![S0007ta S0007ta](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/67/67329baee84cd00af831040a7276c92e.jpg)
7年前の冬、裏磐梯で撮った写真。
夕暮れ近いころ、冬空が僅かに焼け始め、そのまま暮れてしまった。
夕空を映した水面に、枯れ草が寒々と立っていた。
昭和20年8月、太平洋戦争が終わった。
そのころの私は、国民学校の5年生。腕白盛りの軍国少年だった。
戦後生まれの人たちには考えられないだろうが、当時の軍国少年たちは、13~4歳にして「國のために死ぬ」ことを覚悟していた。
覚悟させられていたのではなく、おのずとそのように思っていた。
どのような経過があったのかは、詳細に覚えているわけではない。
ただ、「國のために死ぬ」という覚悟があったことは、事実だった。
したり顔で言えば、「当時の軍国教育の結果」となるのだろうが、私に関する限り、先生からの強制も、親の訓育もなかった。
むしろ両親は内心で、「困ったモノだ」と思っていたに違いない。
しかし、たしなめられたことはなかった。
「兵隊さんになんかなるな!」と戒められたことはない。
今にして思えば、親たちの心境は複雑だったように思う。
私の場合、具体的な目標は「予科練」だった。
しっかり勉強して、予科練に入る!そして、飛行兵になる!
その先に待っているのが、「特攻隊」であることも十分に視野に入っていたのだ。
特攻隊に入り、敵艦に体当たりすることは、「夢」ではなく現実的な「目標」だった。
しかしながら戦局は日本に厳しく、私たちはアメリカ第7艦隊の艦砲射撃に逃げ惑い、焼夷弾爆撃に遭った後、昭和20年8月15日に敗戦を迎えた。
つまり5年生の夏、唯一の目標があっさりと消えてしまったのである。
その後に残ったのは、当面の目標を失った空虚感と「空きっ腹」だった。
進駐軍のアメリカ兵たちから貰うチョコレートは甘かった。
「鬼畜米英!」の声は、「ギブミーチョコレート!」の叫びに変わっていた。
しかし多くの生命が、すでに戦禍で失われていたのだ。
戦後の平穏は、多くの人々の尊い血によって購われたもの。
当時の軍国少年であった私には、心よりの感謝と重い後ろめたさが残っている。
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