明けましておめでとうがざいます。
今朝は快晴。風もさほど感じられません。
今年はいいことのありそうな元旦の朝です。
本年もまた、言葉の屑を撒き散らす所存です。
よろしくお願い申しあげます。
明けましておめでとうがざいます。
今朝は快晴。風もさほど感じられません。
今年はいいことのありそうな元旦の朝です。
本年もまた、言葉の屑を撒き散らす所存です。
よろしくお願い申しあげます。
いよいよ今年の暮れも、押し迫ってまいりました。
平成26年とはお別れです。
良い年であったか悪い年であったか、人それぞれでしょう。まあ、良し悪しは考え方次第なのかもしれません。
私にとって………?
また病歴を重ねてしまいました。その点を言えば、悪い年だったということになるかもしれません。
しかし、病気を発見して対処できたと考えれば、最悪を免れたということになります。その点、私はラッキーでした。
別れもありました。考えてみれば、これは必然です。避けようがない。だからプラスマイナス拮抗のゼロ。
新しい出逢いがありました。嬉しいことでした。これはプラス。
「逢うは別れの始め」なんぞと考えるのは、マイナス思考です。
年の果うろこひとひら剥がれけり 一平
鱗が剥がれるのは必然です。一年に一枚ずつ剥がれます。
良きことと考えるか悪しきことと考えるかは、人それぞれ。
私のことで言えば、良し悪しは私の考え方と行動で決まります。つまり自己責任です。
皆様とて同じこと。良し悪しはあなた次第で決まるのです。
鱗が一枚剥がれるのは、それだけ身軽になれること。少しでも身軽になって、羽ばたきたいものです。
どうか良いお年をお迎えし、その良運を大きくお育て下さいませ。
「バチが当たる」ということをよく耳にする。
「親不孝をするとバチが当たるぞ!」とか、「女遊びのバチが当たったのだ」
そんな言葉の使い方だ。
そのたび、あまり深刻に考えもせず、その言葉に納得している自分がいる。
いや、「信じる」というより、「特に反論をしない」とか、「反発をしない」という態度でやり過ごしているのだ。
そもそも「バチ」とは何か?
「バチ」の語源は知らないが、日頃の私は、「神仏の罰を受ける」という軽い意味合いで、言葉を受け止めている。
「神仏の罰」を、「軽い意味合いで………」と言っているようでは、私の心がいい加減なのかもしれない。
しかし、「バチが当たる」という言い方からは、なぜか深刻さが感じられない。
それに、「神仏が罰を与えるとすれば、そいつはよほど悪いヤツ」と思っているので、自分のこととはと考えていない。
聖人君子ではない私だが、バチが当たるほどの悪人ではない。それほどの度胸もない。
「バチが当たる」と言われるより、むしろ「化けて出るぞ!」と言われるほうがイヤだナ。語感に凄みがあるではないか。
「藁人形に釘」を打たれるほうは、さらにイヤなことだ。手が込んでいるだけに、根深い執念がありそうだ。
ゆめゆめ油断っすることなく、そんなヤツには出会わないことにしよう。特に女人は要注意。
写真の雲は今日の午前中の撮影。。厳寒の冬空で、かくもゆったりと浮かんでいる雲だ。
目的もなく、流れ行く先も決めていない。
このような自分でありたいと思った次第。
拝啓 安倍晋三様
第3次安倍晋三内閣のスタート、こころよりお祝い申し上げます。
「強く誇りある日本を造り上げる」とのこと、ぜひそのようにお願いしたいと存じます。
周辺国からの言われなき威圧や侮蔑を受けない日本を造り上げていただきたい。
そのための基本の一つは、やはり経済問題。デフレからの脱却を、ぜひとも果たしてほしい。
アベノミクスの成果はあがっているのでしょうか。
円安になり、株価も上がりました。一部の人たちにとっては、願ってもない結果をもたらされたような感じです。
しかし一方では、輸入原材料の値上げ等により、経営不振どころか、倒産せざるを得ない企業も出てきているようです。
貧困の深刻さも、大きく取りざたされています。
貧富の格差がより拡大されたようなのです。
アベノミクスが空念仏に終わらないよう、第三の矢を迅速に的確に放ってほしい。
周辺国の威圧に対しては、断固として対峙していただきたい。
先の太平洋戦争において、周辺国には深刻な災禍をもたらせてしまった。我が国にも、大いなる責任があったと思います。
しかし、今になってなお、故なき侮辱を受け続けていることに、私は辟易しております。神経がブチ切れそうな感じにすらなります。
あなたの国家観をもって、誇りある日本国を造り上げていただきたいのです。
周辺国との新しい関係を構築してほしい。
安倍晋三様、日本の政界地図から観て、しばらくの間、あなたは日本政治の切り札かも知れません。きっとそうなのでしょう。
かつて挫折をなさったあなただからこそ、今、出来ること、なすべきことがあるように思います。
ただし反面、今のあなたに感じているいささかの危惧もあります。周囲に人がいないため、独善的・独裁的に陥ることです。
「政治とカネ」の問題で大臣を辞任した代議士が、再び「ブッチギリ」で当選してしまう貧しい「政治風土」も、いささか気になります。
「一強多弱」と言われる政界の力関係では、切磋琢磨のしようもない。つまり、ブレーキ役がいない。
これが日本政治の現状であり、限界をすら感じます。
しかしあなたには、そんな政治風土の現状を踏まえ、新しい日本国を再建していただきたいのです。
写真は「糸の切れた凧」です。強風にあおられて桜の裸木に引っかかっておりました。こんな日本にはしてほしくありません。
奢ることなく、周囲への十分な目配りをなさりながら、断固として、誇りある新しい日本を造り上げていただきたい。
言葉足らずではありますが、当面の切り札であるあなたに、心からなるエールを贈りたいと存じます。
もちろん、老骨ながら、私なりの努力を惜しむものではありません。
別館として、写真と俳句の「ひよどりのうた」を開いております。
→ http://shashin-haiku.info/user/3925
足慣らしのつもりで、少し歩いた。
カメラを持参しての散歩であれば、あっちへよろよろこっちへよろよろ。つまり無目的の徘徊。
そんな気分で歩いていたら、フェンスから顔を覗かせている薔薇に出会った。
ツンとお澄まし。それでいて、チラリと私に流し目を送ってきた。
いやいや、「流し目」とは私が思っただけのこと。薔薇にしてみれば、そんなつもりはなかったはず。
薔薇と言えば、花期は初夏。俳句では「夏の季語」となっている。
しかし、冬の薔薇は独特の雰囲気を漂わせる。それを愛でて、「冬の薔薇」も季語になっている。
豪華さは夏の薔薇に敵わない。妖艶さにおいても夏の薔薇が数段上だ。
それでいながら、厳冬期の薔薇は私を強く惹きつけて止まない。
凜としている?いやそれだけではない。
あの美しさの裏には、何を潜ませているのだろうか。
私はまだ解を得ていない。
殉死といふ狂気に生きて冬薔薇 鵯 一平
(じゅんしといふきょうきにいきてふゆそうび)