生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

文学散歩(その1)

2008-06-06 14:09:03 | 日記

昨日は東京文京区の本郷へJCPの方々と9人で文学散歩に行ってきました。まず、御茶ノ水駅からバスで東大に向かいました。
本郷キャンパスの建物は加賀藩邸の跡地につくられたので、赤門をはじめ、あちこちにその名残が見られます。
左の写真は、東大病院です。レリーフは黒船到来。

左の写真は医学部の教授の胸像(エルヴィン・ベルソ*ユリウス・スクリバ)です。


江戸時代は加賀藩邸の庭園の一部だったという三四郎池を一周してみました。
三四郎池は心という形をしています。正式名称は「育徳園心字池」ですが、夏目漱石の小説『三四郎』にちなんで、「三四郎池」と呼ばれるようになりました。

育徳園は、当時は江戸諸藩邸の庭園中、第一の名園とうたわれたそうです。
ところが、この屋敷は安政2年(1855年)の大地震で大きな被害を受け明治元年(1868年)4月の火事で大部分の建物が類焼してしまいました。明治7年に東京医学校(東大医学部の前身)へ移転される直前の敷地は、荒れ果てていたのだそうです。たび重なる災害を通り越してきた池と樹木にいとおしさを感じました。

写真は赤門です。
東大近くで昼食をすませると、樋口一葉の井戸を見に行きました。「たけくらべ」などの名作を生み出した樋口一葉が18歳から21歳まで過ごした場所が本郷菊坂です。
このあたりは古き東京の面影が残されています。金魚屋さんがあったので、おもわずのぞきこみました。


細い路地を探しながらいくと、樋口一葉が使ったという井戸を見つけて大喜びしました。今でも(飲料用ではありませんが)水が出るそうです。

                    つづく

*ブログに複数の写真アップのやりかたがようやくわかりました。もう少しサイズを大きくしたかったのですが……できませんでした。

天国の門

2008-06-04 16:52:55 | 聖書から

祈祷会でキリスト教の教理を続けて学んでいますが、今日は世の終わりと天国についてでした。

世の終わりはあるのでしょうか? 地球温暖化の問題、核戦争の恐怖のある現代において、いつか地球が滅び、人類が絶滅する日が来るのではないかと漠然とした恐れを抱いている人は多いのではないでしょうか。
 聖書には世の終わりはあると書かれています。でも、それがいつなのかわからないといっています。

「しかし、主の日は盗人のようにやってきます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(Ⅱペテロ3:10)」


わたしは、本来非常に憶病なので、初めて「世の終わり」について聞いたとき、恐ろしいとしか思いませんでした。

でも、キリストを信じている者は恐れる必要はないのです。世の終わりには、イエスキリストが再び地上にやってこられる(再臨)とも書かれています。

イエス様がわたしたちを引き揚げて下さるのです。そのときすでに死んでいた者は、よみがえって空中で主と会うことになると聖書(テサロニケ人への手紙4章)に書かれています。

キリストと共に永遠にいられる世界が天国です。天国で神様が「彼らの目の涙をすっかりぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや、過ぎ去ったからである。(黙示21:4)」
わたしは、この聖句にどれだけ慰められたかわかりません。つらくて涙が眼に浮かぶとき、いつかこの涙はぬぐっていただけるんだと思うと、つらさに耐えられるのです。

天国の門は真珠からできていると黙示録に書かれていますが、今日その意味を教えていただいて胸が熱くなりました。

真珠貝は、異物を入れられて、その痛みに耐えながらそれを包みこんで真珠層を形成し、真珠ができあがります。真珠は痛みを通りこしてできたものです。
天国の門を通るとき、通る人の痛みや苦しみ、悲しみなどを真珠の門が吸い取ってしまう。だから、天国に入ったときは、いっさいの苦難がなくなっているのだそうです。 

いま、苦しんでいる人、悲しみに沈んでいる人、苦しみ悲しみのない世界があることを覚えて、希望を持ってくださいね。

神様の愛はどれくらい?

2008-06-02 13:46:12 | CS(子供伝道)

昨日は年に一度の親子礼拝でした。0歳児から小学6年生の子供たちと父母が一緒に礼拝をささげました。
神様の愛についてK先生がお話ししてくださいました。


神様はあなたのことをどれくらい愛しているのでしょうか? それはイエス様の行為として聖書に書かれています。
 
わたしたち人間は、神様と共に歩むように造られました。神様とわたしたちは親子関係のようです。赤ちゃんは、お母さんのオッパイを飲むことによって安心感が与えられ、低学年ぐらいまでは親に抱きしめられることによって安心し、大きくなると、親に話を聞いてもらうだけでほっとします。

ところが人間は神様から離れてしまいました。その結果、心の中に寂しさが生まれ、空洞ができました。その空洞は、神様しか満たすことができないものです。
 また、人は罪悪感を持つようになり、人を責めたり、自分を責めたりするようになりました。

こんなわたしたちのためにイエス様は、すべての力、すべてのものを捨てて人として生まれてくださいました。イエス様はわたしたちの罪を背負って黙って十字架にかかってくださいました。

イエス様は十字架上で神様に「どうして見捨てたのですか?」とたずねますが、それは人が神様に見捨てられないためでした。ここに愛があるのです。

 

お話のあと、「両手いっぱいの愛」を歌いました。わたしはこの歌をうたうといつも涙があふれます。歌詞を紹介します。

  
両手いっぱいの愛(佐々木 泉作詞)

ある日イエス様に 聞いてみたんだ
どれくらい ぼくを 愛してるの
これくらいかな
これくらいかな
イエス様は だまってほほえんでる

もういちど イエス様に 聞いてみたんだ
どれくらい ぼくを 愛してるの
これくらいかな
これくらいかな
イエス様は だまってほほえんでる

ある日 イエス様は こたえてくれた
静かに両手をひろげて
このてのひらに
くぎを打たれて
十字架にかかってくださった

それはぼくの罪のため
ごめんね ありがとうイエス様
ごめんね ありがとうイエス様


*お知らせ(一昨日も書きましたが……)

沖縄旅行記、写真を増やしてHP用に新たに作成しました。
生かされて…土筆文香をご覧ください。

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