新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

心の傷

2008年02月12日 08時44分06秒 | 身辺雑記

 昨日、「数少ない善行」のタイトルで、立派そうなことを書いてしまった。

 過分なコメントも頂戴した。

 私は悪ガキだった。いい子ぶりだけを書いたのでは、気持ちの安定を欠いてしまいそう。

 気持ちのバランスを保つ上からも、悪ガキぶりを書かなければならない。

 そんな経緯から、今日はその一つを披露することにした。

 終戦後の学制改革によって、私たちは無試験で中学生になれた。

 1年上の先輩たちが試験をうけて入学した旧姓中学校は、私たちが住んでいた町から汽車で1時間弱の市街地にあった。

 私たちは、町毎にできる新制中学校の1期生となった。

 しかし、まだ校舎は新設出来ず、小学校の一角を使用して、新制中学校がスタートした。

 戦争に駆り出されていた先生たちも、次々と復職してきた。だが教員数は不足していて、いわゆる「代用教員」と言われる人たちも教職に就いた。

 中学1年生のころの音楽の先生は、その「代用教員」だったように思う。

 中年のその先生はナマズに似ていたので、生徒たちは「ナマちゃん」と渾名した。

 音楽関係の教科書会社にいただけの、にわかつくりの音楽教師だと噂されていた。

 その真偽は知らないが、ピアノの実技はお世辞にもプロとは言えず、「ポロンポロン」であり、歌う声は蛙声であった。

「ナマちゃん」先生にとっても、私たち生徒にとっても極めて不幸だったのは、小学校時代のクラス担任が、音楽学校を卒業したプロであったことだった。

 その先生は、作曲についても指導してくれたほどの人だった。

 そんな私たちの前に、「ナマちゃん」先生が現れたので、生徒たちは一気にしらけた。

 しかもすこぶる真面目で、従順に従う女生徒たちの方に顔を向け過ぎ、男子生徒にはそれも不満だった。

 ある日の音楽の授業時間のこと。

 トイレを催した私は、その旨を「ナマちゃん」先生に告げて、トイレに行った。

 ところが、ほとんどの男子生徒が、私の後からついて来てしまった。

 決して「共同謀議」ではなかったのだが、先生がそのように思っても仕方がない。

 あまりにも出来過ぎていたのだ。

 顔面蒼白の「ナマちゃん」先生が、ブルブル拳を震わせて、私たちの「用足し」終了を待っていた。

 トップに教室を出た私は、当然「用足し」の完了もトップだった。

「◎×▲!ここに立て!」

 バーンと頬を張られた。平手だったか拳骨だったか覚えてはいない。耳が鳴った。

 後続組も次々に殴られた。中には倒れた奴もいた。

 どう考えても、形式上、悪いのは生徒の方だ。まるで「ボイコット」だったのだ。言い訳のしようがない。

 私はその首謀者と思われてしまった。

 名誉にかけて言いたいのだが、断じて共同謀議ではなかった。

 しかし、その後に「共同謀議」をした。

「いいか、今日のことは、親には言うなよ!言ったら承知しねーぞ!いいなっ!」

 私から後続組の同級生に言い渡した。

 もちろん、同級生も言うはずもない。みな、悪いことをしたと思っていたのだ。

 これでことは済んだ。

 1ヶ月過ぎても問題は起きなかった。

 私たちは、学校からも親からも、叱られることはなかった。

「ヤレヤレ」と胸を撫でおろしていた。

 ところがある日、私は父親に呼ばれた。

「お前はトンデモナイ奴だ!こっちへ来い!」と言われ、ガーンと一発食らった。

 訳の分からない一発だったが、よくよく聞けば、音楽時間のトイレ問題が父親の耳に入ったのだ。

 悪いことをしたと思っていた生徒たちは、一様に口を噤んでいたのだが、「ナマちゃん」先生も、暴力行為を気を病んでいたらしいのだ。

 私の父親はパチンコが好きで、よく駅前のパチンコ屋へ行ったいた。

 ある日、「ナマちゃん」先生もそこへ行っていて、ふたりは隣り同士になったらしい。

 そこで、あろうことか「ナマちゃん」先生が、「暴力をふるって済まなかった」、と父親に詫びたというのだ。

 まったく余分なことをする「ナマちゃん」先生だった。

 つまりそんな経緯から、私たちの「トイレ事件」が、父親にバレてしまった。

 父親にガーンとやられた理由はそれだった。

 しかし、ことはそれで収まった。

 我が子の不始末について、父親はほかの誰にも言わなかったらしい。

 同級生たちが親に叱られた話は、ついぞ聞かなかった。

 墓地の区画整理があったので今は違うが、数年前まで、両親の墓の隣は「ナマちゃん」先生の墓だった。

 墓参の度に、先生にもお線香を手向け、わたしは密かに詫びていた。

 あらためて言いたい。私は誰も唆していなかった。

 とは言え、結果として誤解されそうな状況を作ったのは私だった。

 だから、長い間、「心の傷」となって残っていた。 

 しかし今になってみれば、ちょっぴり塩味の懐かしい思い出でもある。

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コメント (6)
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