生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

向きを変えて

2007-07-04 17:11:30 | 教会

「よろこびの泉」に掲載された「心のすき間が埋められて」に書いたことに関連しますが、洗礼を受けてから間もなく教会を離れてしまったわけについて書かせていただきます。

洗礼を受けたからといって、すべてがすぐに変わるわけではありません。わたしは、自分自身が大嫌いだったので、洗礼を受ければ人格が180度変わると期待していました。ところが、何も変らない自分に絶望して教会を離れてしまいました。
クリスチャンになったのに、以前と同じような……むしろ、ますます大きな罪を犯していると思い、苦しみました。


でも、それは神さまの光に照らされたので、罪がはっきりわかるようになったからだったのです。布についた小さな汚れは、布全体が汚れていると目立ちませんが、白い布だとくっきり目立ちますね。それと同じようなことだったのですが、当時のわたしにはわかりませんでした。

また、洗礼を受けた後に犯した罪は赦していただけないのだと誤解していました。それは、メッセージをしっかり聞いておらず、聖書もよく読んでいなかったからです。


一昨日書いたように、「完了した」とキリストが十字架上で言われたので、洗礼を受けた後の罪もキリストの十字架によってすでに赦されているのです。
洗礼は、向きを変えてスタートしたという意味です。いままで間違った方向に進んでいたことに気づき、イエスさまの方に方向転換したのです。でも、以前の習癖は残っているのですぐには変わりません。

受洗と同時に劇的に180度変わる人もいますが……。たいていは変化がゆっくりなのです。でも、イエス様の方に向いていますから、徐々にではありますが、確実に変えられていきます。それは自分の努力ではなく、神さまの恵みによって変えていただくのです。

再び教会に行くようになってから、わたしは少しずつ変えられていっています。今はまだ途上ですが……。


以前教会で聞いたメッセージを紹介します。

洗礼を受けたときは、神さまに泥沼から引き上げてもらったときです。引き上げられても、まだ泥まみれですが、神さまがシャワーをかけて少しずつ泥を落として下さいます。自分では泥をおとすことができません。あなたのすることは、もっと洗って下さいと神さまに願うことです。


また、「教会はホスピスです」と牧師先生が言われました。だれでも、どこか病んだ部分を持っています。完全な人間は一人もいません。イエスさまにより、癒され続ける者がクリスチャンです。


イエスさまを信じたときに、泥は落とされ始め、癒しは始まっているのです。変化は少しずつなので、なかなかわかりません。時間がかかります。
嘆かないで下さい。自分を責めないでください。

向きを変えて出発せよ。(申命記1:7)

素晴らしい約束

2007-07-02 12:03:01 | 教会

ブログを通して親しくさせていただいているメメントドミニの優子さんから、わたしの書いた記事が掲載された「よろこびの泉」を送って欲しいとメールを戴きました。ご主人の会社にも置いて下さるとのそうで、感謝、感激。さっそく今朝メール便で送りました。自分の書いたものが載っていると、恥ずかしくてなかなか配れません。わたしのことを知らない人に渡して戴いた方がいいのです。
優子さんのブログ、メメントドミニ(ブックマークにあります)の6/29と7/1に「よろこびの泉」のことが紹介されています。ぜひご覧下さい。


昨日は礼拝の中で聖餐式がありました。
聖餐式とは、イエス・キリストが最後の晩餐でパンとぶどう酒を弟子たちに与え「パンは私のからだであり、杯は私の血による契約である」と言ったことを記念して、パンとぶどう液を会衆に分けるキリスト教の儀式です。キリストの十字架を思ってパンとぶどう液を戴きます。

聖餐式を年に何回するか教会によって違います。毎月、毎週行っているところもあるそうですが、わたしの通う土浦めぐみ教会では、年4回行っています。クリスチャンにとって聖餐式は意味深いものです。


今年は、聖餐式のたびにその意味がメッセージの中で語られています。
1月に行われた聖餐礼拝では聖餐式は領収書のようなものであると語られました。(1/7のブログに書いています)
4月に行われた聖餐礼拝では聖餐式は契約書のようなものであると語られました。
そして今回、聖餐式は宣言文のようなものであると語られました。


昔は国王からの通達があると、広場に集められ宣言文が朗読されていました。聖餐の儀式そのものが、宣言文を読み上げているようなものです。その宣言文は3つの意味があります。




1)喜びの宣言文

 罪を犯し、滅びるしかなかったわたしたちのために、神さまはイエス・キリストをおくり、十字架につけました。キリストは、わたしたちの身代わりに死んでくださいました。そのことを受け入れたとき、罪が赦され、解放され、自由になったのです。だから喜びの宣言文です。


2)完了の宣言文

イエス・キリストが十字架上で最後に言った言葉は「完了した」です。人類を救う神の業が完了したという意味です。救われるためになすべきことは、すべて神さまがやってくださったのです。だから、自分に何かが足りないと嘆いたり、こんな自分じゃいけないと責めることは必要ないのです。

3)委任の宣言文


すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちはキリストに代わってあなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。(Ⅱコリント5:19-20)



全知全能の神が、罪を犯してしまった人間に「和解」を受け取って欲しいと懇願しているのだと聞いて胸が熱くなりました。

神さまは、決して無理強いはなさいません。ご自分が造られた人間を深く愛しておられるので、罪によって断ち切られてしまった関係を回復させたいと願っておられます。


「どうかお願いだから、わたしの用意した和解を受け取っておくれ」
と懇願しているのです。そして、それを「はい」と受け取った人には次のような、約束が与えられています。



こういうわけで、今は、キリストイエスにある者が罪に定められることは決してありません(ローマ8:1)


なんと素晴らしい約束なのでしょう!!


(かつてわたしは、このことが解らなくて洗礼を受けてから間もなく教会を離れてしまったのでした。)


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