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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

仙台から秋田へ(その1)

2015-12-12 10:27:31 | その他
母の遺骨を携えてお墓のある秋田まで行ってきました。9年ぶりの秋田です。

葬儀は土浦めぐみ教会で行い、分骨して教会納骨堂と秋田のお墓に入れてほしいというのが母の遺言でした。父の遺骨も、土浦と秋田にあります。

秋田に行く前に仙台に立ち寄りました。秋田に行くことがあったら仙台に寄ろうと決めていたのです。
以前、子どもたちがまだ小さいころ、埼玉県の久喜福音自由教会に通っていましたが、当時久喜でお世話になったK牧師先生ご夫妻が仙台にいらっしゃいます。

久喜を離れ、土浦に引っ越したときは息子が6歳、娘が3歳でした。ふたりとも久喜教会の幼児クラスに通っていました。
娘はそのときのことをよく覚えていて、「なつかしいな。わたしもK先生に会いに行く」と言ったので、娘と共に納骨の前日(5日)に仙台へ行くことにしました。
妹と姪も仙台観光するから行くと言って、4人で新幹線に乗りました。

わたしは遺骨を持って土浦から出かけました。娘と交代で持てばいいと思っていたのですが、娘は一緒に住んでいなかったのでした……。上野まではわたしひとりで運ぶのだと思うと緊張しました。

遺骨はクーラーボックス(ちょうどぴったりの大きさのものが家にありました)に入れて肩から下げて行ったので、だれも遺骨とは気づかなかったと思います。かなり重かったので、あとで体のあちこちが痛みましたが……。

仙台に着くと、K先生ご夫妻がホテルのロビーで待っていてくださいました。お目にかかるのは10数年ぶりですが、ちっともお変わりなく、たくさんお話できて至福の時を過ごしました。

娘の結婚の報告と、母葬儀のことなど話せてよかったです。昼食をごちそうになり、車で教会やご自宅を案内していただき、夜は青葉城へ。伊達政宗公騎馬像がライトアップされて幻想的でした。        
                                   つづく



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天使の微笑み

2015-11-13 20:26:11 | その他
この間の日曜礼拝では幼児教育の祖といわれるフレーベルの詩が紹介されました。

神さま
あなたは妻である私をとても幸福にしてくださり
この世の生を天上の喜びで飾ってくださいました
今あなたは私を人間の最高の位にお選びくださり
あなたのおかげで私は天使を産みました

父なる神さま 生命の永遠の泉よ その泉を
この子のためにもその流れを 勢いよく 清くすきとおるように
お放ちください

私たちはみんなあなたの子どもです。あなたの家族です
それゆえ 私たちがいつもひとつの愛で あなたに結ばれていますように



天使を産みましたと書かれているところ、思わず笑みがこぼれます。赤ちゃんは本当に天使のようですね。
生後間もない赤ちゃんが、あやしたわけでもないのに、ニコッと微笑む『天使の微笑み』は、単に赤ちゃんが神経反射で顔の筋肉を引きつらせているだけで、特別な感情はないそうですが、生きている喜びを表しているような気がしてなりません。
赤ちゃんは、善意を信じ切って抱かれます。疑いや悪意を知りません。そんな赤ちゃんが虐待を受けたりすることがないように祈ります。

今日は児童文学者協会茨城支部の集まりでした。数編の作品がよせられ、合評に花が咲きました。わたしはまだ落ち着かず、作品は書けませんでした。来年になったら書けるでしょうか……。
「どんなに疲れても書かずにはいられない」と言った友の言葉が心に残りました。




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死にたいと思っているあなたへ

2015-08-31 12:05:03 | その他
明日は9月1日です。1年で18歳までの子どもの自殺がいちばん多い日なのだそうです。42年間で131人もの子どもが9月1日に自殺していると知り、心痛めています。

学校から解放された夏休みが終わるとき、学校に行きたくないという気持ちを持つ子どもは多いことでしょう。(わたしもそうでした)とくに学校でいやなことがあったり、いじめられていたりすると、夏休みにのびのび過ごせた分、学校に行きたくないという思いが強くなります。

わたしは小学5年生のとき、いやなあだ名をつけられてつらい思いをしていました。
体育の時間、走り幅跳びをしていました。運動が苦手なわたしは、少しでも遠くへ飛べるように必死に走りました。
走っているとき笑い声がして「ガニウマ」という声が聞こえました。

その後、わたしは「ガニウマ」と呼ばれるようになりました。
それがいやで、学級会のとき「ガニウマって言わないでください」と言うと、「へーっ、お前ガニウマって言われてるのか」と男子たちが笑い出し、もっとひんぱんに言われるようになりました。
そのときわたしは、ガニウマと言った人たちを決して赦さないと思いました。
 
家に帰って泣きながら母親に話すと、「庭に出てちょっと走ってみてごらん」と言われました。
体育の時間に走ったように走ると、母は笑い出しました。

「これじゃあガニウマって言われてもしかたないわね」と言われました。ガニマタで馬みたいに走っていたかららしいです。
歩いたり走ったりするとき、ガニマタにならないように気をつけなさいと言われ、わたしはそれから実行したのです。でも、いちどついたあだ名は消えず、小学校を卒業するころまで言われ続けていました。

