春一番が吹く前、2月20日に撮った写真で恐縮です。
紅梅が丸い塊となって咲いていました。
子供のころの「日の丸弁当」を思い出し、パチリと撮ってしまいました。
太平洋戦争が終わってしばらくの間、日本は衣食住が大幅に窮乏し、特に食糧不足に喘いでおりました。
そんな日本の窮状を救おうとして、日系アメリカ人が中心となって設立された「日本難民救済会」の活動により、昭和21年以降しばらくの間、「ララ物資」という名の救援物資が日本に届けられました。
当時の日本は、「難民救済」の名前がついたほどの状態でした。
「浮浪児」という名前をつけられた子供たちが、地下道や公園にたむろしていた時代です。
どのような物資が送られて来たのか、小学生だった私の記憶に、はっきりと残ってはおりません。(私の記憶は、まことにいい加減で困ります)
その中には、豆かすのような物資も含まれていたように思います。
各家庭ではそれを粉末にして、団子を作って食べたりしました。
それほど食糧が不足していた時代でした。
そのころは「食糧管理制度」によって、食糧の配給制度が施行されておりました。
一時はお米などはなく、サツマイモやジャガイモなどの配給を受けていたのです。
そんな時代でしたから、「日の丸弁当」は大変なご馳走です。
アルマイトの弁当箱にご飯を詰め、真ん中に梅干し一つ。
今になってみればとても質素な弁当だったのに、みんなが羨ましがる時代でした。
その窮乏時代を乗り越えて、今の日本があります。
多くの先輩たちの努力が、今の日本に復興させてくれました。
私たちはそのことを、時には思い出すべきではないでしょうか。
豊かになることは素晴らしいことです。
しかし豊かに慣れすぎて、豊かさのありがたさを忘れてはいけないと思います。
日本の食糧自給率は、カロリーベースで39パーセントだそうです。
冷凍食品の問題は、日本人に何かを問うているのかも知れません。
紅梅の丸い塊が、私に「日の丸弁当」を思い出させてくれました。
思い出しているだけで、何もできない自分を恥じております。
これから仕事場へ。
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