goo blog サービス終了のお知らせ 

生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

心の傷 回復への道(その3)

2012-05-29 16:33:25 | エッセイ
わたしの反抗期は長く、11歳から10年近く続きました。最初は父に反抗し、その後母に反抗しました。でも、この反抗期は自己を形成するために必要な時期でした。
母に反抗してもその支配からなかなか抜け出すことができず、抜け出したのは40代に入ってからでした。

自己評価が極端に低いというわたしの抱えていた問題は、家庭環境にあったのかもしれません。でも、同じような環境で育ち、親から同じように否定的な言葉を言われてきた人がいたとします。その人は否定的な言葉をバネにして積極的で頑張り屋になったかもしれません。

わたしの生まれつきの性格にもよるので、誰かのせいにして怨むようなことはしたくありません。怨みを晴らすことができたとしても、それは何の解決にもなりません。

わたし自身、親になったとき、ひどい言葉で子どもたちの心を傷つけてしまったことがありました。

間違った育てられ方をしたり、家庭内で虐待を受けたり、「生まれてこなければよかった」と言われたり、愛されなかったり、愛されているのにそのことが伝わらなかったり……。

問題の多い家庭であっても、理想の親子関係でなくても、子どものころに深い心の傷を受けたとしても、どんな状態でも回復可能だということをお伝えしたくて書いています。

過去に戻ってやり直すことができなくても、傷は癒されます。新しく歩み始めることができます。

それでは、わたしはどのようにして癒されていったのでしょう。

5/19のブログ「あなたは高価で尊い」に【そんなわたしが自分の意見をはっきり言えるようになり、人前で感情を表せるようになったのは、聖書の言葉に出会って、自分の存在価値が認められていることがわかったからです。『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』このみ言葉がわたしを根底から変えてくれました。】と書きました。
この一文をもう少し詳しく説明します。

聖書の言葉に出会うとは、初めて読んだということではありません。イザヤ書43章4節は有名な箇所ですから、22歳で洗礼を受けた後、何度も読んでいます。最初のうちは読んでも特別な思いを抱きませんでした。

「わたし」というのは神様のことだとわかりましたが、「あなたは」というのが誰をさしているのかわからず、たくさんの人がこの箇所を読むのだから、不特定な人に対して「あなた」と書かれているのだなあと思っていました。

ところが何度目か読んだとき「あなた」という言葉を見て、ドキッとしました。自分のことだと思えたのです。なぜそう思えたのか……(神様が働きかけて下さったとしか思えません)とにかくそう思えたとき嬉しくて涙が出ました。
そのときから癒しが始まったのです。神様によって薬をつけられ、包帯が巻かれたので、心の傷やひねくれた思いも少しずつ癒されてきました。

金環日食で神様からたくさんの○をもらったように思えたとき、自分でもびっくりしました。(5/21のブログをごらんください)○をもらうというのは、わたしの言動が、生き方が正しいという意味ではありません。わたしの存在が○だということです。
かつてのわたしは自分に×ばかりつけていました。そのことを思うと、いまのわたしは(完全ではありませんが)神さまによってかなり癒されていると思えるのです。

完全に癒されても傷跡は残りますが、その傷跡は同じように傷ついた人を慰めることができるでしょう。

聖書の言葉

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(マタイ5:4)」

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。(Ⅰペテロ2:24)」

「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。(イザヤ61:1)」

                           おわり

最後まで読んでくださってありがとうございます。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

心の傷 回復への道(その2)

2012-05-27 17:21:10 | エッセイ
ああ、体が2つあったら……。と思ったことはありませんか。

昨日、JCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)の例会と日本児童文学者協会(児文協)の総会がありました。どちらにも行きたかったのですが、体はひとつです。

役目と責任を果たすために神楽坂で行われた児童文学者協会総会へ行きましたが、そこで思いもかけぬ方にお会いしました。関西JCPのI先生です。I先生が児文協の理事をされていることは知っていましたが、その日にお会いできると思っていなかったのです。
京都で行われたJCPの夏期学校でお目にかかって以来2年ぶりでした。短い時間でしたが、お話しできて嬉しかったです。

それでは、この前の続きをお読みください。


父は幼少のころ実家に預けられ、母親と離れて暮らしていたので、大人になっても母を慕う気持ちが強くあったようです。

父はちょっとしたことで怒りました。怒るというより、子どものように癇癪を起し、ドアをドタンバタンと閉めたり、足をふみならして癇癪を起します。原因は些細なことで、たとえば日曜の朝早く隣の家の犬が鳴いたので目が覚めてしまったとか、床にゴミがひとつ落ちていたとか、洗面台が汚れていたということで怒るのです。

父は怒ると食事もしないでふてくされたようにふとんをかぶって寝てしまいます。そういうときは祖母がなだめに行きます。父はしかたなく起きてきて食事をするのですが、一言もしゃべりません。わたしたちは、父の機嫌がなおるまでビクビクしながら黙って食事をしました。しーんとした食卓の雰囲気は今でも忘れられません。

気の強いはずの母は、父に対して決して口答えをせず、逆らいませんでした。もし、逆らったら家庭は崩壊していたでしょう。父は決して母にあやまりませんでした。
わたしはそんな父のことが大嫌いで、心底恐ろしく思っていました。

ところが、わたしは父の癇癪持ちを受け継いでしまいました。
小学4年生ぐらいまではいい子でなければ愛してもらえないと思い、いい子にふるまっていたのですが、5年生になるころ、いい子を演じ続けることができなくなって反抗しました。

そのときは気づかなかったのですが、怒りのぶつけかたが父とそっくりだったのです。
父とぶつかって大げんかをしたことは、数え切れないほどありました。

それでもわたしは、反抗しながらも父と母の愛を求めていました。無条件の愛を求めていたのだと思います。でも、いうことをきかなくなったわたしは、もう愛されていないのだと思い、孤独と悲しみの中で死を願ってもがいていました。
                       
                    つづく



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。




心の傷、回復への道(その1)

2012-05-25 16:51:38 | エッセイ
19日のブログにエッセイを紹介しましたが、もう少し掘り下げて書いてみました。HPに掲載しているエッセイ「アダルトチルドレンだったわたし」とも重複している部分があります。