ところがこれには後日談があります。中学一年で転校したのですが、転校先でのはじめての体育の授業で校庭をぐるりと一周するように言われました。ひとまわりして、「〇〇さんは、いちばん歩き方がきれいです。」と先生がわたしを誉め、模範となるようにひとりで歩くように言われました。わたしは「なぜ?」と耳を疑いました。

わたしは生まれて初めて、歩き方でほめられたのです。ガニウマと呼ばれなければ、ほめられることもなかったでしょう。 
小学生の時は、ガニウマと呼ばれてからかわれるたびに、心傷つき、からかった男子を恨んでいました。
でも、今になるとガニウマとは、よくつけたものだ。その名前も忘れてしまった男子はすばらしい才能があると、ほめたくなります。からかわれたことをすっかり赦せています。

中学2年生のときは、友だちがひとりもいなくて、トイレにこもって昼休みの時間を過ごすほど、つらい日々を過ごしました。
学校へいきたくなくて、病気のふりをし、ずる休みもしました。そのころ(40年以上前)はずる休みはすごく悪いこと。学校には行かなくてはならないものという考えが強かったので、無理して学校へ通っていましたが、きっかけがあれば死んでしまいたいといつも思っていました。
あのとき、無理して学校へ行く必要はなかったのだなと思います。

このブログを読んでいる人たちの中で死にたいと思っている人がいたら、どんなにつらいことがあっても、それがずっと続くわけではないこと、無理して学校へいく必要のないことを覚えてください。

あなたのからだは、あなたのことを愛し、大切に思ってくださっている方によって造られたものであることを知ってください。

自分なんか、いてもいなくてもいいんだ……と自分が価値のない者のように思わないでください。あなたは、かけがえのない人だからです。
あなたには、あなたを必要としている人がいるのです。何もできなくても、あなたがいるだけでうれしいと言ってくれる方がいるのです。
だから、死なないでください。

以前書いた「死なないでください」の詩があります。ここをクリックしてお読みください。



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ジョン・ニュートンの母を想う

2015-02-26 21:11:56 | その他
昨日から実家に泊まっています。実家ではインターネットがつながらないのですが、妹にルーターを借りてつなげています。
昨日ジャガイモの煮つけを作ると、母がおいしいと言ってくれました。
母は料理上手で、いつも味付けは絶品です。一方わたしは、味音痴でいつも何かが足りないのです。同じ料理を作っても作るたびに味が違っています。舌がおかしいのでしょうか……。特に煮物の味付けは苦手で、母に褒められたことがなかったのです。今回は偶然うまくいって、初めて褒められました。母は食欲もあって元気です。明日は病院へ付き添って行きます。


アメイジング・グレイスの作者、ジョン・ニュートンについて調べていました。
母親は敬虔なクリスチャンだったそうですが、肺病を病み、ジョンが7歳のとき天に召されてしまいます。ジョンの母親のことが心に留まりました。
ジョンの母は、ジョンに聖書を読み、神様について語り聞かせ、祈ったことでしょう。

病に侵され、自分の死が近づいていることを知ったとき、どんな気持ちだったかと想像すると胸が締め付けられる思いです。
ジョンはまだ7歳。まだまだ母親が必要な年齢です。もう少しそばにいてあげたい。抱きしめていたい。守ってあげたいと思い、せめてジョンが成人するまで生きられるように祈ったと思います。でも、ジョンのことを心配しつつ30歳の若さで召されてしまいました。
ジョンは、大人になって商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなりましたが、さまざまな船を渡り歩くうちに、黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に手を染めるようになったそうです。

ジョンは、黒人に対してひどい扱いをし、荒んだ生活をしていました。
ある日、ジョンの乗った船が大きな嵐に遭い、死に直面しました。そのとき初めて神に祈ったそうです。奇跡的に助かったとき、神の存在を確信し、今までの自分の行動を心から悔い改めました。
命の危険を感じたとき、誰でも祈る気持ちになります。天地を造られた神さまのことを知らない人でも大いなるものに向かって祈るのではないでしょうか。

しかし、ジョンは子どものころ、母親から創造者である神、イエス・キリストのことを聞いていました。ジョンが祈ったのはイエス・キリストに向かってであることは間違いないでしょう。

祈りが聞き届けられたとき、ひどいことをしていた自分でさえも救ってくださった驚くばかりの神様の恵みに心震える思いだったことでしょう。ジョンはそのとき生まれ変わったのです。その感動を書き表したのが『アメイジング・グレイス』です。

ジョンの母親は、幼いジョンを遺して死を迎えたとき、神様がジョンのことを責任を持って守ってくださると信じて、平安のうちに召されたのではないかなと想像しました。


アメイジング・グレイスの英語の歌詞と日本語訳を紹介します。

Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.

