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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

涙のわけ(奇跡の余滴)

2013-04-12 21:03:50 | お茶の水聖書学院
これまで7回にわたってお茶の水聖書学院で提出した卒論「奇跡の意味と意義について」から書いてきました。

奇跡ではないので、論文には書かなかったのですが、ラザロのよみがえりのところで「イエスは涙を流された(ヨハネ11:35)」という一文があります。イエス様がラザロの死を悲しんで泣いている人々をみて、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて涙を流されました。なぜ涙を流されたのでしょう。

イエス様が涙を流されたわけについて、聖書学者たちが書いていることを記録していたので紹介させていただきます。

1、カルヴァン 『カルヴァン新約聖書講解Ⅲ ヨハネ福音書上』
キリストが憤りを覚え、心の動揺を覚えたのは、泣いている彼らに同情したからと全人類の共通した悲惨と苦難について考え、神がどんな目的で自分をこの世につかわされたか十分に知っていたから。
彼自身、わたしたちの不幸に心揺り動かされていた。
「彼が人間の肉体をまとったとき、罪以外の人間的な諸情念もすすんでその身にまとった。」
38節で 「イエスはまた心の内に憤りを覚え」と書かれている。
ひとびとに対して憤ったのではなく、死に対して戦いにのぞむ闘士として出かけるときの憤りである。


メリルテニイ『新約聖書注解 ヨハネによる福音書』(聖書刊行会)
イエスが涙を流されたのは、彼らと共に悲しまれた。霊の憤りを覚えたのは人間の大きな敵(死)に対して憤われた。



・ビーエフ・バックストン「ヨハネ傳講義」(バックストン記念霊交会)
『主が涙を流された理由は、愛する者(マリヤ)の不信仰を嘆いての涙。ルカ19:41のエルサレムの不信仰に泣いたときと同じ涙である。』


・CLアレン『イエスの奇跡物語講解』
イエスが涙を流された理由は、ラザロの死を悲しんでではなく、友人たちの悲しみに同情したわけでもありません。
「私は、キリストがその日に泣かれたのは、ラザロが死んだためではなく、むしろラザロをもう一度地上の生活にもどす必要があると感じられたためだったと思います。


・R・V・Gタスカー『テインデル聖書注解 ヨハネの福音書』
『イエスが涙を流されたのは、単に人間的な同情や、ラサロの姉妹や友人たちの信仰が限られていたことに対する悲しみということだけではない。彼の悲しみのうちには憤り、怒りが込められている。
パウロが「滅ぼされるべき最後の敵」と呼ぶ死が冷徹に支配する人間の悲惨がイエスに鮮明に押し迫ったと推論できる。』



イエス様が心に憤りを覚えたのは、死に対してだというのは聖書学者たちの共通する意見ですが、涙を流されたわけはそれぞれです。
ビーエフ・バックストンは「マリヤの不信仰を嘆いて」と書いていますが、わたしはそのようには思えません。
CLアレンの考えは独特です。まるでラザロは、ラザロ自身のためには生き返らない方が幸福であると言っているようです。(確かに天国へいったほうが幸福と言えるかもしれませんが……)

わたしは、カルヴァンの「彼自身、わたしたちの不幸に心揺り動かされていた。」という一文に共感を覚えました。

2009.3.28「イエス様の涙」ブログには次のように書いています。

「聖書にはイエス様が涙を流されたことが書かれているのはこの箇所しかありませんが、実際は何度も泣いておられたのでは? このときは特別激しく泣かれたので、弟子たちの印象に残ったから筆記されたのではないでしょうか」と牧師先生が言われました。
「イエス様は、人の悲しみや痛みに同情されないお方ではありません。ラザロのこと、マルタ、マリヤの悲しみに同調されて涙を流されたとも考えられます」


何度も涙を流されたかもしれないイエス様。世の中をご覧になって、まさに今も涙を流されているのではないでしょうか。


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