かつてのわたしが、『なぜ存在していてもいいのか』などと考えたのでしょうか……

わたしは両親と祖母に愛されて育ちましたが、子どものころは、愛されてないと思っていたのです。

母はわたしを産む1年ほど前、第一子を生後5日で亡くしています。それが母にとってどれだけ哀しい出来事だったのか……結婚して子どもができるまでわたしには理解できませんでした。

明治28年生まれの祖母は、尋常小学校の教師でした。結婚して妊娠しても教師を続け、出産前日まで教壇に立っていたと聞きました。

共働きは、当時珍しかったと思います。3人の子どもを産んでも教師を続け、いちばん後に生まれた父が5歳のとき、夫(わたしにとっては祖父)が亡くなったそうです。祖父も教師で漢文の先生だったそうです。

それから、祖母は子どもたちを実家に預け、秋田で小学校教師を続けていました。転勤もあって、子どもたちと離れたところに住んで通勤していた時期もあったようです。

そんな頑張り屋でしっかり者の祖母でしたから、母に対してつらく当たったこともあったらしいです。

また、父は親戚の人が決めた人と婚約していて、婚約中に母と出会ったそうです。祖母の反対を押し切り、婚約を破棄して母と結婚したのですから、祖母にとって母は最初から好ましくない存在でした。

結婚してから30年間、姑が召されるまでずっと一緒に暮らしていた母です。当時は珍しい事ではありませんでしたが、父は無口で毎日帰りが遅かったので、かなりストレスがあったことでしょう。
また、祖母と母の間で争いがあっても、父はいつも母親(祖母)の味方で、母をフォローすることはなかったようです。

母の苦労を思うと、よく耐えてくれたと感謝の気持ちでいっぱいです。

わたしは生まれつき病弱であまり外に出なかったので幼稚園に入るまでは、同じ年ごろの子どもと遊んだことがありませんでした。

幼稚園に入ると、人見知りをして貝のように口を閉ざしてしまいました。家ではわがままで大声でさわいでいるのに外に一歩出ると何もしゃべれなくなってしまいます。

母はわたしが積極的になれるように幼稚園の友達を家に呼んでくれました。それでもわたしはほとんどしゃべらず、母が中に入ってわたしの代わりにしゃべっていました。わたしは母がしゃべってくれるからと安心してますます無口になっていきました。

小学生になると、授業参観のとき手を挙げるように母に言われました。手を挙げたらお小遣いあげると言われても、手を挙げられませんでした。家に帰ると母は怒りました。

先生や友達に必要なことも言えないでぐずぐずしているわたしを母はもどかしく思っていらいらしていました。そんな母をだんだん負担に感じるようになりました。でも、一方では母がいないと何もできません。わたしは自分で考えて行動したり、決断することのできない子どもになっていました。

母は「あんたは、何の取り柄もない。せめて器量がよければよかったのに」と言いました。わたしは、そんな母の言葉に深く傷つきながらも肯定し、劣等感が増していったのです。

母に逆らうと「わかったからもういい!」と言ってそれきり口をつぐんでしまうとき、見放された気がして不安でなりませんでした。「わかったって、なにがわかったの?」と聞くと「あんたがどんな子かわかったから、もう知らない」と言うのです。
そう言われると不安で、悪かったと思わなくても「ごめんなさい」と泣きながらくり返し言っていました。

「いうこときけば、かわいがってあげる」
条件付の愛を提示され、従わずにいられませんでした。

いまだに母にしかられる夢をみます。

母が過干渉でわたしのことを支配しようとしたのは、母にも鬱積した思いがあったからなのだと、今になって思います。
                           つづく



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

震災から一年

2012-03-11 16:16:01 | エッセイ
震災の日から1年。教会では被災者のために特別な祈りがささげられました。
今日は福島県いわき市の薄磯海岸で仏教とキリスト教の合同慰霊祭が行われたそうです。
第一礼拝後、主任牧師と10数名の方が出かけて行きました。

このたびの震災で、土浦めぐみ教会宛てにアメリカ合衆国、韓国、インドネシア、香港、モンゴル、台湾などの海外の教会から計780万円もの献金があったと聞いて驚いています。めぐみ教会を信頼して届けてくださったのです。

教会からは、義援金を用いて12回炊き出しに行き、がれき撤去や絵本支援を行い、残りは復興支援金、被災教会支援金として献金したそうです。(詳しくは土浦めぐみ教会のHPをご覧ください)

わたし個人としては、炊き出し奉仕に行くこともできず(体力的に無理なので)、ただ祈ることだけでしたが……。
日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)で書いたエッセイ「わたしと東日本大震災」を紹介します。
     
残されし者の使命     

そのとき、わたしは自宅のリビングでくつろいでいた。突然腹に響く地鳴りがした。すぐに揺れが始まったが、そのうちおさまると思っていた。ところが、おさまるどころかどんどん大きくなっていく。

仕事が早く終わって帰宅していた娘が部屋から飛び出してきた。
「ドア開けたからね。お母さんは、ベランダの窓を開けて。お風呂に水を入れないと……」

娘は余震が続く中でテキパキ動いている。
わたしは何もできず、すわったまま呆然としていた。そんな大きな地震が起こるはずないと思っているのだ。

マンションの上階の人がやってきたとき、はっと我に返った。上階の家では食器棚や本箱が倒れ、大変なことになっているという。

我が家では何一つ壊れなかった。主人がたんすや食器棚などすべてに地震止めをしてくれていたからだ。

停電で信号がつかず、主人は隣のつくば市から4時間かかって帰宅した。電気は1日、水道は2日、ガスは10日も止まっていた。

日が経つうちに被害の大きさを知らされた。原発事故という日本では未曽有の出来事に不安でたまらなくなった。テレビの悲惨な映像を見て、何もできない自分を責めた。神様はなぜこんな災害が起こるのを許されたのだろうか……。

ヨブ記38章を読んでいたら、主がヨブに言われた言葉、「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか」が心に留まった。

創造者である神様は、わたしたちよりもはるかに知恵あるお方である。わたしたちにはわからなくても何かの目的があってこの災害を起こされたのだと思った。

今わたしができることは『書くこと』しかない。



日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。ブックマークにあります。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

