1月3日にした教会学校のお話は、ルカ2:40-52 12歳になったイエス様が両親と共にエルサレムの神殿に行ったときの出来事です。
子どものころのイエス様のことが書かれている記事はルカ2章だけです。これまで教会学校で話したことのない箇所でした。
ユダヤの人たちは、過ぎ越しの祭りに毎年礼拝するためにエルサレムに向かいます。親戚や近所の人たちとグループに分かれてぞろぞろ歩いて行くそうです。
ヨセフとマリヤも毎年過ぎ越しの祭りにはエルサレムに出かけていました。イエス様が12歳になった年もイエス様を連れて5日ぐらいかけて歩いていきました。
神殿で礼拝を捧げ、帰り道につきました。一日かけて道を進んだ後でヨセフとマリヤはイエス様がいないのに気づきました。
「どうしましょう。どこかではぐれてしまったのかしら」
「とにかく戻って探そう」
ふたりは、みんなと別れてエルサレムまで戻ってきました。
ようやくイエス様をみつけたのは、3日後でした。なんと、イエス様は神殿で偉い学者さんたちと話をしていたのです。
イエス様の知恵があまりにもすぐれているので、学者の先生たちや聞いていた人たちは、びっくりしていました。
ヨセフとマリヤは驚きました。
マリヤは「まあ、あなたは私達になぜこんなことをしたのです。見なさい、父上も心配してあなたを捜しまわっていたのです」と言いました。
すると、イエス様は、驚いているお父さん、お母さんを不思議そうに見ていましたが、やがて、
「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか」と答えました。
父の家というのは、父なる神様の家、神殿のことを言っています。イエス様は神様の子どもなので、そのように言うのは、当たり前のことなのです。
そのとき、ヨセフもマリヤもイエス様の言葉の意味がわかりませんでした。でも、聖書には「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」と書かれています。
心に留めるとは、どういうことでしょう?
宝物のようにして心の中に置くことです。たくさんの出来事が起きると、すべてを覚えていられなくて忘れていきます。でも、マリヤは、意味はわからないけれど、このことは大切だからしっかり覚えておこうと思ったのです。
その前にもマリヤが「心に納めて」と書かれている聖書箇所があります。イエス様が生まれて、羊飼いたちが礼拝に来たとき、天の軍勢が現れた話をしました。それらのことをマリヤは心に納めたのです。
お話はここまでですが、イエスさまはなぜ神殿で学者さんたちと話していたのだろうかと思いました。
正確なことはわかりませんが、ひとつは、ヨセフとマリヤにイエス様が神様の子どもであり、救い主であることを思い出させるためではないかと考えました。
ふたりともイエス様が生れる前に天使から告げられて神の子だと知っていました。生まれた後は、羊飼いの話した言葉の中にイエス様が神の子であることを聞いていました。
でも、それから12年もたっています。普通の子どもとして育っているイエス様をみて、両親はイエスが神の子であると意識していなかったのではないでしょうか。
なので、神の子なのだということをふたりに思い起こさせる必要があったのかもしれません。
大人の礼拝では、次のみ言葉が示されました。
「事実、いま私たちは神の子どもです。(Ⅰヨハネ3:1)」
イエス様は神の子だとわかるけど、わたしたちも神の子とは、どういうこと?と不思議に思われるかもしれません。
「イエス様は、神の子となる資格のないわたしたちを、神の子としてくださったのです。いかに大きな事実を与えてくださったのか、感謝せずにはいられません」と牧師先生が言われました。
そうです。罪のため、神様と断絶状態になっていた者なのに……キリストによって神の子としていただいたのです。感謝、感激です。
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子どものころのイエス様のことが書かれている記事はルカ2章だけです。これまで教会学校で話したことのない箇所でした。
ユダヤの人たちは、過ぎ越しの祭りに毎年礼拝するためにエルサレムに向かいます。親戚や近所の人たちとグループに分かれてぞろぞろ歩いて行くそうです。
ヨセフとマリヤも毎年過ぎ越しの祭りにはエルサレムに出かけていました。イエス様が12歳になった年もイエス様を連れて5日ぐらいかけて歩いていきました。
神殿で礼拝を捧げ、帰り道につきました。一日かけて道を進んだ後でヨセフとマリヤはイエス様がいないのに気づきました。
「どうしましょう。どこかではぐれてしまったのかしら」
「とにかく戻って探そう」
ふたりは、みんなと別れてエルサレムまで戻ってきました。
ようやくイエス様をみつけたのは、3日後でした。なんと、イエス様は神殿で偉い学者さんたちと話をしていたのです。
イエス様の知恵があまりにもすぐれているので、学者の先生たちや聞いていた人たちは、びっくりしていました。
ヨセフとマリヤは驚きました。
マリヤは「まあ、あなたは私達になぜこんなことをしたのです。見なさい、父上も心配してあなたを捜しまわっていたのです」と言いました。
すると、イエス様は、驚いているお父さん、お母さんを不思議そうに見ていましたが、やがて、
「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか」と答えました。
父の家というのは、父なる神様の家、神殿のことを言っています。イエス様は神様の子どもなので、そのように言うのは、当たり前のことなのです。
そのとき、ヨセフもマリヤもイエス様の言葉の意味がわかりませんでした。でも、聖書には「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」と書かれています。
心に留めるとは、どういうことでしょう?
宝物のようにして心の中に置くことです。たくさんの出来事が起きると、すべてを覚えていられなくて忘れていきます。でも、マリヤは、意味はわからないけれど、このことは大切だからしっかり覚えておこうと思ったのです。
その前にもマリヤが「心に納めて」と書かれている聖書箇所があります。イエス様が生まれて、羊飼いたちが礼拝に来たとき、天の軍勢が現れた話をしました。それらのことをマリヤは心に納めたのです。
お話はここまでですが、イエスさまはなぜ神殿で学者さんたちと話していたのだろうかと思いました。
正確なことはわかりませんが、ひとつは、ヨセフとマリヤにイエス様が神様の子どもであり、救い主であることを思い出させるためではないかと考えました。
ふたりともイエス様が生れる前に天使から告げられて神の子だと知っていました。生まれた後は、羊飼いの話した言葉の中にイエス様が神の子であることを聞いていました。
でも、それから12年もたっています。普通の子どもとして育っているイエス様をみて、両親はイエスが神の子であると意識していなかったのではないでしょうか。
なので、神の子なのだということをふたりに思い起こさせる必要があったのかもしれません。
大人の礼拝では、次のみ言葉が示されました。
「事実、いま私たちは神の子どもです。(Ⅰヨハネ3:1)」
イエス様は神の子だとわかるけど、わたしたちも神の子とは、どういうこと?と不思議に思われるかもしれません。
「イエス様は、神の子となる資格のないわたしたちを、神の子としてくださったのです。いかに大きな事実を与えてくださったのか、感謝せずにはいられません」と牧師先生が言われました。
そうです。罪のため、神様と断絶状態になっていた者なのに……キリストによって神の子としていただいたのです。感謝、感激です。

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