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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

研ぎ澄まされた言葉

2012-10-04 16:26:25 | その他
昨日の朝日新聞に重い障がいをもつ少年、臼田輝君が、文字入力スイッチによって文章を綴ったことが紹介されていました。

少年は1歳の誕生直前に事故にあい、筋肉ひとつ自由に動かせなくなったそうです。中学一年までは、言葉を理解しているかどうか確かめることもできなかったのですが、文字入力ソフトを改良したものを持たせると、50音を読み上げる音声に反応したそうです。それから文字を選んで文章を綴るようになったと書かれていました。
その記事を読んで水野源三さんを思い出しました。

水野源三さんは脳性マヒで話すことも歩くこともできませんでした。お母さんが50音字表を使って文字を示し、源三さんがまばたきで文字を選び、たくさんの詩を書きました。


事故にあう前の輝君が言葉を発していたかどうかわかりませんが、一歳前ですから、発していたとしても片言だったでしょう。

それから輝君は長い間、傍らで話す家族や他の人たちの言葉を聞き続けて言葉を覚えていたのでしょう。たくさんの言葉を心に蓄えていたのでしょう。それがようやくソフトの開発によって、文字を綴ることができるようになったのですね。

ただ、意志の伝達という意味だけにとどまりません。発したくても発せなかった言葉が、何度も何度も頭の中を巡り、ようやく湧き出でてきた言葉は、研ぎ澄まされた言葉でした。
新聞に紹介されていた臼田輝君の言葉を紹介します。


くなん それは きぼうへのすいろです。
けっしてあきらめてはいけないということを
おしえてくれます


苦難が希望への水路とは……・なんとすばらしい発想なのでしょう。

せっかくのことばが ことばとして 
こうのうがきのように うけとめられてしまい ざんねんです(中略)
すばらしいのは つらくても ことばがあることです
ことばこそ ぼくたちにとって ひつようなものなのです


地球上の生物のなかで、言語をもつのは人間だけです。神様は、なぜ人間だけに言葉を与えて下さったのでしょう……。
良く考えもせずに出してしまった言葉。感情の赴くままに吐いてしまった汚い言葉。そのような言葉が人の心を傷つけます。自由にしゃべれるからといって、何と不用意に言葉を発してきたことだと……胸が痛みます。

神様が、与えて下さった、生きるのに必要な言葉です。心して、言葉を使っていきたいです。

水野源三さんの詩を紹介します。


感覚

脳性マヒで 自由を失った
私の体にも 感覚は残っている
春の暖かさも
夏の暑さも
秋の爽やかさも
冬の寒さも 感じる
神様の 限りない恵みを 強く強く感じる


まばたきでつづった詩

口も手足もきかなくなったわたしを
28年間も 世話をしてくれた母

良い詩をつくれるようにと
四季の花を咲かせてくれた母 

まばたきでつづった詩を一つ残らず
ノートに書いておいてくれた母

詩を書いてやれないのが悲しいと言って
天国に召されて行った母

今も夢の中で老眼鏡をかけ
書きつづけていてくれる母




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人とは何者なのでしょう

2012-06-08 09:50:57 | その他
今月は病院通いで忙しいです。
内科と外科と婦人科にかかっていて、先日の婦人科では6時間も待たされてしまいました。ある程度元気じゃないと病院へは行けませんね。
今日は午後から久しぶりの外科に行きます。乳がんの手術後8年半たったので、検査の日にちを決めるため、受診予約しました。予約していてもいつも3時間ぐらい待たされます。バッグには分厚い本を2冊入れました。

一昨日は太陽を金星が通過するのが見えるという稀な日だったのに、あいにくのお天気で見ることができませんでした。
惑星が地球と太陽の間を通過するという稀な配置になる可能性があるのは、地球よりも太陽に近い水星と金星だけだとか。金星のトランジットは、400年以上前に天体望遠鏡が発明されて以降、わずか6回しか起きていないと聞いて驚きました。
 次に金星が太陽表面を移動するのが観測されるのは、105年後だそうです。


宇宙のことを考えるとワクワクします。こんなに科学が発達している現在でも謎がたくさんあります。謎があるということは、空想の余地があるということです。宇宙人がいないという証拠はありません。人類と遭遇していないだけかもしれません。
CSルイスの本にこんなことが書かれていました。