アメージング・グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる

'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved,
How precious did that grace appear,
The hour I first believed.

神の恵みこそが 私の恐れる心を諭し
その恐れから心を解き放ち給う
信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか

Through many dangers, toils and snares
I have already come.
'Tis grace hath brought me safe thus far,
And grace will lead me home.
これまで数多くの危機や苦しみ、誘惑があったが
私を救い導きたもうたのは
他でもない神の恵みであった

The Lord has promised good to me,
His Word my hope secures;
He will my shield and portion be
As long as life endures.
主は私に約束された
主の御言葉は私の望みとなり
主は私の盾となり 私の一部となった
命の続く限り
Yes,when this heart and flesh shall fail,
And mortal life shall cease,
I shall possess within the vail,
A life of joy and peace.
そうだ この心と体が朽ち果て
そして限りある命が止むとき
私はベールに包まれ
喜びと安らぎの時を手に入れるのだ


The earth shall soon dissolve like snow,
The sun forbear to shine;
But God, Who called me here below,
Will be forever mine.
やがて大地が雪のように解け
太陽が輝くのをやめても
私を召された主は
永遠に私のものだ
When we've been there ten thousand years,
Bright shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.
何万年経とうとも
太陽のように光り輝き
最初に歌い始めたとき以上に
神の恵みを歌い讃え続けることだろう



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アークがラウンドとなるとき

2015-01-29 12:44:42 | その他
ブログにはふつう最新の話題を書くのでしょうが、わたしは数日前のことを書くことが多いです。
出来事や、聞いた話、読んだ本や新聞記事などのことで心に留まるものがあると、心の中であたためてから書くので遅くなります。あたためすぎて書く機会を失ってしまうものも多いです。
今日は、1/24の朝日新聞Beの記事からの話題です。
日野原重明先生の「103歳 私の証 あるがまま行く」は、毎回楽しみに読ませていただいています。記事の一部を紹介させていただきます。

「地上では欠けた弧 天上では全き円」。
詩人ロバート・ブラウニング(1812~89)の詩の一節です。一日、また一日と生きる間、人はみな「弧(アーク)」、つまり不完全な存在です。不完全な円は次の世代、また次の世代によって、ようやく「円(ラウンド)」となり、完成するのでしょう。
この一節を思う時、私はなぜか「青空に欠けた弧がいくつも浮いていて、見上げる私の心の中に集まってきたそれらが一つになり、完全な円となる」というイメージが浮かびます。103歳の今も、父に教わったこの言葉を胸に、謙虚に生きていこうと思っています。


103歳になられる日野原先生は、ご自身も不完全な存在であると言っておられます。その謙虚さに惹かれます。

虹は本当は完全なる円ですが、地上ではふつう上半分しか見えません。
虹のように地上で生きている人間は、どんな人でも完全ではありえないのだと思います。自分自身の努力で完全な円になれなくても、神様が青空に浮かぶ欠けた弧を補ってくれていつか完全な円になるのでしょう。

ロバート・ブラウニングの詩、英文では

On the earth the broken arcs; in the heaven, a perfect round.

となっています。天国に行ったときは完全なる円になるのですね。
失敗ばかりしてちょっと落ち込んでいたわたしでしたが、明るい気持ちになりました。

記事の横には不完全なアークを掲げた日野原先生の周りにかわいい天使たちが小さな三日月のようなアークを持って集まっているイラストがあります。



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カイザルの前に立つとき

2014-06-17 15:42:21 | その他

一昨日の礼拝メッセージは、使徒の働き27章から語られました。この章にはパウロがローマにおくられるときの船旅のようすが詳しく書かれています。

2000年前の船がどのようなものだったかわかりませんが、航海には危険が伴うものです。
地中海は冬季の嵐のため、11月から3月までは航海が閉鎖されていました。この時は、10月であっても航海の危険な時期でした。

でも、船長たちは冬を過ごすのに適当な港へ行くと言って、パウロが危険だと言うのを無視して出帆しました。パウロにはたくさんの航海の経験があり、難船したこともあったので、危険を察知していたのですが、聞き入れてもらえませんでした。

まもなく船は暴風に巻き込まれ、漂流することになりました。
聖書には「吹き流されるまま」(15節)、「積荷を捨て始め」(18節)、「太陽も星も見えない日が幾日も続き」(20節)、「激しい暴風がふきまくる」(20節)、「助かる最後の望みも今や断たれようとしていた」(20節)、「長いこと食事をとらなかった」(21節)と書かれています。

船に乗っているほとんどの人たちは、助かる望みを絶たれ、食事をする元気さえなくなっていたようです。

そんな中、パウロは力強く語りました。「元気を出しなさい」(22節)「いのちを失う者はひとりもありません」(22節)「私たちは必ずどこかの島に打ち上げられます」(26節)「食事をとることを勧めます」(34節)

