日は

         もうすこしあなたの子供で いさせてください ♪

 心に沁みるいい歌だと思う。だが私には、難しくて唄えない。嫁ぐ日を前にした母娘の情景。そこには切ない温もりがある。

 コスモスは一輪では成り立たない。さればとて、群生のコスモスは少し煩い。

 やはり数輪がいい。肩を寄せ合って咲いている図こそ、私のコスモスだ。

    おいと呼びあいよと応へ秋ざくら   鵯 一平

 上の句は、夫婦の温もりを詠んだつもり。それも、かなりの年配か。

 秋桜、秋ざくらは、コスモスのこと。

 写真のコスモスは、2004年10月、さいたま市内で撮影。

 外は激しい雨だが、これから外出する。

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降り込められて

2008年08月29日 07時07分07秒 | コラム・エッセー

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 2004年9月、裏磐梯で撮影。

  湖の向こうの山陰に、今、日が沈んだ。山も湖面も島々の草木も、一瞬にして姿を消す。

 今日の記事は「紅葉マーク」だが、この写真とは無関係。

   昨日の夕刻、東京駅前の書店(Yブックセンター)へ寄った。

 読みたい本があったわけではない。単なる悪い癖だ。

 本屋に寄れば、何冊かの本に触手が動く。読み切れもしないのに、買ってしまう。

 代金を支払って外へ出ようとしたら、大降りの雨。走っている人もいる。降り出したばかりのようだ。

 さあ、弱った、弱った。

 傘は持っていたが、こんな凄い降りでは、肩や足元が濡れるに違いない。

 こんなとき、私はすぐに諦める。いつものように喫茶室へ入った。

 私と同じような考えの人がいるらしく、いつもより混んでいた。空席はあるにはあったが、合い席となってしまう。

 3人席の丸テーブルに、女性1人が座っていた。年若い女性でもなく、もっと有り体に言えば、老女(少なくとも私くらい)と言っていい。

 店員に目で訊ねてみた。その女性は快く同席に応じてくれた。

「申し訳ありませんね」、なんぞと言いながら、私はそこに座った。

 テーブルの上に、読みかけの本が置いてあった。なんと、「交通法規?」。

「運転免許をお取りになるのですか?」

 エッ?、今さら! 私にしてみれば、そんな感じだ。

 聞いて良いものやら悪いものやら迷ったが、図々しくも聞いてみた。

「いいえ、復習しようと思いましてネ」 気を悪くした様子もなく、すっと答えてくれた。

 そんなやり取りをキッカケにして、彼女はいろいろと話をした。

 私が推測したとおり、彼女は75歳を越えていた。つまり、「紅葉マーク」の運転者だった。

「紅葉マークですと、ひどい悪戯をされるのですよ」 彼女の嘆きである。

「フーン、それでは困るなア。紅葉マークをつけたことが、逆作用になっているのですね?」

 きっとそうだよなアとは思いながら、私も憤りのフリをした。

「無理な追い越しはかけられるし、幅寄せはされるし……」

 彼女の怒りは一通りではなかった。

「悔しいから、もう一度交通法規を読んで、ヤッツケテやろうと思って!」と、凄まじい勢いの話だった。

 彼女の曰く、「紅葉マークに嫌がらせをしてはいけないルールのはず。しっかり読んで、抗議したい!」 大要はそんなことだった。

 彼女の意気込みは素晴らしい。しかし、なぜかもの悲しい思いがした。

「運転免許証を返上なさらないのですか?」

 まさか、そんな質問はできなかった。私にとっても、いずれこれは重要なテーマとなる。

 そう言えば、ブログのコメントに、「紅葉マークの軽車両は嫌がらせを受ける」という書き込みもあった。

 紅葉マークや若葉マークに関する交通法規上の取り扱いを、詳しくは知らない。

 しかし、法の精神からすれば、「初心者と老人には気を使え!」となっているはず。少なくとも、「要注意!」程度のことにはなっていなければおかしい。嫌がらせをするとは言語同断ではないか。

 ホームレスを金属バットでぶっ叩く世の中。そんなことがあってもおかしくない。

 こんな世の中にした責任は、私たちにあるのだろうか。

 なかなか雨が上がりそうもなかった。

 夕べから今朝にかけても、こちらは大降り。

 各地で災害が出ている様子だ。異常気象なのだろうか。

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勝てない理由

2008年08月28日 08時02分17秒 | コラム・エッセー

「好きこそものの上手なれ」

 昔から言われている言葉だ。好きであれば上手になれる。そんな意味だろうか。

 もちろん例外はある。例外のほうが多いかもしれない。

 だからこそ、「下手の横好き」という言葉も、立派に存在しているのだ。

 私は囲碁が好きだ。学生のころから打っていた。

 本格的に勉強を始めたのは、40代のなかばころからだったろうか。プロの棋士に教わったわけではない。囲碁の本を読み始めたのだ。

 市ヶ谷の日本棋院へ行って、良さそうな本を漁った。「定石」、「布石」、「中盤」、「ヨセ」などの本を読んだ。

 不思議なもので、下手は下手なりに、書き手の好き嫌いができた。書いているのはプロ棋士本人ではないだろうが、棋風は出ているように思った。そんな思いこみをして、幾人かの本を読んだのだ。だから、「理屈だけ」は言えるようになっていった。

 ところが、実戦となるとそうは行かない。素人相手なのだから、プロのようには打ってこない。

 私の囲碁は、本から学んでいた。定石も棋理もない素人相手では、メチャメチャに負けた。
素人は、勝ちたい一心なので、どんな手でも打ってくる。私にとって、そんな相手が大の苦手だった。