「懐疑的な人は、神がこのちっぽけな惑星にだけ【下ってきた】というようなことをどうして信じられるのか、と問う。(中略)

宇宙は全然救いを必要としない幸福な生物で満ちているかもしれない。あるいはまた、われわれには想像もできないような、彼らの状態にふさわしい方法で救われた生物が、宇宙を満たしているかもしれない。

いや、われわれと全く同じ方法で救われた生物が宇宙を占めているのかもしれない。それとも、われわれには関心がないが、神には関心のある、生命とはまったく違ったものが宇宙に満ちあふれているのかもしれない。

ともあれ、地球のようなちっぽけで無価値なものが創造者の愛を受けるに値するとは思えない。キリストが人間のために死んだのは、人間が本質的にそれに価したからではなく、キリストが本質的に愛であり、従って、無限に愛する者であるからである。」
『奇跡…信仰の論理』 CSルイス著 柳生直行訳(みくに書店)



わたしはこのページに「この考え方素敵!」と鉛筆で書きこんでいました。
英国の神学者、英文学者で「ナルニア」の作者であるルイスだからこその発想です。

『われわれには関心がないが、神には関心のある、生命とはまったく違ったものが宇宙にはあふれている』かもしれないと考えると、なんだか嬉しくなりますね。

広大な宇宙を想うとき、「人とは何者なのでしょう……」と書いたダビデに共感します。宇宙を想ったら、地球、そしてその中で暮らしている人間などはちっぽけな存在です。神の愛に値するものだとは思えません。

それなのに神様は惜しみなく愛を注いで下さいました。
広大な宇宙を創造された神が、罪を犯して、魂が滅びるしかないわたしたち人間を顧みてくださって、救うためにひとり子イエスさまのいのちを与えてくださったことがどれだけ素晴らしいことか……。雄大な自然、宇宙の神秘にふれるといつも思います。



あなたの指の業である天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。(詩編8:3、4)





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究極の悲しみ

2012-03-21 12:11:24 | その他
昨日は主人の実家のお墓参りにいってきました。電車4回乗り換えて片道3時間の長旅でした。

今日はヒックンが熱を出したから預かってほしいとの電話がありました。午前中に病院へ連れて行ってから来るというので待機中です。


再び新美南吉のことを書きます。南吉は人間の究極の悲しみを知っていたのだと思います。
悲しみにはいろいろな種類がありますが、究極の悲しみは存在そのものにあるとわたしは考えています。
自分の存在が悲しいのです。なぜでしょう……。

人間は本来愛されるために生まれました。人は神によって造られ、神に愛されたからです。

最初の人、アダムとエバは神様と共にエデンの園という楽園で暮らしていました。そこには苦しみも涙もありませんでした。
ところが、神様が食べてはいけないと命じていた木の実をへびにそそのかされてエバが食べ、アダムも食べてしまいました。そのとき、罪が人類に入ったと聖書には書かれています。

その時以来、人間は労苦して糧を得なければならなくなり、やがては年老いて死ぬ者になりました。

アダムとエバは楽園から追放されてしまいますが、神様はふたりに皮の衣を着せました。皮の衣は後に来てくださる救い主イエス・キリストを表しているそうです。

エデンの園から追放したときに神様は人類を救済する計画を立ててくださっていました。
聖書は人類の救済史だと言われています。

人間は生まれながらの罪を持っていること。やがては死んでしまう存在だということが究極の悲しみなのです。死で終わってしまう人生はなんとむなしいものでしょう……。

南吉はそれに気づいて、「でんでんむしのかなしみ」をかいたのでは?と考えます。
でも、それには救いがありません。

わたしが「でんでんむしのよろこび」を書いたのは、この究極の悲しみがなくなる道があると読者に伝えたかったからです。

イエス・キリストの十字架の死によって人類の罪が赦され、永遠の命をいただくことができるようになったのです。これを福音(ふくいん)と言います。

「でんでんむしのよろこび」後半にジョイジョイさんというかたつむりが出てきますが、キリストをイメージして書きました。

さきほど「でんでんむしのよろこび(2)」を「生かされて・・・土筆文香」のHPにアップしましたので、読んでいただけると嬉しいです。


「でんでんむしのよろこび」は4パターン書きました。日本クリスチャン・ペンクラブ提出用と児童文学者協会提出用と、紙芝居用。そして今回HP用に新しく書きました。HP用に書いたのがいちばん書きたかった作品です。




