新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

軍国少年たちの今

2008年02月08日 16時16分22秒 | 身辺雑記

S0007ta
水面の冬  2001年12月17日

 7年前の冬、裏磐梯で撮った写真。

 夕暮れ近いころ、冬空が僅かに焼け始め、そのまま暮れてしまった。

 夕空を映した水面に、枯れ草が寒々と立っていた。

 昭和20年8月、太平洋戦争が終わった。

 そのころの私は、国民学校の5年生。腕白盛りの軍国少年だった。

 戦後生まれの人たちには考えられないだろうが、当時の軍国少年たちは、13~4歳にして「國のために死ぬ」ことを覚悟していた。

 覚悟させられていたのではなく、おのずとそのように思っていた。

 どのような経過があったのかは、詳細に覚えているわけではない。

 ただ、「國のために死ぬ」という覚悟があったことは、事実だった。

 したり顔で言えば、「当時の軍国教育の結果」となるのだろうが、私に関する限り、先生からの強制も、親の訓育もなかった。

 むしろ両親は内心で、「困ったモノだ」と思っていたに違いない。

 しかし、たしなめられたことはなかった。

「兵隊さんになんかなるな!」と戒められたことはない。

 今にして思えば、親たちの心境は複雑だったように思う。 

 私の場合、具体的な目標は「予科練」だった。

 しっかり勉強して、予科練に入る!そして、飛行兵になる!

 その先に待っているのが、「特攻隊」であることも十分に視野に入っていたのだ。

 特攻隊に入り、敵艦に体当たりすることは、「夢」ではなく現実的な「目標」だった。

 しかしながら戦局は日本に厳しく、私たちはアメリカ第7艦隊の艦砲射撃に逃げ惑い、焼夷弾爆撃に遭った後、昭和20年8月15日に敗戦を迎えた。

 つまり5年生の夏、唯一の目標があっさりと消えてしまったのである。

 その後に残ったのは、当面の目標を失った空虚感と「空きっ腹」だった。

 進駐軍のアメリカ兵たちから貰うチョコレートは甘かった。

「鬼畜米英!」の声は、「ギブミーチョコレート!」の叫びに変わっていた。

 しかし多くの生命が、すでに戦禍で失われていたのだ。

 戦後の平穏は、多くの人々の尊い血によって購われたもの。

 当時の軍国少年であった私には、心よりの感謝と重い後ろめたさが残っている。

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コメント (6)
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