 もちろん、私に確固たる「棋理」があったわけではない。単なる見よう見真似。

 だから勝てない。

 負けて面白いはずはない。おのずと実戦から遠ざかった。

 50代なかばごろ、ある人の紹介で、30代前半の女流プロ棋士に出会った。その人は中国出身で、ご主人と一緒に来日していた。

 私はそのプロ棋士について、勉強を始めた。かなり本格的に学んだ。

 はじめのころは7子だったが、4子で打ってもらえるほどになった。つまり、自分で言うのはこそばゆいのだが、そこそこは上達したのだ。

 その女流棋士は、形勢不利になると、顔が真っ赤になった。彼女の顔が赤くなったらしめたもの。しかし、ほとんどは逆転された。

 その女流棋士が出産するまでの数年間、密かに個人的な稽古を受けていた。

 赤ちゃんが生まれてからも、幾度か教えてもらったが、彼女も出版の仕事が増えたので、機会が少なくなっていった。

 彼女による私の囲碁評。

「スジはいい。綺麗な碁を打つので気持ちがいい。しかし、強くない!」

 厳しい言葉だが、納得できる評価だった。

「あなたは勝とうと思って打っていない。楽しんでいる。それでは強くなれませんよ!」

 これも適切な言葉だ。

 今思うことがある。プロの彼女相手だから4子で打てたのだ。いや、打ってもらっていたのだ。素人相手では、とても弱い私だと自認している。

 すべてのことに戦闘的だった私。いつのまにか戦いを避けるようになっていたようだ。

 囲碁にかぎったことではないと思っている。

 このごろの私は、あらゆる事柄において、争いごとから避け過ぎている。

 老化なのか、成長なのか。成長であるはずがない。むしろ大いなる退化だ。

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メダルへの思い

2008年08月27日 10時22分56秒 | コラム・エッセー

 今日は朝から太陽が顔を出した。しかし、秋晴れの気配ではない。

 しかし、すべての雨戸を開け放つ気分にはなった。

 北京オリンピックでのメダルの数は、予定を大きく下回ったのだそうだ。目標数を把握していないので、詳しいことは知らない。

 その結果を見て、識者は大騒ぎ。文部科学省も動かざるを得なくなった。今ごろ遅い。

 メダル獲得に向け、文部科学省は、金も口も出すような雰囲気だ。東京での開催を目指しているだけに、獲得するメダル数が気になるのだろうか。

 メダルの数に、私はあまりこだわりたくない。多いにこしたことはないが、国威発揚の徴としてのことなら、いかがなものかと思わないでもない。

 とは言っても、幾つかの競技で気になることはあった。日本古来の武道であった柔道のテイタラクには、正直なところ大いに失望した。

 オリンピックとは違うが、相撲界の実情と似ているところがある。共に日本古来の競技にもかかわらず、ここ何年も、日本人の横綱がいない。候補者すらいない。

 柔道の低調と相撲界の現状が、同じような原因かどうか知らないが、日本人の一人として、極めて残念だ。メダル問題とは別に、日本人の奮起を望みたい。

 星野ジャパンの不振も残念だった一つだ。勝てなかったのは仕方がない。不調だったから勝てなかったのだろう。チーム作りに問題があったという説もある。

 私としては、心の持ちようについて、もともと疑問があった。

「金メダル以外はいらない」

 星野監督はそんなことを言って北京へ乗り込んだ。私は監督のそのような不遜な「豪語」に、強い違和感を感じていた。

「銀」や「銅」より「金」は嬉しいに決まっている。だからといって、「金以外はいらない」とは如何なものか。

 オリンピックに出場できなかったチームもいたはずだ。オリンピックに出られても、予選で敗退したチームも多くあった。

 それらのチームだって、精魂込めて闘ったすえの結果だったのだ。敗退したチームは、その現実を厳粛に受け止め、次回を期して涙を呑んだに違いない。

 勝負は才能と努力だけではない。時の運もある。神の厳しい差配だってある。

 競技とはそのようなもの。アスリートはそんなすべての背景をふまえ、一瞬の栄光を目指して努力しているのではないか。

 日本の野球チームが、「金」を目指すのは結構だ。必死になって「金」を目指していい。

 しかし、「金以外はいらない」という言葉は不愉快だ。「金を目指して努力する!」でもいいし、「金を持って帰ります」でもいい。

「金以外はいらない」という監督発言は、すべてのアスリートたちの血の滲む努力を冒涜している。

「オリンピックの場に立ちたい!」

 その思い一つで努力し続け、果たせなかった多くのアスリートたちの努力をも冒涜している。

 聞くところによると、日本の野球チームはオリンピック村に宿泊せず、高級ホテルを宿舎としたとか。なぜそのような仕儀となったのか。そんな自惚れが、勝てなかったことにもつながったのではないか。だとすれば、「心根」から違っていなかったか。

 星野監督には、「WBC」の監督を依頼する動きもあるようだ。競技の神とアスリートの努力を冒涜した星野仙一氏に、はたして「WBC」の監督が相応しいのだろうか。

 もっとも、正義は幾通りもある。一筋縄ではいかない。ほかの人には、ほかの正義がある。

 異なる意見があって当然だ。

 今後メダル獲得に向けて、国を挙げて取り組むつもりらしい。決して反対はしない。

 しかし、国の予算を投入するとなると、危うさも感じる。暗躍する不心得者が出てくる可能性もある。いいことばかりとは言えないかもしれない。

 多くの企業群の柔らかな支援で解決できないものだろうか。 

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