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母親に愛されなくても

2012-03-06 13:21:07 | その他
今まで使っていたデスクトップ型のパソコン(Windows Vista)が使いづらくなってきました。50GBあるCドライブの容量が残り10%を切って動作がにぶくなっています。データーは外付けハードディスクに移しているのに……。使ってないものをアンインストールしたり、ディスククリーンアップをしても、一時的にしか回復せず、いつの間にかまた少なくなっています。

いつ動かなくなるかわからないので、ノートPCを購入しました。購入したPCは、今まで使っていたPCに比べてCドライブ容量が10倍もあります。
初期設定は娘にしてもらいましたが、「プリンターのインストールぐらいは自分でやってね」と言われ、四苦八苦しています。

それに慣れないPCはとまどうことばかりで、作業が進みません。
容量の大きなソフトを新しいPCに移し、主人がそれを使いうことにしました。結局わたしはもとのVista使っています。あと何年もつでしょうか……。PCは寿命が短いけれど、なるべく長く使いたいです。


日本テレビで2010年に放送されていたドラマ「MOTHER」の再放送を録画して見ています。児童虐待のドラマです。芦田愛菜ちゃんの演技に涙・涙……。

愛を与えられるはずの実の母親から虐待を受けるとは……子どもはどこに助けを求めたらよいのでしょう。でも、母親には母親の事情があって、一概に責めることはできません。

母親のおなかから生まれたとき、赤ちゃんは不安なのだそうです。最初に泣くのは、人が世界苦を背負っているからと言った人がいるそうですが、その通りかもしれません。人間は罪を持って生まれてくるのですから……。

そして、何もできない状態で生まれるので、不信感があり、不安だから泣くのだそうです。
でも、母親、あるいは母親に代わる人が、赤ちゃんを100%受容することによって不信を乗り越え、信頼を獲得します。それが希望になると聞きました。

「MOTHER」のつぐみも、生まれたときは母親から受容され、愛されたのです。生後一年の養育がその子どもの一生を決定するといいますから、つぐみの性格が素直なのはそのせいなのでしょう。

生まれてすぐ捨てられたり、愛されずに育った子はどうなるのでしょう……。時期がすぎてからでも、たとい大人になってからでも誰かに愛されることよって修復は可能です。希望はあるのです。

母親に愛されなくても、父なる神様が愛して下さっている。そこに希望を見出せます。

日曜礼拝で語られた聖書の言葉。
「口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない(哀歌3:29)」



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病に苦しむ誰かのために

2012-03-03 17:23:33 | その他
3月に入ると心まで暖かくなりますね。明るい日差しがまぶしいです。

キリスト教の月刊誌、「百万人の福音」で毎年ペンライト賞を募集しています。4年前、癌で召された父のことを書いた文章がペンライト賞佳作に選ばれ、掲載されました。
昨年、自分の病気のことを書いて再び応募しました。やはり佳作に選ばれ、4月号に掲載されることになりました。

前回は、父の死の数か月前からブログにリアルタイムで書いていたことをまとめた文章なので、たくさんの人に読まれることに抵抗はありませんでした。むしろ読んでいただけるのは嬉しいことでした。

でも、今回は嬉しいという感情はまだ湧いてきません。むしろ、知っている人に読まれると思うと、深い心の傷跡があらわにされるようで痛みを伴います。(一部はブログやHPにも書いていますが……)

編集部から先月20日に電話をいただいたとき、ほんとうに驚きました。
「百万人の福音に掲載してよろしいですか」と聞かれたので、「はい」と答えたものの、あの文章が掲載されてしまうのだと思うと辛くて2~3日眠れませんでした。

それなら、なぜ書いて投稿したのでしょう……。
ペンライト賞に出した文章の最後に
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩編119:71)」という聖書の言葉を記しました。