なぜパウロはそのように言えたのでしょうか。それは神様の声を聞いたからでした。
神様はパウロが必ず助かって、カイザルの前に立つときがくると約束してくださいました。

神様の約束は反故にされることがありません。神の言葉を信じたパウロは、絶望している人たちを励ますことができたのです。

実際、船は900キロも流されましたが、マルタ島に漂着しました。いのちを失った人はだれもいませんでした。

「絶望したとき、神の言葉を待ち望むことが大切です」と牧師先生が言われました。

わたしは、メッセージを聞いて、それが自分に語られているように思い、胸騒ぎがしました。
「約束が遂行されるときがくる。そのとき、あなたはカイザルの前に立つ。そのときは恐れずに信仰の証しをしなさい」と、神様が語りかけてくださったのです。

約束とは何か、カイザルとは誰なのか、はっきりわかりませんが、心に留めたいと思います。




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空っぽ

2014-03-20 20:53:11 | その他
友人から「小説を書くときに大切にしている事はなんですか? 教えて下さい」と問いかけがありました。

「小説でも童話でもエッセイでも同じですが、作品が神様の栄光を顕すことができるようにとひたすら祈って書いています。」と答えました。
大切にしていることはこのように祈ることです。自分が認められたいために書くのではないことをはっきりさせなければなりません。

書く前は空っぽなんです。乏しい想像力、拙い文章表現力。持っているものは何もないのです。
空っぽの手を開いて書く力を与えてくださいと祈るのです。

そうしたら、神様は満たしてくださいます。
空っぽのほうが神様からたくさんいただけることを、マザーテレサの本から教えられました。

                                             
マザーテレサの言葉

与える物が何もないときは
神に、その「無そのもの」を差し出しましょう。
できるかぎり自分が空っぽでいられるように。
そうすれば、神がわたしたちを満たしてくださいます。
たとえ神さまでも、
もうすでにいっぱいになっているものを、
満たすことはできません。
神は決してご自分を、
わたしたちに押し付けたりなさいません。
あなたがたは、神が与えてくださった愛で、
この世界を満たしているのです。


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風のない日の花火大会

2013-10-07 20:38:23 | その他
5日は土浦での全国花火競技大会でした。天気予報では土曜日は雨のとのことだったので、延期になるかもしれないと思っていました。でも、行われることが前日に決まり、料理を準備する者としては、まずほっとしました。

花火は歩いて20分ほどの土浦めぐみ教会近くから打ち上げられます。
延期されて日曜になると、教会への出入りが13時までになってしまうし、夜の礼拝がなくなるので、できれば土曜日にやってほしいと願っていました。

花火は我が家からよく見えます。土浦の中で最も花火が良く見える場所にあるマンションではないかと思われます。夕方になると大勢の人のざわめきが聞こえてきます。

マンションの周囲は大変な混雑なので毎年外には出ず、家の中、あるいはバルコニーに出て見物です。

ヒックンとママがやってきて(息子は仕事)、料理も早めに作って期待して待っていました。

雨がやまないまま花火大会が始まりました。

最初のころはきれいに見えたのですが、半分ぐらいしか見えない花火があったりして、きれいとは言えません。(写真は最初のころ写したもの)
雨雲のせいかと思ったら、風がないので前の花火の煙が残っていて、煙の陰に隠れてしまっているとTVで説明していました。
風が吹かないと花火はきれいに見えないことを初めて知りました。

ドーンと花火が上がると「ワー」という歓声が上がるのに、今回は「あーあ」という声が外から聞こえてきます。この日のために準備をしてこられた花火師さんが気の毒になってきました。

ところが、ヒックンは少しでも見えると「ワーイ」といって、手をたたいています。花火に感動しているのです。その姿を見てはっとさせられました。

煙に隠れていても花火はたしかに上がっていて、煙の向こうでは美しい花を咲かせているのです。
目に見えるものだけがたしかな物ではないことを教えてくれているようでした。

3歳ぐらいまではドーンという音が怖くて泣きべそをかいていたヒックン。去年までは途中であきておもちゃで遊び始めていたのに。今年は、がっかりしている大人を励ますように花火を喜んでいました。



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前向きでなくても、がんばらなくてもいい

2013-09-05 16:09:13 | その他
昨日の夕方ふとテレビをつけるとNHKで「いのちの話をしよう~助産師・小林寿子さんのメッセージ~」という番組が放送されていました。(関西放送で放送された番組の再放送です)用事があって最後まで見られず、一部を見ただけでしたが、色々なことを考えさせられました。

9人の子どもの母親である助産師、小林寿子さんが、子育て中の母親の質問に答えておられました。
「子どもが幼い時に父親が死んでしまった。子どもは赤ちゃんのころにもどりたい。そうすればお父さんに会えるからと言っているけど、どう対応したらよいか」という質問でした。

小林さんは「夫を亡くした悲しみは体験していないので十分理解できないかもしれないけれど……」と前置きされて、子どもの発想を否定しないように。赤ちゃんにもどればお父さんに会えるという発想はすばらしいと受け止めるように。
何でも前向きでなくてはならない。がんばらなくてはならないと思わないようにというようなことを言っておられました。
なんと愛のあることば、的確なアドヴァイスなのだろうと心打たれました。