本当の自分に出会って

2011-12-23 11:45:39 | エッセイ
人の心は、意識している部分とそうでない部分があるといわれています。無意識の部分は深いところにあって、そこには真の姿の自分がいます。
心に悩みを抱えているとき、意識している部分を改善しようとしてもなかなかうまくいきません。意識下の深い部分の自分に出会わないと解決しないのです。

真の自分に出会うことは恐ろしいことです。なぜなら醜い姿や傷を直視することになるからです。できれば深い穴に放り込み、蓋をしてコンクリートで固めてしまいたいです。
自分は寛容で親切で思いやりがあり、愛に満ちた人間だと思っていたいのです。でも、実はどうしようもなくわがままで自己中心であることに気づいていました。

わたしの父は癇癪持ちでした。怒るとあばれ、ドシドシ足を踏み鳴らして怒鳴りまくるのです。その怒りも正当な怒りならがまんできますが、たいていはわがままからでした。たとえば日曜の朝早く隣の犬が鳴いたため目が覚めたということだけで怒り狂うのです。

わたしは、そんな父親が大嫌いでした。ところが、わたしも自分の思い通りにならないとき、ときどき癇癪を起してあばれます。何度父とぶつかったことでしょう。
外では絶対に見せない姿ですが、家の中ではとてもわがままでした。

20代で教会に行きはじめたとき、自分のあばれ方が父親そっくりなことに気づいて愕然としました。
こんな自己中心な姿がわたしの本当の姿なのかもしれないと思いました。

心の深いところに降りて行って、わたしは真の自分と対面しました。醜い自分を想像していましたが、これほどまでとは思いませんでした。わたしは、絶望して泣きました。
こんな姿をみたら、誰もが逃げて行ってしまうと思いました。でも、イエス様は離れませんでした。

イエス様は近づいてきて「醜いままでいいんだよ。そんなお前を愛している」と言って醜い部分に触れて下さったのです。
そのとき、真っ黒でどろどろしていた本当の自分が、イエス様に触れられた途端、真っ白に変わりました。
もう醜くありません。誰に見られても恥ずかしくない姿になっているのです。

わたしは、イエス様が生まれた場所を思い出してみました。世界で最も貧しい家畜小屋でした。そこは臭くて汚い場所です。まるで自分の心のようなところです。あえてそのようなところで生まれて下さったのは、どんな醜いものでも受け入れてくださるという意味だったのではないでしょうか……。

それから、イエス様がなさったことを思い出してみました。
罪がないのに十字架刑という最も重い刑罰を受けて死んでくださいました。わたしの罪を贖うためだったのではないでしょうか……。

本当の自分に出会うこと。それは、恐ろしいことではありません。なぜならイエス様が一緒だからです。醜さと向き合ってもだいじょうぶです。イエス様がそれをきれいにして下さるのですから。

イエス様が自分のために生まれて下さり、自分のために死んでくださったことがよくわかったとき、喜びが沸き上がってきました。

本当の自分がどんなに醜くてもだいじょうぶなんです。もう、隠したり、とり繕ったりする必要はないのです。そのままの自分で充分なんです。


聖書の言葉 

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(Ⅰヨハネ4:9)



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

忘れ得ぬ人

2011-03-05 21:18:28 | エッセイ

今日は、子ども家庭集会でMちゃんの家にいってきました。ふだん、教会学校に来ていない子ども2人を含め、5人の参加でした。創作紙芝居をし、トランプ遊びをして楽しいひとときでした。

教会で発行している「月報めぐみ」では、月ごとにテーマが決められていて、そのテーマで数人が文章を書きます。今月号は「忘れ得ぬ人」で、わたしは「隣のおばちゃん」という題で書かせていただきました。月報は明日発行です。一足先に紹介します。

***********************************************************************************
        隣のおばちゃん

わたしは中学一年のとき、父の転勤で東京から神戸に引っ越しました。聞き慣れない関西弁に戸惑い、不安でいっぱいでした。

新しい家に着いたとき、隣家から満面の笑顔でわたしたち家族を迎えてくれたおばちゃんがいました。
「わからんことがあったら、何でも聞いてや」
と言って、おばちゃんはカラカラと笑いました。

母は、おばちゃんとすぐ親しくなり、家族ぐるみでおつきあいが始まりました。おばちゃんには子どもがいませんでした。

妹は、人なつっこい性格なので可愛がられました。無愛想で人見知りの激しいわたしは、おばちゃんに自分から話しかけることはありませんでした。おばちゃんも、わたしとどう接したらよいかわからないようでした。

半年ほどたったとき、蕨を隣に届けるように母から言いつけられました。わたしは、人と話すのが苦手で、誰かの家を訪問するのは苦痛を感じるほどでした。

やっとの思いで蕨を持って行くと、おばちゃんは怪訝な顔で、「この前も蕨もらったで。他の家に持って行くはずなんちゃう。お母さんに聞いてみ」と言って、受け取ってくれませんでした。
母に尋ねると、「まだたくさんあるから、もう一度あげるのよ。また、行ってきて」と言います。
わたしは、受け取ってもらえなかったことのショックと、また行かなくてはならない負担に耐えきれず、泣き出してしまいました。

「もう、行けない」と言うと、「届けるという役目をちゃんと果たしなさい!」と母に叱られました。
わたしは、顔を洗ってもう一度隣へ行きました。しどろもどろに説明すると、今度は受け取ってもらえました。

おばちゃんはわたしが泣いたことに気づき、「Y子ちゃん、純情やねんね」と母に言ったそうです。それ以来、おばちゃんとの距離がぐっと縮まりました。

毎年8月の誕生日には、汗だくになりながらクッキーを焼いてくれました。
人形劇部の卒業公演には、母と共に見に来て、母より先に涙を流していました。

わたしは中学生のころ、孤独の中にあって死にたいと思っていました。自分を気にかけてくれる人はひとりもいないと思い、暗い顔して歩いていると、「どないしたん。元気出さなあかんよ」と、おばちゃんがぽんと肩をたたいてくれました。

死なないですんだのは、おばちゃんの存在があったからかもしれません。
12年の神戸での生活を終え関東に戻るとき、おばちゃんは目を真っ赤に泣き腫らしていました。
おばちゃんは神様が備えてくださった方だったのです。今は天国にいるおばちゃん、おおきに。