わたしは子ども時代で13年。大人になってから12年、計25年間喘息で苦しみました。なぜこんなに苦しまなければならないのか……と問い続け、病を受け入れられずに精神的にも苦しみました。その後、乳がんになり、死の淵に立たされました。

絶望の淵に立って初めて見えてくるものがあって、気づいたら病気になったことを感謝するようになっていました。苦しみに会ったことが幸いだと心から思えるようになっていました。長い時間かかってようやく達した心境です。

このことを書くように誰かに促された気がして、書きはじめました。でも、辛いことを書くという作業は苦しく、何度も途中で書くのをストップしました。するとまた、書くようにとの促しがますます強く感じられます。

気のせいと思って無視することもできたかもしれません。でも、無視したら体中の骨が痛むような気がします。もしかして、この促しは神さまからだろうか……。そうだとしたら無視してはいけない……。
そう思って書き上げたのが昨年の暮れでした。でも、ためらいがあって、すぐには投稿しませんでした。

年が明けて教会へ新年礼拝に行くと、今年の年間テーマの聖句が掲げられていました。
「神の力は私の弱さの中に完全に現れる。私が弱い時こそ私は強いのです。(Ⅱコリント12:9-10より)」

この聖句を読んだとき、弱さをさらけ出したあの文章を送りなさいと神様から示された気がしました。わたしがためらっていたのは、精神的にも肉体的にも弱いことを大勢の人に知られるのが嫌だというのが主な理由だったのです。でも、神さまの前では、むしろ弱い方がいいのです。弱い人により大きく神様の力が働くのです。
そう思って締め切り間際に投函しました。

入選したと聞いたとき、「あの促しはやはり神様からだったのだ」と確信しました。
病で悩んでいる誰かのために神様がわたしの文章を用いようとして下さっているのかもしれません。会ったこともない誰かのために……。

「百万人の福音」4月号は今月半ばにいのちのことば社から発売されます。



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心の病の癒しについて

2012-01-20 15:18:44 | その他
今年は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)60周年を迎えます。秋に行われる記念会の準備委員として奉仕させていただいています。

思えば初めてJCPの集いに出かけたのは50周年記念会のときでした。あれからちょうど10年。そのとき、テキパキ動いている委員の人たちが輝いて見えたのを覚えています。いつかわたしもここで奉仕できたらいいのに……と、思いました。

何年かたち、JCPの実行委員のひとりに加えていただきました。奉仕できることを感謝しています。
今、60周年でJCPから出版する本の編集作業をしています。

今週はそれに加えてCSメッセージ準備、分級準備、教会の小グループ読書会の発表準備、OBIのレポート作成。ネット読書会の課題本(ドストエフスキー『白痴』)を読むこと。やることが山積みです。


先日の水曜礼拝では、境界例(境界性人格障害)が癒された方のあかしを聞きました。
子どものころ受けた心の傷に蓋をして、自分でも気づかずにいたそうですが、あるとき一気に噴き出してきたそうです。

それまでは、自分の弱さを人に見せないようにしてきたけれど、鬱状態になってダウンしてしまったとき、自分の弱さと向き合うことになったと言われました。
12ステップで心の内を話し、人に聞いてもらうことで心が解放され、キリストからの応答を受けて癒されたそうです。

「魂の深いところにある本当の自分の姿を見つめたとき、顔をそむけたくなるけれど、そこにおられるイエス様が傷に触れて下さる」とOBIで教えていただきましたが、そのことなんだなあ……と思いました。


心病む者とそうでない者の区別はどこにあるのでしょう……。健全な魂と言われたとしても、完全な人間はいないので、100%健康な心を持っている人はいないのではないでしょうか。
わたしも境界例かもしれません。確かに心が病んでいる部分がありました。いや、今でもあることに気づいています。

心に傷があってもイエス様を信じたときに自動的に癒されると、かつては思っていました。でも、そうではありません。イエス様を信じていても、心病む人は多いのです。

ただ、イエス様を信じ傷をみつめたとき、癒しが始まるのだと思います。でも、傷に蓋をしてしまっている場合、そしてそのことに自分で気づかないときは難しいですね。
深い心の傷は、簡単には治りません。時間がかかります。でも、必ず治ります。