スポーツ選手へのインタビューを聞いていると、「これからも前向きにがんばります」と言っている選手が多いです。「前向き」という言葉。「がんばる」と言う言葉は日本人が好きな言葉ですね。自分の力でがんばって努力して何かを勝ち取ることが人生の目的のように思っている人も多いです。

でも、辛いことがあって前向きになれないときがあり、がんばりたくてもがんばれないことがあります。むしろずっとがんばっているのにさらにがんばれと言われると身が持たなくなりますね。この母親は『がんばらなくてはならないと思わないように』と言ってもらえて、どんなに気が楽になったことでしょう。


その後、番組では通信制高校の生徒に向けた「命の授業」の様子が紹介されていました。
授業の前にあらかじめ高校生にアンケートを配っていました。「自分の好きなところはどこですか」「嫌いなところは」という質問には「好きなところはない」「自分の全部が嫌い」などと書いている子どもがいました。

「わたしのことを父親と母親が勝手に生んだ」
という女子高生は、その表情に『生まれたいと望んだわけじゃないのに……』という気持ちが現れていました。

「いのちってなんだろう?」
「いのちってなぜ大切なんだろう?」
の答えはまだ出ていませんと、小林さんは言われます。

それは、いのちが神様によって造られたことを語らない限り、答えが出ないのです。
生命がつくられるとき、精子と卵子が偶然のように結合してできたように思えるかもしれませんが、実は偶然ではなく必然なのです。そこに見えざる神の手があり、いのちは創造者である神の手によって造られたのです。

いのちがなぜ大切かは、造られた方が大切にしておられるからです。
ほかの人のいのちがなぜ大切なのかは、神様はその人のいのちも大切にしておられるからです。




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失敗した梅ケーキ

2013-07-10 21:07:13 | その他
今日は児童文学者協会茨城支部の例会がありました。今回は絵本用の文章を提出していたので、自信がまったくありませんでした。

わたしは、ストーリーを考えるとき、短編のつもりで書いても長編になってしまうのです。長編でないと書き表せないことを絵本用に書いたので、やはり無理がありました。書き直すつもりではいますが、しばらく時間がかかりそうです。
他の方の作品を読ませてもらって、大変勉強になりました。


毎年6月になると梅酒の実を使ってケーキを焼きます。ホットケーキミックスを使って簡単に、しかも低カロリーでできる作り方を教えてもらったので今年は3回も焼きました。昨日も今日の例会に持っていくために焼きましたが……なんと、失敗してしまいました。

3回目なのでレシピをよく見ないで焼きました。焼き上がって、ふくらんでないので「あれっ」と思ったら、牛乳を入れるのを忘れていたことに気づきました。

焼き上がったケーキは、味はいいのですが、やわらかすぎて切るとバラバラにくずれてしまいました。
たくさん焼いたので捨てるにはしのびなくて、くずれたパウンドケーキ利用法をインターネットで検索しました。そうしたら、リメイク法が書いてありました。

必要な材料のりんごとレモン、レーズン、パイシート(冷凍)が家にあったことはラッキーでした。
少し面倒でしたが、作ってみてびっくり。更においしくなったのです。今日持っていったら、大好評でした。

失敗してもあきらめず、トライしてよかったです。自分でもびっくりするようなケーキができて、それは神様からのプレゼントのように思いました。

それが上の写真です。

基本の梅ンジャムケーキは以前ブログに載せていますので、ここをクリックしてみてください。

ホットケーキミックスを使った低カロリー梅ジャムケーキ(梅でなくてもイチゴやブルーベリージャム、マーマレードでもOK)のレシピを紹介します。
ホットケーキミックス200g
サラダ油      80ml
バター(溶かして) 20ml
牛乳        100ml
砂糖        30g
梅ジャム      半カップ

材料をすべてまぜて180℃のオーブンで40分焼く。

リメイクケーキの作り方
①リンゴの皮をむいていちょう切りにし、レーズン(大2)、砂糖(大1)入れて10分ぐらい煮る
②くずれたケーキを型に押し込むように入れ、①を載せ、その上にまたケーキを入れ、パイシートを格子に張り付けて卵の黄身を塗る。
③200℃のオーブンで10分焼く。
*スプーンでいただきます。
*型はマドレーヌ型かスイートポテトの型を用いるとよいです。


今日、日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。わたしの作品(エッセイ)が掲載されています。ぜひごらんください。



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食べるにも飲むにも

2013-07-01 16:46:15 | その他

家から歩いて5分のところにサギのコロニーがあります。雛がたくさん生まれました。アオサギと雛の写真が撮れました。


夫の健康診断の結果が要経過観察だったので、先日近所の医院で一緒に食事指導を受けてきました。

血圧もコレステロール値も血糖値も正常範囲を少し超えており、薬を飲むほどではないけれど、注意が必要ということでした。

わたしは、自分自身の体が弱いので、食べ物には気を使っていました。揚げ物はめったに作らず、鶏肉は皮をと脂肪を取り除き、油分、塩分控えめにしていました。でも、意外なところでよくない点がみつかりました。

