小説家であり整形外科医でもあった故渡辺淳一氏の著書に、「鈍感力」というのがあった。
氏の言う「鈍感力」とは、
「長い人生の途中、苦しいことや辛いこと、さらには失敗することなどいろいろある。
そういう気が落ち込むときにもそのまま崩れず、
また立ち上がって前へ向かって明るくすすんでいく。
そんなしたたかな力」。
彼はそれを鈍感力と言っている。
渡辺氏の「鈍感力」とは、「辛さや苦しさを感じても崩れない力」のようだ。つまり、鈍感と言うより、したたかさと言うべきかも知れぬ。
そんな言葉の定義に拘るつもりはないが、私は少し違う。
老いてきたら、「あまり敏感に反応しない感受性の鈍さが加わってもいいのではないか」と、つくずく思っている。
CTスキャンの画像を見て、医師が首を傾げても、「異常なことがあるのだろうか?」などと神経貭に反応しないおおらかさ。
「この先生、眼が悪くなったのだろうか?」と思ってしまうような、そんな「おおらかさ」があったらいいなァと思ったりしている。
更に言えば、仮に気に障ることを言われても、「あいつ、この頃、言い間違いが多くなったなァ」と受け止めてしまう鈍感さがいい。
もっとも、その辺りの鈍感さは、「相手に対し、気に障ることを言ってしまう無神経さ」に繋がっていくので、危険なことなのかも知れない。
写真は川越市喜多院の五百羅漢像。
絶えず詫びているような表情に、私はとても惹かれている。