連休にまたまたヒックンとナルクンがやってきました。(こちらが招いたのですが……)
1歳9か月のナルクンは、お兄ちゃんのまねばかりしています。ヒックンが麦茶をなみなみとついでしまったので、口飲みをすると、その飲み方を何度もまねします。
ヒックンが卓球をするのを見て、おもちゃのラケットを構えます。なかなかかっこいい構え方です。玉は飛ばずに、ぽろっと落ちるのですが、そんなこと気にしません。
バッグを持って歩くのが大好きで、ママのバッグを肩からかけて得意そうに歩きます。
食事のときは大変です。赤ちゃんの椅子には座らず、大人の椅子に登って、立ち上がり、手づかみで食べます。すごい食欲で、7歳年上のヒックンと同じぐらいの量をぺろっとたいらげてしまいます。
ちょっと目を離すと台所に入って、いたずらをしています。本当に油断も隙もありません。
ヒックンはカルタやトランプ、ボードゲームをしたいのに、ナルクンがいるとできなくて、ちょっとストレスを感じているようです。
今回は、ナルクンをおじいちゃんにみてもらって、わたしと一時間ほど遊びました。あとわずかな期間なのかもしれませんが、ヒックンに「ゆこちゃん(わたしの愛称)と遊びたいんだ」と言ってもらえて、嬉しくてたまらないわたしです。
10日の礼拝メッセージは、「闇の中を歩まず」という題のメッセージを聞きました。
印象に残ったことを紹介させていただきます。
教会の今年の年間聖句は、
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです(ヨハネ8:12)」です。
「闇の中を歩む」とはどういうことでしょう。闇というと、嘘、偽り、詐欺など罪や犯罪に結びつくことを考えます。
「闇の中を歩む」とは、悪い行為をすることで、逆に「闇の中を歩まない」とは、罪を犯さないことです。
Ⅰヨハネ3:9には、
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」と書かれています。
わたしは、以前この聖書個所を読んだとき、自分は神から生まれた者ではないと思ってしまいました。イエス様を信じ、洗礼を受けた後でも罪を犯すからです。
わたしの罪とは、心の深いところにある自己中心からきています。人を愛すると言っておきながら、まず第一に自分の保身を考えてしまうような、愛に欠けた者です。
でも、「イエス様を信じる者は、神から生まれた者です。」
というなら、信じているのに罪を犯してしまう自分は何だろう……と悩みました。
尾山令仁先生の現代訳聖書とリビングバイブルには、「罪の中を歩み続けることができない」 と現在進行形で書かれています。
クリスチャンは、罪を犯すことがないのではなく、罪を犯し続けることができないといっています。
聖書はギリシヤ語で書かれているのを日本語に訳したのですが、ギリシヤ語では現在形と現在進行形の区別がないので、前後の文脈から推し量るしかないそうです。それで現代訳聖書とリビングバイブルでは、現在進行形として訳されたようです。
リビングバイブルには、「神様の家族の一員として新しく生まれた人には、神様のいのちが宿っているので、もはや罪を犯す習慣はありません。新しいいのちに支配されているので、罪を犯し続けることができないのです。(Ⅰヨハネ3:9)」と書かれています。
『罪を犯してはいけません』と言っているのではありません。
「罪を犯す習慣がありません。」「罪を犯し続けることができません。」と言っているのです。
努力しなくても、自然に罪から遠ざかるのです。新しいいのち(神の種)が宿っているからです。これは、神の恵みで、喜びの約束です。
「闇の中を歩むことがない」
という意味がはっきりわかって、嬉しくなりました。
にほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。
1歳9か月のナルクンは、お兄ちゃんのまねばかりしています。ヒックンが麦茶をなみなみとついでしまったので、口飲みをすると、その飲み方を何度もまねします。
ヒックンが卓球をするのを見て、おもちゃのラケットを構えます。なかなかかっこいい構え方です。玉は飛ばずに、ぽろっと落ちるのですが、そんなこと気にしません。
バッグを持って歩くのが大好きで、ママのバッグを肩からかけて得意そうに歩きます。
食事のときは大変です。赤ちゃんの椅子には座らず、大人の椅子に登って、立ち上がり、手づかみで食べます。すごい食欲で、7歳年上のヒックンと同じぐらいの量をぺろっとたいらげてしまいます。
ちょっと目を離すと台所に入って、いたずらをしています。本当に油断も隙もありません。
ヒックンはカルタやトランプ、ボードゲームをしたいのに、ナルクンがいるとできなくて、ちょっとストレスを感じているようです。
今回は、ナルクンをおじいちゃんにみてもらって、わたしと一時間ほど遊びました。あとわずかな期間なのかもしれませんが、ヒックンに「ゆこちゃん(わたしの愛称)と遊びたいんだ」と言ってもらえて、嬉しくてたまらないわたしです。
10日の礼拝メッセージは、「闇の中を歩まず」という題のメッセージを聞きました。
印象に残ったことを紹介させていただきます。
教会の今年の年間聖句は、
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです(ヨハネ8:12)」です。
「闇の中を歩む」とはどういうことでしょう。闇というと、嘘、偽り、詐欺など罪や犯罪に結びつくことを考えます。
「闇の中を歩む」とは、悪い行為をすることで、逆に「闇の中を歩まない」とは、罪を犯さないことです。
Ⅰヨハネ3:9には、
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。」と書かれています。
わたしは、以前この聖書個所を読んだとき、自分は神から生まれた者ではないと思ってしまいました。イエス様を信じ、洗礼を受けた後でも罪を犯すからです。
わたしの罪とは、心の深いところにある自己中心からきています。人を愛すると言っておきながら、まず第一に自分の保身を考えてしまうような、愛に欠けた者です。
でも、「イエス様を信じる者は、神から生まれた者です。」
というなら、信じているのに罪を犯してしまう自分は何だろう……と悩みました。
尾山令仁先生の現代訳聖書とリビングバイブルには、「罪の中を歩み続けることができない」 と現在進行形で書かれています。
クリスチャンは、罪を犯すことがないのではなく、罪を犯し続けることができないといっています。
聖書はギリシヤ語で書かれているのを日本語に訳したのですが、ギリシヤ語では現在形と現在進行形の区別がないので、前後の文脈から推し量るしかないそうです。それで現代訳聖書とリビングバイブルでは、現在進行形として訳されたようです。
リビングバイブルには、「神様の家族の一員として新しく生まれた人には、神様のいのちが宿っているので、もはや罪を犯す習慣はありません。新しいいのちに支配されているので、罪を犯し続けることができないのです。(Ⅰヨハネ3:9)」と書かれています。
『罪を犯してはいけません』と言っているのではありません。
「罪を犯す習慣がありません。」「罪を犯し続けることができません。」と言っているのです。
努力しなくても、自然に罪から遠ざかるのです。新しいいのち(神の種)が宿っているからです。これは、神の恵みで、喜びの約束です。
「闇の中を歩むことがない」
という意味がはっきりわかって、嬉しくなりました。

↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。