15年前の自分の心を思い出してみると、確かに病んでいました。他人から欠点や過ちを指摘されると、全人格を否定されたように思って異常なほど傷ついていました。それは、劣等感から解放されていなくて、自分が人間的に欠けた者だと思っていたからです。

また、母親から嫌われることへの恐怖を幼いころから抱いていて、それがずうっと続いていました。結婚して何年たっていても母親に叱られる夢をよく見ていました。

10年ぐらい前までは、体が弱いことが受け入れられなくて、悲しんでいました。
感情が不安定で、ときどきわけもなく虚しくなったりしました。

でも、今は、劣等感からも、母親の恐怖からも解放され、病も弱さも受け入れられて平安が与えられています。

カウンセリングを受けたわけでもないのに、どのようにしてそうなったのでしょう……。いつ、どこで、どのようにして、なぜ癒されたのか……思い巡らしていますが、はっきりわかりません。誰に癒されたかだけはわかっています。それは、イエス・キリストです。


思うことがあって、フェイスブック退会しました。(ちゃんと退会できているかわからないのですが……)
しなければならないことが多くて、フェイスブックを見る時間がないというのが主な理由です。友人になって下さった方、ありがとうございました。



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お知らせ

2011-12-20 19:53:39 | その他

わたしのホームページ「生かされて・・・土筆文香」を久々に更新しました。

先月結婚30周年記念として主人と九州(熊本・鹿児島)へ旅行に行った記録を書きました。
ブログでも紹介させていただきましたが、ブログよりたくさんの写真を使っているので詳しい内容になっています。ぜひごらんください。

この画像をアップさせるのに四苦八苦しました。(寒い部屋で暖房をつけるのも忘れ没頭していたので風邪を悪化させてしまいました)

昨日になってHPのために使用できる容量(100M)を超えていたことがわかり、過去の記事でいらないものを削除しました。でも、それだけでは一部しかアップできず、試行錯誤を繰り返しました。
今日、娘にみてもらってようやく原因がわかりました。拡張子jpgの大文字、小文字の違いでした。

ついでながら、10日に更新した日本クリスチャン・ペンクラブのHPに三浦喜代子さんのクリスマス童話「ちこくチルル」を掲載しています。

パネルシアターにして、先日子ども家庭集会でお話ししました。パネルシアターの絵もぜひご覧ください。





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阪田寛夫さんのこと

2011-05-18 16:58:09 | その他
昨日の朝日新聞に童謡「サッちゃん」の作詞者阪田寛夫さんの全詩集刊行の記事が載っていました。
詩集には阪田さんの書かれた1087篇の詩が掲載されているそうです。その中の一編が紹介されていました。



木の葉聖書

神さん
なんでおれひとり
いじめられてばっかり
おらんならんのか
と、悲しむ者は
しあわせや
木の葉が一枚
おまえの肩にとまっても
泣くほどうれしく
なるやろが
ほんまにわしは
きみらに告げる
わし一枚が
風に吹かれて落ちるのも
じぶんかってに
ひらひらするのやないわいな
とこ
とんやれな


この詩を読んで聖書マタイ5章3-4を思い出しました。
イエス・キリストの言葉で、山上の垂訓といわれている箇所です。


心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。
その人たちは慰められるから。


心が貧しいというのは、自分の中に自慢できるものが何もないと思っている人のことです。
悲しんでいる人というのは、自分の罪に気づいて悲しんでいる人のことです。
どうしてそのような人たちが幸いなのでしょうか……。

『木の葉が一枚、おまえの肩にとまっても泣くほどうれしくなるやろが』とあるように、心の貧しい人、悲しんでいる人は、ほんのちょっといいことがあったり、誰かの温かさに触れたりしたとき、とても嬉しく感じるのです。

わたしはいつも悲んでいる子どもだったので、よくわかります。学校でいじめられ、さんざんな目にあって涙をこらえながらの帰り道、友人がポンと肩に手を触れてくれただけで嬉しくて涙が出てしまうのでした。

さらに阪田さんの詩には、木の葉がいちまいひらひらするのも、自分勝手にしているのではないと書かれています。木の葉いちまいの動きにも神様の意志が働いていて、悲しんでいる子の肩の上に落としてくれたという意味ではないかと思いました。

