新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

左利きの弁

2008年02月02日 10時04分39秒 | 身辺雑記

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マンサクの花(1)  2007年1月27日

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マンサクの花(2)  2007年2月9日

  

 朝から曇り空。したがって今日の写真も蔵出しのもので、昨年のマンサクの花。今年の状況はまだ見ていない。

 マンサクの花(1)は1月27日なので、枯葉が花を守るようにまとわりついていた。

 マンサクの花(2)は2月9日撮影。枯葉が散って、花だけがスッキリと陽を受けていた。

 私は生来の左利きだ。

 もちろん、左利きになったのは、私の責任ではない。

 父方の祖母が左利きだと聞いている。

 今でこそ、左で字を書いたりお箸を持っている人を見かけるが、私の年配では、矯正されていたケースが多かったのではなかろうか。

 私の場合、母親からきつく躾けられたそうだ。

 私にはその記憶はない。母親から、苦労話として聞かされていたので知っている。

 母親が苦労した結果、今の私は、ペンもお箸も不自由なく右手で操っている。

 困っているのは、鋏だ。

 今は左用のものがあると聞いているが、わが家には備えていない。

 一丁の鋏を、右利きのカミさんと左利きの私が、兼用で使っている。

 私はいっさい感じていないのだが、カミさんの弁によれば、「お父さんが使うと、すぐに切れなくなっちゃう!」のだそうだ。

 子供のころ、最初に不便を痛感したのは、野球のグローブだった。

 わが家には父親の右利き用グローブがあった。

 私が野球を始めた中学生時代は、終戦直後のころだ。

「六三制 野球ばかりが うまくなり」の時代だったから、野球が盛んだった。

 食べ物すらなかった時代、わが家に、「グローブを買ってくれ」と言出せる雰囲気はなかった。

 したがって、左手に嵌めるべきグローブを右手で使った。当然、突き指は多かった。しかしないよりはよっぽどましな時代だった。

 中学生のころから就職するまでのほぼ10年間、私はずっと柔道を続けていた。

 柔道の試合では、左利きの有利不利は相半ばだったように思う。

 試合ともなれば組み手争いになるので、うわ手には手もなく捻られた。

 反面、した手に対しては、有利に試合運びができたように思う。

 もっとも困ったのはゴルフだった。

 ゴルフを始めた40年ほど前、左利きの道具は極めて少なかった。

 やむを得ず、クラブを誂えたこともあった。考えてみれば、生意気な話だ。

「左利きの右打ちは有利だから、右で練習しろ!」、と先輩たちから右打ちを強く奨められた。

 しかし、頑固に左打ちで押し通した。

 別に信念があったわけではない。右打ちは楽しくなかっただけだ。

 左打ちゴルフでは、ずいぶん厭な思いもした。不便でもあった。

 練習一つとっても、不便だった。練習場に、左打ち用の打席は皆無に近かった。

 右利きの打席に割り込んでする左打ちの練習は、きわめて危険だ。

 だから、どんなに大きな練習場でも、左利きは端っこの席だけが使用できた。

 左利きゴルファーとラウンドするのを、ひどく嫌う人もいた。

 その人たちの言い分によれば、「勘が狂う」のだそうだ。

 冗談じゃない!そんなことを言えば、私はいつも勘が狂っていることになるではないか。

 面白いことがあった。

 たまたま知り合った左利き3人が寄り合って、左利き嫌いの大先輩を招待した。

 左利き3人はこともなくラウンドしたが、右利きの大先輩は、グッタリとしていた。

 口を利くのもシンドそうだった。

「ざまー見ろ!」

 左打ち3人は、内心で大いに快哉を叫んだ。

 若さが行わせた復讐(?)だったのかもしれない。

 このような所業は、紳士のゲームに相応しくない。以後は厳に慎んでいる。

 (もっとも、なんでゴルフが紳士のゲームなのか、私には異論がありますよ)

 さあ、暖かくなったら、マイペースでラウンドしよう!

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コメント (12)
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