***********************************************************************************

おばちゃんは数年前、老人ホームに入り、去年の暮に亡くなったという知らせがありました。おばちゃんはクリスチャンではありませんでしたが、別れてからずっと、おばちゃんが主に導かれますようにと祈っていました。おばちゃんはきっとイエス様を信じて天国へいったのだと思います。

ところで、蕨を持っていたとき、泣いてしまったわたしの気持ちを読者に理解していただけたかどうか、それが疑問です。また、記憶に残っているおばちゃんの言葉を書きましたが、関西弁は間違っていなかったでしょうか?(コメントをお寄せ下さい)

わたしが、以前はひどい内気で無口だったと言うと、誰も信じてくれません。今でもそういう部分が残っていると自分では思っているのですが……。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



クリスマスに十字架を思う

2010-12-21 18:52:11 | エッセイ
クリスマスの行事がひと段落してほっとしています。

文通している方から『イエス様のような素晴らしい方が、なぜ十字架につけられたのか。なぜこんなに苦しい死に方をしなければならなかったのか・・・』という質問をいただいたので、それに対して書いた返事の一部を紹介します。

イエス様がなぜこんなに苦しい死に方をしなければならなかったのか・・・わたしも不思議に思っていました。
死ぬにしても一瞬のうちに命が奪われるギロチンなどの方法なら、どれだけ楽だったでしょうね。
何時間も苦しんで死ぬ十字架刑は、当時の死刑の方法ではいちばん残酷なものだったそうです。だから極悪人にしか行われない死刑の方法です。
くぎを刺された手足の痛みに加え、呼吸の苦しさを耐え忍ばなければならなかったのですから、想像するだけでも恐ろしいです。

でも、人間の罪の根深さを・・・そして自分の罪の深さを考えると、人類の罪を赦すためにはそこまで壮絶な苦しみを味わう必要があったのではないかと思います。

わたしは、22歳まで自分に罪があるなんて全く思っていませんでした。
喘息という持病があり、つらい子ども時代を過ごしたこと。中学生の時、友達がひとりもいなくて、死にたいと思ったこと。周囲の人はだれもわたしの気持ちを理解してくれないで、傷つける言葉を浴びせること……など思い、自分はなんて可哀そうな人間なんだろう、何て不幸な人生なんだろうと嘆いていました。

両親や妹と喧嘩ばかりしていて、家を出ていきたいと思っていました。家族と衝突するたびに、自分は正しいのに・・・と思っていました。

あるとき、三浦綾子さんの本を読んで、自分が正しいと思っていることが罪なのだと気づき、ハンマーで頭を殴られた気になったのです。それから教会に行くようになりました。
教会で、自己中心であることも罪だと教えられて、自分の罪の大きさに打ちのめされました。

いつも「わたしが、わたしが・・・」と自己主張し、相手を思いやる心が欠けていたこと。被害者意識が強くて、人にされたひどいことをいつまでも怨んでいたこと。これらが罪なのです。

でも自我が強く、ものすごく意地っ張りだったため、罪に気づいてもなかなかあやまることができませんでした。

イエス様の十字架の苦しみを思った時、わたしのためにこんなに苦しんでくれたのだと、心が震えました。そして、やっと素直になれ、あやまることができました。

それでも母にあやまったとき、「やっと自分が悪いって気付いたのね」なんて言われると腹が立って「せっかくあやまってるのに何よ!」と怒ってしまうわたしです。

完全に自我を捨て、謙遜になることは今でもできませんが、神さまが少しずつ変えてくださることを信じてイエス様を見上げて歩んでいます。

不当な仕打ちを受けたり、人からバカにされたりしたとき、イエス様があれほどの苦しみに耐えて下さったのだから、がまんしなければならないと思っています。

十字架にかかってわたしやあなたの罪を赦すために生まれてきてくださったイエス様。もうすぐそのイエス様のお誕生日、クリスマスですね。

クリスマスの祝福があなたのうえにもありますように。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

自我を捨てたとき

2010-03-02 12:10:14 | エッセイ

わたしは高校生のころから22歳まで、自分が正しいといつも思っていました。
劣等感にさいなまれていた中学時代が過ぎ、文章が認められたことで優越感を抱き始めた高校時代。

努力すれば自分の力でなんでもできると思い、おごり高ぶっていました。
受験に失敗したときはさすがに落ち込みましたが、補欠で繰り上げ合格になって、また舞い上がってしまいました。
短大では、入学試験の成績が一番悪いのだから、人一倍努力しなければならないと思い、一生懸命勉強し図書室の本を2年間でほとんど読んでしまうほどの勢いで読書もしました。
そのため、成績はほとんどA評価でした。
学校のテストは、努力すれば成績が上がるようになっていますからね。
ところが、幼稚園に就職して、その当たり前の法則が全く通用しないことを知り、愕然としました。

たったひとりの4歳児の心をつかむことすらできないのです。
親離れできなくて、「お母さんー!」と泣き叫ぶ子ども。教室を逃げ出して滑り台にのぼってしまう子ども。抱きかかえて無理やり教室の前まで連れてくると、マットを体に巻きつけて泥だらけになって泣き叫びます。いっときもじっとしてられずに、教室中歩き回って女の子の髪の毛を引っ張っている子。

初めて受け持ったクラスは、そのような子どもたちに振り回されてオロオロするばかり。そのころは学級崩壊という言葉は聞きませんでしたが、まさにその状態でした。
このようなことに対処する方法など学校では教えてもらえませんでした。

学校の成績が良かったことなど、何の役にも立たなかったのです。
わたしの中にあった、自分はいつも正しい。努力すればよい成果が得られる。という神話が崩れていきました。

三浦綾子さんの小説を読んで、自分が間違っていたと気づいて教会へ通い始めました。
自我を捨てたとき、イエスさまを心の中にお迎えすることができました。


詳しくはHP生かされて・・・土筆文香エッセイの部屋「心のすき間が埋められて(1)」に書いています。


OBIで教えていただいたことを紹介します。

SINがSONになった

【罪を英語でSINと書きます。SとNの間にIがあります。Iをゼロ(O)に置き換えると、SON
になりますね。
SONとは息子。神様の一人息子、イエスさまを指します。SONであるイエスさまがSIN(罪)を無くしてくださったのです。】


イエスさまを心にお迎えした後も、無意識のうちに自我がムクムクと頭を持ち上げてくることがあります。
わたしがすることは、I(アイ=わたし)を捨てること。しっかりとにぎっていた自我を捨てることだと改めて教えられました。