阪田寛夫さんはどういう方だったのでしょう。それは最近出版された「歌人たちの遺産」(文芸社)池田勇人著に書かれていました。

14歳のときキリスト教の洗礼を受けたそうです。
父親は新聞インク製造業をしつつ教会幼稚園の園長をされていました。家は熱心なクリスチャンホームで音楽にあふれていました。母はオルガニスト・作曲家である大中寅二の姉だそうです。

「サッちゃん」のほか「マーチング・マーチ」「歌えバンバン」「やきいもグーチ―パー」「ねこふんじゃった」など多数作詞されています
童謡だけでなく、小説「土の器」では芥川賞受賞されています。

2005年に召されていますが、2002年のクリスチャン・ペンクラブの50周年記念会に来て下さるかもしれなかったと伺って、お会いしたかったなあ……と残念に思いました。



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受けるより与える方が…

2011-04-28 12:43:54 | その他
昨日の水曜礼拝はT先生の4回目のメッセージでした。
一部を紹介させていただきます。


「受けるより与える方が幸いです」とイエス様が言われました。
でも、この世ではその逆の流れがあります。
震災の後の買占めに走る人々の姿、風評被害などがその例です。

マタイ14章15~21節には、5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人を満腹させたというイエス様の奇跡が書かれています。
イエス様は「受けるより与える方が幸いです」を弟子たちに実践させようとしました。
与えるものを十分持っているのなら問題ありませんが、そこには5つのパンと2匹の魚しかありませんでした。

そこには男だけで5千人いました。ということは女性と子ども合わせて1万5千人ぐらいの人がいたことになります。弟子たちはとても足りないと思いました。弟子たちの理性、常識は、イエス様のなさろうとしていることを阻むものとなりました。
弟子たちは、イエス様が人の心を満たすことはできても人の腹を満たすことはできないと思っていました。

ところが、イエス様は5つのパンと2匹の魚を配るように言われます。弟子たちは、主が命じられたので従うことにしました。
すると、パンと魚は配っても、配ってもなくなりません。それどころかパンきれの余りが12のかごにいっぱいになりました。12は完全数です。みんなが充分満たされたということです。

弟子たちは、信じることができないまま主に従うことを選んだのです。
これが弟子たちの信仰のターニングポイントです。

ペテロがイエス様に言われて網を降ろす場面もそうですが、信じることができなくても主が言われたからやってみる。このことが大切です。そうすると奇跡が起こります。

受けることにおいては、わたしたちは神さまから無尽蔵の恵みが与えられています。
与えることは、分かち合うことです。

試行錯誤の中から失敗を恐れずに分かち合うことです。
分かち合うと3つのことが起こります。

①必ずその行いが主の宣教のみ御業の中で用いられて行きます。
②必ずその人が恵まれ、その人の信仰がワンステップ上がります。
③個人的信仰から互いを必要とする信仰へ移行していきます。

学ぶ、信じる、分かち合う、の3つのことにより信仰が新しい段階に入ります。


「受けるより与える方が幸いです」を実行するには、わずかなものしか持っていないことを気にしていてはいけないのだと思いました。

わたしは、礼拝や聖書の学びの中で受けた恵みをブログに書くことによって、読んで下さるみなさまと分かち合えたらいいなあと思っています。

これでいいのかなあ……伝わったかなあ……と悩みながら、試行錯誤しながら……。



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おじいさんの知恵のことば(その2)

2011-03-19 09:33:38 | その他

まだガスが復旧しませんが、電気、水道はだいじょうぶなので電子レンジとホットプレートを駆使して工夫して調理をしています。
電気ポットは電気製品の中で最も活躍しています。
今日はお風呂を使わせてもらいに息子の家に出かけます。
こちらで招くところだったのですが、逆に招かれることになって嬉しいです。