朝、ヨーグルトに果物をたくさん入れて食べ、夫はさらにコップ1杯の牛乳と麦茶を飲んでいました。そうしたら、乳製品のとりすぎなので、牛乳を半分にするように言われました。

TVでは牛乳が血圧を下げると言っていたのですが……。
さらに夕食後、果物を食べていると言ったら、果物の食べすぎですと言われました。

体によいと思われるものでも、とりすぎはだめなようです。一日の分量の目安が書かれた表をもらってきました。

それでも、食べてはいけないものはなかったのでほっとしました。1週間のトータルで考えて、とりすぎたときは、翌日調節すればいいというので神経質になる必要もなさそうです。

夫は今までどこも悪いところがなかったので、食べるものに全く気を使わなかったのですが、気をつけるようになってよかったです。
今までは、パンにジャムをたっぷり塗り、おひたしやかまぼこにたっぷり醤油をかけ、間食に甘いものを食べ、外食するときは脂っこいものを好んで食べていたのです。

これではわたしがいくらヘルシー料理を作っても、塩分、糖分、油分のとりすぎになってしまいます。毎日の食事の大切さを思わされました。

聖書には自分のからだは神から受けた聖霊の宮で、もはや自分自身の物ではないと書かれています。自分の体だからどうでもいいと思ってはいけないのですね。

聖書の言葉
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。(Ⅰコリント6:20)」


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Who am I ?

2013-06-25 17:34:33 | その他
先日、CS教師研修会でアイデンティティーの問題についての話を聞きました。

多くの人はアイデンティティーよりハウツーを重要視します。
どうすれば成績が上がるか。どうすれば効率よく働けるか。どうすればよい人間関係を築けるか、どうすれば健康で長生きできるか……。
ハウツー本が売れていますね。役に立つ部分もあるかもしれません。でも、本を読んだ人がその通り実行したら、悩みは解決するのでしょうか? そもそもその通り実行することが難しいような気がします。

就職試験に落ち続けて人格を否定されたように思い、傷ついて鬱病になってしまった人の話を聞きました。アイデンティティーが確立されていれば、それほど傷つくこともなかったのに……と残念に思いました。

ではアイデンティティーとは何でしょう。
アイデンティティーには、存在(自分はどういう人間か)と行為(自分に何ができるか)
という二つの側面があります。

アイデンティティーを確立するには、まず自分がどれだけ価値のある者かを知ることが大切です。
人は誰でも、神様によって造られ、愛されている存在です。
どれくらい愛されているかというと、神様はあなたのことを救うためにご自分のひとり子のいのちを差し出してくださいました。それほどに愛されている存在、価値ある存在なのです。
このことがしっかりわかっていれば、誰に何を言われようとも動揺することがありません。
たとえ世界中の人に嫌われても、あなたは愛されている存在なのです。なくてはならない存在なのです。

「自分に何ができるか」については、すぐにはわからないでしょう。でも、自分がどういう存在なのかを知っていれば、なすべきことがわかってきます。

レ・ミゼラブルのジャン・バルジャンが「Who am I」と叫んでいます。牢獄では番号で呼ばれ、牢獄を出たら犯罪人としてのレッテルを貼られてバカにされ、それを隠して市長になったら市長さんと尊敬され……。立場や置かれた場所で違った扱いを受けるので、本来の自分は誰なんだろう? と思うのは当然です。         

ジャン・バルジャンの場合は、盗みを働いたのに赦され、愛されたことを思い出すことによって、アイデンティティーが確立されたのです。それで、なすべきことができたのではないでしょうか。



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レ・ミゼラブルを観て

2013-01-28 21:05:34 | その他
遅ればせながら映画「レ・ミゼラブル」を娘と観にいってきました。想像以上にすばらしかったです。

4年前、ネット読書会で原作を読んでいたので、原作に比べると物足りない感じはありましたが、158分の時間内にしっかりテーマを捉えてこれだけの作品にまとめられていることに驚きを覚えました。

ミュージカル映画だと聞いていたので、セリフのあとに曲が挿入されるのかと思っていたら、ほとんどのセリフが歌だったのでびっくりしました。歌に感情がこめられ、あまりにも臨場感があるので映画が終わってから、「歌は吹き替えなのかな?」「それともその場で歌っているの?」「録音してあとで入れたのかな……」と娘と論じ合いました。

それを確かめたくてパンフレットを買うと、その場で俳優さんが歌っていたのでした。そういえば、ジャン・バルジャンが氷点下のフランス南部の山岳地帯で歌う場面では、声が震え、白い息が出ていました。ファンテーヌの歌は涙声でした。

オーデションで俳優を選んだというだけあって、演技も歌もひいでた俳優さんが出演しているのでした。

主人公ジャン・バルジャンを扮するヒュー・ジャックマンは「Who am I?」の曲が一番のお気に入りだそうです。
アイデンティティーの問題を扱っている曲で、この作品のテーマだとパンフレットには書いていました。