心の漂流者

2010-01-21 16:35:31 | エッセイ

先日、「心が漂流している」という青年のことがTVで放映されていました。彼らは、自分の居場所がなくてむなしさを感じています。もし、自分が死んでも誰の人生も変わらないのだから死にたいと思い、リストカットを繰り返します。すべてがどうでもよくなってしまい、薬物にも手を出してしまいます。


「悲しいのに泣けない」
というのを聞いて、心が痛みました。

暴走族に入っていた女子が、あるとき取材を受け、大人の誰かが真剣に話を聞いてくれることで救われたと言っていました。そして、こんどは彼女が心の漂流者たちの話を聞いているそうです。

かつてのわたしも漂流者でした。どこへいくのか、どこへ向かって行ったらいいのかわからずに魂はさまよっていました。中学生のときは真面目で一生懸命努力する子どもでした。単語カードを持ち歩き、食事の間も覚えていて母親にしかられました。勉強に関しては努力すればするほど成績が上がり、目に見える結果が出ます。

でも、成績が上がって何になるんだろう? たとえいい大学に入っても生きる目的がないのだから仕方ないじゃないか・・・。と考え、たとえ社会に貢献する偉い人になったとしても、人間最後は死んでしまうのだというところへ考えが行きつくと、すべてがむなしくなってきました。

何のために生まれてきたのか? 何のために生きるのか? 人生は、苦しみに耐えてまで生きる価値があるのだろうか? と考えて、わたしの出した答えは、「そんなにまでして生きることはない」でした。

そのころの苦しみというのは、友だちがいなかったことと喘息の苦しみです。中学生になったら治るといわれていた喘息が治るどころかひどくなってきたこと。一生治らないかもしれないと思えたことです。
「生きることはない」と結論は出ても、自殺する勇気もなく、心は漂流を続けながら生きてきました。

そして、とうとう心の居場所をみつけました。
それは、イエス様の懐(ふところ)でした。イエス様は「そのままでいい」と言ってくれました。


「何もできなくていい。不器用な者でいい。お前はなくてはならない存在なのだ」
と言ってくれました。長い間の漂流生活は終わったのです。

今、どこへ向かって歩んでいけばいいかわからずにさまよっている方。心に冷たいすき間風がふいて、むなしさにため息をついている方。本当の愛なんか存在しないのだと思っている方。

わたしは、そんな方たちにキリストを伝えたいです。キリストこそ行きつくべき場所。
キリストこそ愛のお方だからです。

言葉で人を傷つけたとき

2009-12-19 17:54:01 | エッセイ

今日はCS小学科クリスマス会でした。
わたしの担当したドラマは、自分で言うのは何ですが・・・なかなかの出来栄えでした。監督、撮影、編集のすべてをして下さったK先生に感謝です。

家庭集会クリスマス会での証しの原稿を掲載させていただきます。


言葉で人を傷つけたとき  

家庭集会18年続けて嬉しかったことは、KさんとOさんが洗礼を受けたことです。
「辛かったことはありません」と言いたいところですが……実は家庭集会をやめようと思ったことがこれまでに2回ありました。1回は乳癌になったときですが、もう1回はその数年前のできごとです。

家庭集会のあとの会話の中でわたしはひとりの人の心を傷つけてしまいました。傷ついたと言って下さったのでわかったわけですが……。

出席した人が満たされて喜んで帰って行く家庭集会になるようにと備えてきました。その家庭集会の場で傷つけるようなことを言ってしまうなんて……とショックで3日間、ほとんど食事がとれないほどに落ち込んでしまいました。

もう家庭集会を開く資格がないと思いました。伝道師のM先生に相談すると、「あなたが言った言葉は傷つけるような言葉ではない。誤解して受け止められたのだから、そんなことで家庭集会をやめることはない」と言われて、なんとか立ち直れ、家庭集会を続けることができました。でも釈然としない思いが残りました。

最初は悪かったと思っていたのに、月日がたつうちに自分は悪くないのだという気持ちに変わっていったのです。

そして今から6年前に乳癌になりました。
乳癌になって、辛いところを通らされたとき、わたしは今までの自分がとても高慢だったということに気がついたのです。

誰かが悩みを語ったり、苦しみを訴えたりしたとき、何かアドバイスをしなければと思っていました。その人より一段高い所に立って、教えようとしていました。今どきの言葉で言うと「上から目線」で話していたのです。

あのときもそうでした。一緒に苦しむのではなく、相手には十分わかりきっていたこと……正論を唱えていたのです。

乳癌の手術後、リンパ転移があるので再発転移のリスクが非常に高いことがわかったとき、辛くてたまりませんでした。

葛藤の末、最終的には神様にすべてをお委ねして平安をいただいたのですが、葛藤の最中に誰かに「神様はすべてを働かせて益としてくださると聖書に書いてあるでしょう」と言われたら深く傷ついてしまうことに気づきました。

神様に委ねたあとでも、血液検査で腫瘍マーカー値が上がっただけで、心は大嵐のように波立ち感情が不安定になってしまいました。そんな自分の弱さをとことん知らされました。

正しい言葉が人の心を傷つけることがあるのです。言葉は悪くなくても、あのとき話したわたしの態度はなんと高慢だったのでしょう……。わたしが悪かったのだとようやく気づきました。

わたしはほかにも色々な人の心を傷つけていたかもしれません。今もわたしの言った言葉で心の傷が痛んでいる人がいるかもしれません。この罪がいつまでも残るのなら、生きていることができません。

でも、ルカの福音書を読んだとき、罪深い女に対してイエス様の言われた、「あなたの罪は赦されています。」 (ルカ 7:48)という聖書の言葉が迫ってきました。

わたしの罪は神様からすでに赦していただいているのです。そのためにイエス様が十字架にかかってくださいました。十字架にかかるために人となって生まれてきてくださったのですから……。

 過ちを犯し、乳がんにならなければ人の心の痛みに気づくことのなかった欠けのあるわたしが家庭集会を開かせていただいています。このことは、神様の憐れみです。また、背後で祈ってくださる多くの人たちに支えられているからです。

