カメラを持ち、撮りながら歩くと、意外なほど歩ける。
8千歩ほどならわけもない。
が、ほとんどの場合、行きはよいよい帰りは恐いなのだ。
帰りの道すがら、豆大福を買ったりすれば、歩くことの功罪がなかばとなる。
いや、きっと罪の方が勝っている。
なんぞと言いながら、今日は五月末日。
時間とは戦えないね。
棕櫚咲いて棒になりたるふくらはぎ ひよどり 一平
カメラを持ち、撮りながら歩くと、意外なほど歩ける。
8千歩ほどならわけもない。
が、ほとんどの場合、行きはよいよい帰りは恐いなのだ。
帰りの道すがら、豆大福を買ったりすれば、歩くことの功罪がなかばとなる。
いや、きっと罪の方が勝っている。
なんぞと言いながら、今日は五月末日。
時間とは戦えないね。
棕櫚咲いて棒になりたるふくらはぎ ひよどり 一平
先ほど、山本周五郎作の小説「樅ノ木は残った」を読了した。
かれこれ4~5回目の読了ではなかろうか。
ご存じの「伊達騒動」を題材とし、周五郎解釈に基づき、原田甲斐を忠儀の臣として描いている。
数度目ともなれば、すでに筋書きはほぼ知り尽くしているので、話の筋は追わない。
原田甲斐の感懐や物腰に焦点を据えて読んでいる。
しからばなぜ読むのか。
2度目、3度目の頃は、鬱屈の解消法として読んだが、今はそれですらない。
「樅ノ木依存症?」なのかも知れない。
くったくや午後に倦みたる閑古鳥 ひよどり 一平
長生きしなくてもいいから、生きている限りは健康でいたい!
今まではそんな風に生きてきたのだが、この頃、少し欲張りになってきた。
なんのかのと理由はあるが、ちょっと先まで生きてみようかナ、と思い始めたのだ。
もちろん、「健康に生きる」のが眼目だ。
そのためには、「邪念を抱かないこと」が大きな条件の一つだとか。
毎日、邪念の塊を幾つも呑み込んでいるような日常。
嫉妬に狂ったり、怨んだり怨まれたり、物欲に走ったり………。
………あんた、80歳を越えたんだもの、もういいのではないかい?
胸の片隅には、常にそんな声があるしねェ。
はつなつや他念を見せず牧の牛 ひよどり 一平
写真は2011年6月2日撮影、奥日光の牧場。
昨日、オバマ大統領が広島市を訪問し、原爆死没者慰霊碑に献花した。
亡くなった御霊にとって、そして日米両国にとっても、歴史的な瞬間であったように思う。
あらゆる恩讐は、乗り越えていかなければなるまい。
その点、中国や韓国にとって、歴史認識は国益を追求するための外交カード。
恩讐を越える愚は犯さない。
困ったものですねェ~
我が家の狭い庭で、どくだみが勢いよく勢力拡大を図っている。
憎まれっ子世に憚ると言うが、私はさほどどくだみを憎んではいない。
そこそこの憚りであれば、まさに「そこそこ」は歓迎したい。
多少、「邪魔かなァ」程度のこと。
しかし、気の毒なほど憎まれていますよねェ
どくだみを嫌わない私が、やはりヘンなのかなァ~?
どくだみや世に恩讐の限りなし ひよどり 一平
カラオケ好きにもいろいろなタイプがあるようだ。
発売後間もない新曲をものにし、いち早くご披露に及ぶ人がいる。
一方、新旧に関わりなく、好きな歌を繰り返して歌っているタイプもいる。
私は後者のタイプ。新しい曲を憶えられないからでもあるが、好みの曲を幾度でも歌いたいタイプでもある。
三橋美智也、春日八郎、北島三郎、五木ひろしさんなどの歌は好きなものの例。
好きな古い歌の中に、「目ン無い千鳥」がある。
今は大川栄策さんほかが歌っているが、元はと言えば、昭和15年頃、霧島昇さんと松原操さんのデュエットだったとか。
小島政二郎原作の映画、「新妻鏡」の主題歌。
小説は読んでおらず、もちろん映画も観ていない。いくら高齢の私でも、当時はまだ小学生にもなっていなかった。
にもかかわらず、こららの歌を私はかなり以前から知っていた。
戦後いち早く、霧島昇さんによって流行ったのだろうか。
戦争が終わり、世の中の雰囲気が一気に変わった。歌謡曲の世界も然り。
「りんごの唄」が大流行した頃だった。
「目ン無い千鳥」や「新妻鏡」は、その頃再登場したのだろうか。
軍歌ばかりを唄っていた国民学校生徒の私たちは、昭和20年の夏以降、戦争前の歌を聞いたのかも知れない。
だからその頃の歌に、懐かしさ以上の深い思いを抱いているに違いない。
「新妻鏡」、「目ン無い千鳥」、「湯島の白梅」などはそれらの代表格。
デュエットでしみじみ歌いたいものだ。(思いっきり古いハナシです)
新妻鏡 ♪ 僕がこころの良人なら 君はこころの花の妻
遠くさびしくはなれても なくな相模のかもめ鳥 ♪
作詞 佐藤惣之介 作曲 古賀政男
歌 霧島 昇 二葉あき子
でも、デュエットの場合、相手が要るもんね~
追憶の底ひは昏し未草 ひよどり 一平