たったひとつのパンを盗んだだけで19年間も牢獄に入れられ、仮出所してからは偏見の目で見られ、生きていくことさえ困難な状況でした。
それで本名を偽り、警察に追われながら別人として生きていかなくてはならなかったジャン・バルジャンが、「Who am I?」と訴える場面には胸が痛みました。

また、この作品の背景には、貧しい者はいくら働いても貧しいままであるという社会問題にも迫っています。
しかし、ユーゴ―が本当に書きたかったことは、もっと別のところにあると思います。

刑務所を出たジャン・バルジャンは、仕事にもつけず人としてまともに扱ってもらえないことで心が荒んでいました。ミリエル神父の教会で食事をいただき、宿を貸してもらったのに銀の食器を盗んでしまいます。

神父は、捕えられたジャン・バルジャンに「この食器はあなたにあげたものだ。燭台もあげようと思っていたんだ」と言います。
盗みを働いた自分をかばってくれ、人間として扱ってもらえ、さらに贈り物をくれた神父。その神父の行為に感動し、心を入れ替えて生きるようになります。

これは、キリストの愛に触れて、生き方が変えられた者を示しているのではないでしょうか。キリストの愛を知ると、その人の中で変革が起こるのです。

ジャン・バルジャンは、ミリエル神父にしていただいたことを一生忘れませんでした。その証拠に死ぬ前に銀の皿と燭台を持って教会を訪れています。

マドレーヌという名を変えて市長になったとき、ジャベール警部は疑いを抱きます。ジャベールが「ジャン・バルジャンと名乗る者がつかまって、死刑になるところだ。わたしは勘違いしていた」と言ったとき、ジャン・バルジャンは迷います。

このまま黙っていれば、自分は一生市長として安泰に暮らせます。でもひとりの男が代わりに殺されてしまいます。黙っていることはできないと、裁判所に駆け込み、自分の正体を明かしてしまうのです。
その誠実な生き方も、ミリエル神父の愛の行為に感動しているからできたことだと思います。

ジャベールが学生たちにつかまって、ジャン・バルジャンがその命を好きなようにできる立場にあったとき、ジャン・バルジャンのとった行為はすばらしいものでした。彼を逃がし、その命を助けたのです。

ジャベールは敵に命を助けられたのに結局は自殺してしまいます。ジャベールとジャン・バルジャンは、ユダとペテロのようにも思います。

同じように他者から愛を受けたのに、一方は愛を与える人になり、一方は破滅してしまうのです。その違いは何なのでしょう……。

ジャベールは法律を守っている人が正しい生き方をしている。法を破った人は裁きを受けなければならないという信条で生きていました。でも、法律さえ守っていれば正しい生き方といえるのだろうか……神に喜ばれる生き方といえるのだろうか……もしかして、ジャン・バルジャンの生き方の方が神の前に正しいのではないか……と煩悶しながら耐えがたくなって死を選んだのだろうと想像しました。
ジャベールも新しく生まれ変わることが可能だったのに……と残念です。

原作を読むと、映画では省略されていたところがたくさんあることに気づきます。原作では、ナポレオンのことについてかなり長く書いています。
また、修道院から脱出するとき棺桶に入ったことや、マリウスとコゼットの情感あふれる場面、迷路のようになっている下水道のことなど……ユーゴ―さんの筆力はすごいです。

映画に感動した方でまだ原作を読まれていない方にぜひ原作を読んでいただきたいなあと思いました。



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4人目の博士(後編)

2012-12-17 16:38:58 | その他

朗読劇の続きです。


ナレーション:アルタバンは、たったひとりで砂漠を旅し、ベツレヘムの町に着きました。小さな家の戸が開いていて、子守唄が聞こえていたので、その家に入りました。そこには若い母親と赤ん坊がいました。

アルタバン :ちょっとお尋ねしますが、わたしと同じような服装の外国人がこの町に来ませんでしたか?
母親    :おやまあ。ちょうど3日めえさきて、ヨセフどんの家さ行って、赤ん坊に贈り物をやったっつう話を聞いたがぁ。
アルタバン :そうですか。ヨセフの家はどこでしょう。
母親    :それが……昨日、急に旅に出たみてえで……。3人の外国人もあ    
っという間にいねくなってしまったんだぁ。
アルタバン ど、どこへ旅立たれたんでしょう。 
母親    :あいさつにも来ねえんだ、知るわけねえべ。

ナレ    :そのとき、路地から女の人の悲鳴が聞こえて来ました。ドタドタと足音も聞こえます。

女     :ローマの兵隊が赤ん坊を殺しに来たぞ! はやぐ逃げれ 

ナレ    :アルタバンが戸口に立つと、槍を持つローマの兵隊がぞろぞろやってくるのが見えました。母親は赤ん坊を抱いて部屋の隅で震えています。アルタバンは、ルビーを出しててのひらに乗せました。

兵士    :この家に赤ん坊はいないか! 
アルタバン :ここには誰もいない。わしを見逃してくれるような賢い隊長がいたら、この宝石をやろうと思っているんだが……。

ナレ    :兵士はキラキラ光るルビーを見ると、いきなり手を伸ばして取りました。

兵士    :ここには子どもはおらん。家はからっぽだ。先へ進め!