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣けるような者になれるよう願っています。

心のフィルムに(その5)最終回

2009-10-29 17:09:38 | エッセイ

すぐに看護師さんがきて、その後ろから母、妹、娘がバタバタとかけつけました。

「たった今、呼吸が止まっちゃったの!」というと、母が「お父さん、お父さん、お父さん!」と3回大声で呼びました。
 
すると父は息を吹き返し、数回呼吸して再び止まりました。医師が来て脈をとりながら「8時17分です」と言いました。

「間に合ってよかった。わたしが声をかけたから息を吹き返したのね」
 母が泣きながら言いました。
「お父さんはお母さんを待っていたのよ……」
「そうね。神様、有り難う」

父の顔は穏やかで平安に満ちていました。悲しいのですが、感動で心が震えました。父は信仰を告白して洗礼を受けることはなかったのですが、キリストを信じて天国に行ったのだと確信しました。

3週間の入院生活でしたが、その間少ししか苦しまなかったことが慰めとなりました。末期癌の壮絶な苦しみを恐れていたわたしに神様が「何にも心配することはないのだよ」と言って下さった気がします。

聖書の言葉を聞きながら静かに息をひきとった父に神様は栄光を現して下さいました。

葬儀は仏式で行われましたが、病院でお別れ会をして下さいました。「いつくしみふかき」の讃美歌で病院の先生や看護師さんたちに見送られてホスピスを出ました。

父の棺に入れる物を探していて驚いたことがありました。
父の部屋に三浦綾子さんの本「永遠の言葉」から抜粋してワープロで打った物の綴りが3部置いてあったのです。渡されることはありませんでしたが、3部コピーしてあるということは母と妹とわたしの分なのでしょう。それはB5で7ページもありました。父がこの本からどれほど深く影響を受けていたかがわかりました。

『寝たきりの、何も自分の言葉でものの言えない人も、思っていることの心の中はすばらしいですね。(一方)口に出して言えるわたしたちが「ありがとう」という言葉を出さずに生きております。わたしたちはこの口で何かを言う義務があると思います。』

との一文を読んで、父が召される数か月前からよく「ありがとう」と言っていたことを思い出しました。

短気な父があまり怒らなくなり、末期癌だと知っても平安でいられたのは、この本の言葉を通して父の心に聖書の真理が流れていたのだと思います。

父の遺骨は秋田のお墓に納められましたが、分骨して土浦めぐみ教会の納骨堂に納めることができました。それはわたしが望んだこと以上のことでした。 

人の命ははかないものです。どんなに長生きしても、死を迎えるときは、あっという間の人生だったという人が多いと聞きます。83歳で召された父も母にそう言ったそうです。

人は死に向かってまっしぐらに進んでいるような気がします。もし死がすべての終わりならば、こんなに空しいことはないでしょう。でも、神様はキリストを信じるものには新しい体を与え、永遠の命を下さると約束して下さっているのです。

そのことを愛する両親に伝えることが何よりも大切なことなのに、これまでなかなかできませんでした。

父が末期癌になり、時間が限られたおかげで勇気をもって伝えることができました。癌にならなくても、いつかは召されるでしょう。今思い返すと、父が末期癌と宣告されたことが大きな神様の恵みだったのです。

地上で父ともう会えないことが寂しいのですが、心のフィルムに焼き付けた父との美しい記憶が宝物として輝いています。

                 おわり

心のフィルムに(その4)

2009-10-27 12:02:16 | エッセイ

「お父さんに会いたかったから」と照れながら言って、お昼を一緒に食べ、屋上庭園に車椅子を押していきました。わたしはそこで再び福音を語りました。

「わたしはイエスさまを信じているから、死んだら天国に行けるの。お父さんも信じれば天国に行けるから、そこでまた会えるよね。お父さんが信じたら、お母さんやY子(妹)も信じると思うよ。みんなで、また会おうね」

 うんと頷く父の目は、少年のようにすんでいました。そのあとまだ父と何度も話しができるだろうと思っていましたが、それが最期の会話になってしまいました。

1週間後、父の容態が急に悪くなったと母から電話があり、急いで病院にかけつけると、父の意識はありませんでした。声をかけても反応がなく、時々反射的に手足を動かすだけです。

「あと1日か2日です」と言われました。
その夜は、わたしがひとりで病院に泊まることにしました。前日泊まった母と妹はほとんど眠れなかったため、疲れがピークに達していました。とくに母は憔悴しきっていたので、今日も泊まったら倒れてしまうかもしれません。
 
夜9時頃は血圧の変化もなかったので、病院から車で30分の距離にある妹の家に母と娘が泊まり、わたしは病室のすぐそばの家族室で休みました。

夜中に血圧が少し下がったので点滴をしますと連絡がありました。わたしは、どうか朝まで父の命を取り上げないでくださいと祈り続けました。

明け方、看護師さんが来て「呼吸が浅くなってきました」と告げました。急いで父のところにいくと、手や足の先が冷たくなっていました。顎を上げ一生懸命呼吸をしています。 

父のそばで毎朝やっているようにデボーション(聖書を読み、祈る)をし、母に電話をしました。

意識がなくても耳は最後まで聞こえているのだということを思い出し、手元にある聖書を父の耳元で読み始めました。詩編のいくつかを読み、マタイの山上の垂訓を読み、次はどこを読もうかと思ったとき、ベッドのかたわらに立ててあるカードが目に留まりました。それは、父に贈った誕生カードでした。

カードには「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐいとってくださる。(黙示録21:4)」と聖書の言葉が書かれ、わたしの一番好きなみ言葉です。と書き添えていました。

それで黙示録21章の半ばから読み始めました。最後のページになったとき、ひどく胸騒ぎがしましたが、父の喉仏が上下するのを目の端でとらえながら読み続けました。


「わたしはアルファでありオメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」


この30分の間だれも病室に入って来ませんでした。読んでいると父の呼吸が段々弱くなっていくのがわかりました。


「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る」アーメン。主イエスよ、来て下さい。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」

これは、聖書の最後に書かれている文章です。
 
読み終えたとき、とうとう呼吸が止まってしまいました。

「お父さん、待って、お母さんもうすぐ来るのよ」と声をかけましたが、変化がありません。急いでナースコールを押しました。

                    つづく

心のフィルムに(その3)

2009-10-25 17:18:37 | エッセイ

次に実家に行ったときは「4つの法則」という冊子を見せながら、イエスさまのしてくださったこと、十字架の意味、天国について話しました。父は聞いてくれましたが、そのときは充分理解していないようでした。

