生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

悲しむ者は幸い

2008-06-09 12:51:16 | 教会

天国は悲しみのない世界ですが、この世界にはなんとたくさんの悲しみがあるのでしょう。

昨日、教会学校で「あなたは神様に何を願い求めますか?」とたずねると、小学4年の男子が、「悲しい事件ばかり起きてつらいから、世界で悲しい事件がもう起きませんようにとイエス様にお願いする」といいました。
わたしは、感動で胸がいっぱいになりました。
それから10数名の4年生子どもたちと一緒に世界で悲しい事件がもう起きませんようにと祈りました。

ところが、それから約1時間後にまたもや恐ろしい殺傷事件が起きてしまったのです。秋葉原の事件は、荒川沖駅殺傷事件を思い出させます。
そのときまで元気で歩いていた人の人生が、突然終りになってしまうことを、誰が予想したでしょうか。

悲しいニュースを聞いて、子どもたちも心を痛めています。昨日子どもたちと祈った祈りはすぐにはかなえられませんでしたが、神様には届いているはずです。もっと、もっと祈っていきたいです。


はからずも礼拝メッセージは「悲しみについて」でした。
私たちの悲しみには、
喪失感による悲しみ。(家族、親しい人の死、別れ)、同情からの悲しみ(悲しむ人を見て同情して悲しむ)、苦痛による悲しみ(肉体的苦痛、精神的苦痛)、神に従えない悲しみ、理解されない悲しみ、理解できない悲しみ……。

イエス様は十字架にかけられる前、弟子たちに言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないでわたしといっしょに目をさましていなさい(マタイ26:38)」

これから十字架にかけられ、父なる神から見捨てられるという壮絶な苦しみがやってくるのに、弟子たちはだれひとりイエス様の悲しみを理解できませんでした。ゲッセマネの園でイエス様が苦しみもだえて祈っているとき、なんと弟子たちは眠りこけでいたのです。
でも、「彼らは悲しみの果てに眠り込んでしまった。(ルカ22:45)」と書かれているので、弟子たちには、イエス様のことが理解できないという悲しみがあったのでしょう。

「悲しみには、良い効果や結果をもたらす悲しみがある」と牧師先生はいわれました。

パウロはコリントの教会へ宛てて書いた手紙の中で
「神のみこころに沿った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます…(Ⅱコリント7:10)」と書いていますが、当時のコリントの教会の状況は道徳的に乱れひどい状況だったそうです。コリントの人たちは、その罪に気づいて悲しみながらも悔い改めました。
このように悲しみが悔い改めの原動力になったり、悲しみが心を神に向けさせる力となるのです。

イエス様は言われました。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです(マタイ5:4)」
神様は悲しんでいるわたしたちに声をかけて慰めてくださいます。
悲しむときは、主が共にいてくださることに気づくとき。神の慰めを経験する大切なときなのです。


「悲しむ者は幸い」というのは、逆転の真理ですね。わたし自身も悲しみの中で神様からの慰めをいただいて≪悲しみにあってよかった≫と思ったことが何度かあります。また機会がありましたら、そのことも書かせていただきます。

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