生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

古い人、新しい人

2016-03-18 16:10:56 | 教会
こんどの日曜日から受難週に入ります。
受難とは、キリストが捕えられ、十字架につけられて死に至るまでの苦難のことですが、受難週は、キリストの苦難を覚える一週間です。

そして27日の日曜日は、キリストの復活を記念するイースター礼拝です。
昨日は教会の和室で家庭集会が行われました。今回は欠席者が多く、牧師先生と4人の姉妹(クリスチャンの仲間を兄弟姉妹といいます)たちが集まりました。

キリストが十字架につけられて死んだことは、歴史上の事実で、誰もが認めることです。
キリストが3日目に復活したことも事実ですが、万人が認めているわけではありません。
復活については、歴史上最大の争点だそうです。

聖書には「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。(使徒4:33)」と書かれています。イエス様が捕えられたとき、恐ろしくて逃げてしまった臆病な使徒たちが、迫害をも恐れず復活を力強くあかししたのですから、復活は本当にあったのだとわたしは思います。

あなたは洗礼を受けたとき、十字架と復活の意味をよく理解していましたか?
と質問されました。

わたしの答えは、「よくわかっていませんでした」です。洗礼を受けたら罪が赦されることだけはわかっていました。
でも、洗礼を受けたらきよめられて、罪を犯さない者になるのだと勘違いをしていたのです。

洗礼準備も学びもなく、教会へ行き始めて半年後に牧師先生から「洗礼を受けませんか」と言われて、受けることにしたのです。
そのときは、喜びに満たされましたが、洗礼を受けてからも相変わらず罪を犯してしまう自分に絶望しました。そして、洗礼を受けた後に犯した罪は
もう赦されないのだと勝手に決め込んで、教会を離れてしまいました。それは、大きな誤解でした。
そのころは、この悩みを誰かに打ち明けることができなかったのです。

教会から離れて数年後、再び別の場所で教会へ通うことになり、少しずつ十字架の意味がわかってきました。
キリストが十字架に架けられたとき、全人類(そのとき生まれていない人も含めて)の罪が赦されたのです。全人類ということは、当然わたしも含まれるわけです。そして、罪と自覚しないで犯した罪、罪だとわかっていながら犯した罪、洗礼を受けてから犯した罪、これから犯す罪すべてが、そのとき赦されたのです。

キリストが十字架につけられたのは、わたしたちの身代わりでした。本当は、罪を犯したわたしが罰として十字架につけられなければならなかったのですが……
罪のない神の子であるイエス・キリストが代わりに罰を受けてくださったのです。

聖書には「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」
と書かれています。
『わたしたちは、キリストと共に十字架につけられたので、もはや罪ある自分(古い人)はそこで処理され、キリストが内に生きてくださる』と聞いて嬉しくなりました。

本来のわたしは、マイナス思考で、後ろ向きで、自分なんかいない方がいい人だと思っていました。それは、古い人です。
2000年前に、キリストと一緒に古い人は十字架につけられました。
古い人は死んで、わたしは新しい人になったのです。

この文章を読んで十字架の意味、復活のことも、意味が解らないと思った方は多いことでしょう。よく勉強してわかったら信じるという人がいるかもしれません。でも、勉強したからといってわかるものではありません。信じたらわかるのです。

家庭集会に参加した4人の中で、よくわかってから洗礼を受けた人が2人、よくわからないけれど洗礼を受け、そのあとで徐々にわかったという人がわたしを含めて2人でした。

わたしは、信じたことによって、マイナス思考からプラス思考になり、どんなときにも希望を持つことができるようになりました。自分の力では不可能だということができたとき、内在してくださるキリストがなしてくださったのだと思います。

キリストがなしてくださったと思えば、自慢することなく、卑下することもないのです。
ありのままでいいのだと言ってくださるイエス様に感謝です!!




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