9月始め、母が用事で3日間家を空けるので留守番を頼まれました。父と2人で過ごす貴重なときとなりました。父は幼少のころのことや学徒出陣でシベリアに抑留されていたことなど話し、話しながら涙を流しました。このようなことは今までなかったので、死が近いことを思い、動揺しながら聞いていました。

父は「ぼくがこれだけ頑張っていられるのは、お前のおかげなんだ」とも言いました。
「どうして?」と尋ねると、「お前がくれた本にどれだけ力づけられたことか……三浦綾子さんの本には感動したよ。もしあの本を読まなければ、こんな病気になったのだから、落ち込んでいただろうな……」と言ったので感激しました。神様は父の心に働きかけて下さっていたのです。

それから2週間後、父は呼吸困難で救急車で病院に運ばれました。酸素吸入でよくなり、1日で退院し、自宅に戻ったのですが、母の手を借りなければトイレにも行けなくなってしまいました。

「ホスピスに入院する」と父が決心したように言って、9月末に入院することになりました。10月5日が83歳の誕生日なので、10日ほど早めて、父の誕生会をしました。バースデーケーキーにろうそくを立てて祝いました。子どもや孫たちに囲まれて父はとても嬉しそうでした。

9月末に救世軍ブース記念病院に入院しました。そこにはチャプレンの先生がおられました。父は先生に「わたしはべつに仏教を信じているわけではないんですよ。キリスト教はいいなあと思っています。どうも、娘に感化されたようでね……。」と言いました。

入院当初、父は元気で「一時帰宅してもいいですよ」と医師に言われたほどでした。誕生日には病院で盛大に誕生会をしていただいて、とても喜んでいました。
父はチャプレンの先生と担当の医師にそれぞれ2時間もシベリア抑留の話しをしたそうです。忍耐して聞いていただけたことを感謝します。話した後、父は無口になりました。

ホスピスの礼拝に誘われると、父はわたしと一緒に行きたいと言いました。それで礼拝のある日、朝早くからホスピスに行き、父と共に礼拝に出ました。
父は一生懸命話を聞いていました。礼拝のあと、「講習会(礼拝のこと)はいいものだなあ……。意味がよくわからなかったから、あとで説明してくれないか」と言うので、屋上庭園に出てメッセージの解説をしました。屋上なら人目をはばかることなく大声で話せます。(父はかなり耳が遠いのです)

説明が終わると、父は「あ、そういうこと」とひとこと言いました。

翌日は土浦に帰る予定でしたが、何か忘れ物をしたように思い、もう1日実家に泊まって次の日も父のところに行きました。

几帳面な父は見舞いに来る人の名と予定日時を手帳に書いており、病室を出るときはいつもメガネと手帳を持って車椅子に乗っていました。  

わたしが予定外の時間に行ったので「どうして来たんだ?」と驚いたようすでしたが、ニコニコしてとても嬉しそうでした。

                  
つづく

心のフィルムに(その2)

2009-10-23 07:57:40 | エッセイ

お父さんは若いとき学徒出陣でシベリヤに行き捕虜になり、腸チフスで生死をさまよったんですよね。もし、そのとき死んでしまったらお母さんとも出会わず、わたしも生まれなかったわけです。考えてみると不思議ですね。帰国してからお母さんと結婚してわたしが生まれたわけで、もし他の人と結婚していたらわたしは生まれなかったんですよね。

わたしはこのようなことが偶然とは思わず、神様が計画されたことだと考えています。そしてお父さんもわたしも、(もちろんお母さんも)神様に守られ、愛されているのだなあと感じます。

わたしの願いは、お父さんの病気がすっかり良くなって元気になることです。でも、悲しいことにいつかはお別れするときがあるでしょう。人間はどんな人でも死ぬことが決まっていますからね。でも、イエスさまを信じると、肉体は死んでも魂は死なないのです。

天国で再会できるんですよ。お父さんにもイエスさまを信じてほしいなあと願っています。それでは、お身体くれぐれも大切に。夏にまた一緒に旅行にいきたいですね。』

手紙に書いたように、わたしは決していい娘ではありませんでした。厳格な父のことが嫌いで、ずうっと反抗していました。ところが、わたしが反抗していたことを父はすっかり忘れていました。手紙を読んだ父が「そんなことあったのかなあ?」と首を傾げました。父は赦してくれていたのです。

父は、半年近くなんとか家で日常生活を続けていました。家事のいっさいを母にさせてはいけないと、食器洗いを手伝ったりもしていました。調子のいいときは近くを散歩もできるほど元気でしたが、癌は確実に広がっていたのです。

進行癌はなんて残酷なのでしょう。このまま家で生活を続けていたいとどんなに願っても、それができなくなるのです。食事ができ、呼吸ができ、眠れるということは当たり前のように感じていましたが、神さまによって健康が支えられていたからできていたのです。生きたいとどんなに願っても、自分では一秒も寿命を延ばすことができません。命は神さまの手に握られているのです。

7月に帰省したおり、父が熱心にワープロで何か書いていました。書いていたのは「死亡連絡先リスト」でした。父は先が長くないことを知っていたのです。
「これを3部ずつコピーしてくれないか」と、わたしに言いました。
3部というのは、母と妹とわたしの手元に置いてほしいからだそうです。父とわたしはコピーをしに近くのスーパーに出かけました。

父と肩を並べて歩くことは、あと何回あるのでしょう……。どんどん時間が過ぎ去っていきます。川の流れのように留まることなく……。でも、一瞬は永遠につながるのだから、父と歩いている今を心のフィルムに焼きつけようと思いました。

後日、ファイルに綴られた死亡連絡先を渡されました。ファイルの一ページ目には次のように書かれていました。

『父がこのような状態になってしまって、お母さん、お2人(妹とわたし)に連日ご心配かけて申し訳なく、感謝しています。お2人はこれからの人生がありますので、元気で頑張ってください。父は20代から何回となく死に直面して我ながらよくここまで生きてこられたなあと驚いています。

これもみなお母さんやお2人のお陰と思っています。人には寿命があり、父はいつ皆さんとお別れしてもいいと覚悟はしています。ただお母さんの今後がいちばん気がかりでなりません。どうか宜しくお願いします。』