「おじいさんの知恵のことば」昨日の続きを紹介します。


17、仕返しをしようとしている限り相手に自分を痛め続けさせることになる。
18、人の傷を癒すのは「時」ではなく「愛」。
19、人間として成長するのに必要なことは有能な友を持つこと。
20、私が出会うすべての人は、私の笑顔の挨拶を受けるにふさわしい人々である。
21、赤児と一緒に寝て、その息づかいを自分の顔に感じるほど気持ちのよいことはない。
22、恋愛するまで完全な人がいるだなんて知らなかった。
23、人生は難しい。でも、自分はもっと難しい。
24、機会は失われることはない。自分が失った機会を誰かが得ている。
25、穏やかで優しい言葉を語りなさい。明日はそのことばを食べることになる。(明日はそのことばが自分に返ってくる)
26、笑顔は自分の顔を改良する最も安価な方法。
27、自分の感情は選べない。しかしそれをどうするかは選べる。
28、幼子の小さな手に指を握られると私の全生涯が握られたように感じてしまう。
29、忠告を必要とする状況は二つしかない。一つは求められたとき。もう一つは人のいのちがかかっている時。
30、持ち時間が少ない方がよりたくさんのことを成し遂げることができる。人は与えられた時間だけ使う。
31、父親が亡くなる前にもう一度「愛しているよ」と言ってやればよかったと思う。
32、嫌な思いを心の中に秘めていると、幸いな思いは他の場所へ移行してしまう。

アンデーィ・ルーニ―作「悔いることのない毎日への心の光『おじいさんの知恵のことば』」より

18、はしみじみとそう思います。「時」では癒されない傷が何と多い事でしょう……。
人の愛も必要ですが、神様の愛が傷を癒します。

22、はおもしろいですね。恋は盲目といいますが……。恋愛すると、相手が完全な人間に思えてしまいますね。

24、は機会を失ったと嘆くことはないのだと教えられました。

21,28、は作者には孫かひ孫がいて可愛がっていることがうかがえ、ほほえみが浮かんできます。

30、を読むと、たとい自分の人生が短かったとしても、それは不公平ではないと思います。


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おじいさんの知恵のことば(その1)

2011-03-18 17:24:50 | その他
今日は家庭集会の予定でしたが、中止になりました。来週のクリスチャン・ペンクラブの定例会も中止との連絡が入り、がっかりしています。しかし、今の状況では電車が正常に運行していないので都内へ行くことは難しい状況です。

テレビをつければ、被災地で困り果てている人たちの姿が映し出されます。何かできないのだろうか・・・と思いつつ、何もできないと自分の無力さに落ち込んでいましたが、アンデーィ・ルーニ―の言葉を読んで、まず祈ることの大切さを教えられました。

「おじいさんの知恵のことば」として32の言葉が書かれているものを読んだのですが、今の状況にあったことばを見出すことができたので前半を紹介します。


1・愛していることはすぐ分かる。
2・「今日を本当によい日にしてくれてありがとう。」と言われると私の「今日」も最高の一日になる。
3・幼子が私の腕の中で眠る時は世界中で最高に平安な感じになる。
4・正しくあるよりは親切であることの方が大切。
5・子供からのプレゼントは決して拒否してはいけない。
6・人を助けることができないときはいつでも祈ることができる。
7・誰でも本当に困っているときは一緒に気を紛らわしてくれる友を必要としている。
8・人が必要としているのは握ってくれる手であり、理解してくれる心である。
9・子供のころ、夏の夕べよく父親と一緒に近所に散歩したことは大人になってからの自分に驚くような支えとなっている。
10・人生はまるでトイレットペーパーのよう、終わりに近づくに従って速く回る。
11・神様は私たちが願うことをすべて聞いてくれないことを喜ばなければいけない。
12・品性はお金で買うことはできない。
13・毎日起こる小さなことごとが人生を張りのあるものにしてくれる。
14・誰でも固くとざした殻の下に、感謝されたり愛されたりすることを願うもう一人の自分を持っている。
15・主も一日ですべてをなさらなかった。私ができるだなんて、何で考えられるだろう。
16・現実を無視することによって現実を変えることはできない。

アンデーィ・ルーニ―作「悔いることのない毎日への心の光『おじいさんの知恵のことば』」より

とくに6.7.8が心にとまりました。
11は不思議にさえ思うでしょうが、その通りだと思います。
15には慰められました。聖書の創世記には神さまは6日かかってこの世界を創造され、7日目に休まれたことが書かれています。
この私ができることは、大河の一滴にも満たない小さなことですが、それでよいのだと思ったのです。



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