そして、延命治療はしないでほしいと言いました。

癌になる2年前、父は大動脈瘤で手術を受け、10日ほど入院しました。お見舞いに行ったとき、三浦綾子さんの本「永遠の言葉」を渡しました。それから実家に帰るたび聖書やキリスト教関連の本、自分が書いた証を父に渡していました。

でも、聖書に書いてあることを父に口で説明したことが一度もありませんでした。実家には仏壇と神棚があり、父は毎朝仏壇の水をとりかえて拝んでいます。そんな父に伝えて、受け入れてもらえるのだろうか? と思う気持ちが働きます。 

なかなか話し出す勇気がなくてためらっていると、父が突然「お祈りは、もうしたのか?」と聞きました。その前に父と会ったとき、初めて父の前で声に出して祈ったのです。父は、また祈ってほしいと思っているのかもしれません。

わたしは父の横に座ると、父は手を組んで目を閉じているではありませんか! 嬉しくなって父の病気のこと、母のことなど長い時間祈っていると、「はい、終わり」と父が言ったので、あわてて「イエスキリストのみ名によってお祈りします。アーメン」と早口で言い、祈りを終わらせました。

「仏教とかキリスト教とか関係なく、神さまというものがいると感じている」
お祈りの後、父が言いました。父は『大いなるものの存在』を感じ始めているようでした。

               つづく

*これから出かけ、東京の実家に一泊してきます。

心のフィルムに(その1)

2009-10-21 17:43:25 | エッセイ

今月18日は3年前に召された父の命日でした。父の召天のことを誰かにお伝えしたくて書いたものが、ペンライト賞佳作作品として2008年1月号の「百万人の福音」に掲載されたので、それを連載します。


心のフィルムに


82歳の父が末期癌で、あと数ヶ月の命だと告げられたのは2006年の2月でした。その前年の秋、前立腺肥大症で手術を受け、検査の結果、前立腺癌であることがわかりました。でも、その時は放射線を当てれば治るのだと楽観的に考えていました。

ところが膀胱癌から前立腺、肺へと転移していたことがわかり、放射線治療も打ち切られてしまいました。神さまはなぜ愛する父を末期癌の苦しみに合わせるのだろうと思いました。

その2年前にわたしは乳癌の手術を受けています。術後放射線治療を受け、その後順調に回復しましたが、再発転移をひそかに恐れていました。キリストを信じているので、死ぬことはちっとも恐ろしくありません。でも、末期癌になったらどれほど苦しむのだろうか……と考えると、恐ろしいのでした。

喘息のひどい発作で入院したことのあるわたしは、呼吸困難の壮絶な苦しみを味わいました。もし、癌が転移するのなら肺にだけは転移しないでと願っていたほどです。

ところが父の癌は肺に転移していて、抗ガン剤治療もできないというのです。目の前が真っ暗になりました。

「やがて呼吸困難になり、水槽から出された魚が口をパクパクさせるように苦しむことになります。もう治療の手だてがありません。緩和ケアーを行うホスピスを予約しておいた方がいいですよ」

医師の言葉を聞いて、母と妹とわたしは手をとりあって泣きました。
ようやく気を取り直してお祈りをしていると、「神様がいるのならどうしてお父さんがこんな病気になるの?」と言われ、何も言えなくなってしまいました。両親と妹は信仰をもっていないのです。

それから、父に内緒でホスピスを探すことにしました。自宅で看取ることができればいちばんいいのですが、母は体力的に無理だと言いました。父と母は都内に2人で暮らしており、わたしは実家まで電車で3時間近くかかる土浦に住んでいます。実家の近くに住む妹が頻繁に訪れていますが、仕事があるのでつききりで介護することはできません。

3月に妹とホスピスの見学に行き、キリスト教のホスピス2箇所に予約を入れました。ホスピスは想像していたより明るく、温かい雰囲気でした。
でも、ここでは緩和ケアーを行うだけで、治療はしないのです。そして、そのことを本人が納得していないと入院できないと聞いて不安になりました。果たして父は納得するでしょうか。説明すれば、助からないことを知って絶望してしまうのではないでしょうか。また、ホスピスに入るのをいやがるのでは……と危惧しながら日が過ぎていきました。

父は癌であることを医師から告げられていましたが、余命わずかだということは伝えられていません。
放射線治療をしているときは、副作用で腸の調子が悪くなり、食欲がなかったのですが、治療をやめると以前のように食欲が出てきました。病院からもらったモルヒネを飲んで痛みを調節しながら自宅で普段通りの生活を続けていました。

「お父さんといい思い出を作りたいから温泉旅行に行きましょう」という妹の提案で、4月の初めに両親と妹一家、娘の六人で箱根に行きました。そのとき父は体調がよく、旅館で出された食事を全部たいらげたので一同はびっくりしました。あと数か月の命とはとても思えません。癌が奇跡的に治ってしまったのではないかと期待しました。

箱根で生まれて初めて父から手紙をもらいました。この旅行の感謝と、母のことを頼むというようなことが書かれていました。

『今までにこれといったことは何もしてあげられなかったこと、申し訳なく思っています』というところを読んで涙をこらえるのに必死でした。

父に残された時間は限られています。その間になんとかキリストを伝えて父が洗礼を受けられたらどんなにいいだろうと思い、祈りました。

旅行から戻ってから、こんどはわたしが父に手紙を書きました。

『神戸に住んでいた頃、お父さんは毎日朝早くから夜遅くまで働いて、休みは週に一度しかなくて大変だったのですね。 

お父さんからは、部屋が汚いとよくしかられましたね。お父さんが「整理整頓」と書いた紙を壁にはってくれたのに、ちっとも片づけようとしなかったですね。
反抗期の長かったわたしは、よく逆らいました。お父さんにしかられて、くやしくて自分の足に爪をたてて傷跡が残るほど強くひっかいたことがありました。そのとき、お父さんは「根性がある」と誉めてくれましたね。誉められるようなことでは決してなかったのですが……。

 夜中に喘息の発作を起こして病院にいき、帰り道で坂が登れなくなってしまったときおんぶしてくれたお父さんの背中を今でも覚えています。いくら細身だといえ、中学生のわたしを背負って坂を登るのは大変だったでしょうね。有り難う。

                 
 つづく

拍手ボタンです

web拍手