ナレ    :兵隊たちは武器をガチャガチャいわせながら去って行きました。

母親    :ありがとうござんす。何てお礼ゆったらええが……。神様がおめえさまを祝福して下せえますように。

ナレ    :アルタバンは、救い主を捜して旅を続けていました。エジプトに行ったといううわさを聞いてエジプトにも行ってみました。でも、見つけられず、またユダヤの国に戻って捜しました。いつの間にか三十三年の月日がたっていました。黒かったアルタバンの頭は真っ白になっていました。
      エルサレムの町に来たとき、ちょうど過ぎ越しの祭りの最中でした。ひとりのユダヤ人の言葉が耳にとびこんできました。

男     :ユダヤ人の王とゆった男は、とうとう十字架につけられちまったべ。
アルタバン :えっ、誰が十字架につけられたのですか?
男     :おめえ、知んねえのけ? ナザレのイエスつう男だっぺ。
      :自分が「神の子」なんてゆったから十字架刑になったんだべな。       
アルタバン :(まさか。まさかその人は、わしが捜している救い主?)

ナレ    :そのとき、マケドニアの軍隊がこちらに向かってきました。兵士はひとりの娘の髪をつかんで引きずっていました。娘はアルタバンの姿を見ると、すがりつくような目でみつめました。

娘     :助けて! 奴隷に売られちゃうよ。奴隷になるぐれえなら、死んじまったほうが楽だっぺに。

ナレ    :娘の必死な叫びにアルタバンの心は揺れました。

アルタバン :(この真珠で助けることができる。でも、真珠を使ってしまったら、救い主に差し上げるものが何もなくなってしまう……。
       でも、神様はこの娘を救うことを喜んでくださるだろう。)
ナレ    :アルタバンは、真珠を取り出して、娘の手に握らせました。

アルタバン :これはお前の身代金だ。これでお前は自由になれるんだよ。

ナレ    :そのとき、ゴーっと地鳴りがしたかと思うと、大地が激しく揺れました。壁が崩れ、アルタバンの頭に重いれんがが落ちてきま
した。アルタバンの額が割れ、血が流れました。娘はアルタバンを支えましたが、一目で命が助からないことがわかりました。
アルタバンは、静かに口を開きました。誰かと話しているようです。その相手の姿は娘には見えませんでした。

アルタバン :主よ。わたしがいつあなたが空腹であるときに食物をめぐみ、かわいているとき飲ませましたか? いつあなたが旅人であるとき宿を貸し、裸なのを見て着せましたか? わたしはただあなたを捜していただけで、何のお役にもたてませんでした。

イエスさま :おめえによーぐゆっておぐ。おれの兄弟(きょうでえ)であり、いちばんちっちぇーものにしたのは、おれにしたのどおんなじだぁ。

ナレ    :アルタバンの旅は終わりました。宝はすべて主が受け取ってくれたのです。
「もう一人の博士」はとうとう救い主に巡り会えたのでした。             
             
 *讃美歌121番「まぶねのなかに」を賛美する。

                         おわり

アルタバンの生き方がイエス様の生涯と重なったので、讃美歌「まぶねのなかに」を賛美しました。この脚本は、「もう一人の博士」V.ダイク著 岡田 尚訳 佐藤 努画(新教出版社)を参考に書きました。

昨日は教会学校小学科のクリスマス会でした。子どもたちが一生懸命演じている姿に心打たれ、救い主誕生の喜びにあふれました。


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4人目の博士(前篇)

2012-12-15 16:40:03 | その他

一昨日は家庭集会のクリスマス会でした。7つの家庭集会のメンバーが教会に集まって、それぞれ出し物を披露しました。今年のテーマは星です。
すばらしい賛美(中国語での賛美もありました)や劇、将来のゆめを語ってくれたグループもありました。

わたしたちは昨年と同様、朗読劇(もちろん、中身は新しい作品です)をしました。当日朝に早く集まってリハーサルをしましたが、それ以外は 11月の家庭集会で一度練習したきりです。

ほとんどぶっつけ本番でしたが、みなさん迫真の演技(?)でした。この作品については11/16のブログに書いています。(クリックすると、なぜかこの記事の下に11/16の記事が出てきます)

朗読劇の台本(前半)を紹介しますね

       
      
 朗読劇  4人目の博士(その1)


ナレーション:いまから2000年以上もむかし、ペルシャの国で四人の博士が星の道筋を調べるため、夜空を見上げていました。

博士1  :おお、あれは何だ? 今まで見たこともない星が出てるぞ。
博士2  :何だって? あ、ほんとだ。なんて美しい輝きなんだろう。
博士3  :この星は、何かのしるしかもしれない。
アルタバン:そうとも。この星は、メシヤ誕生のしるしだ。
博士1  :ほんとうかい、アルタバン。そういえば、あの古い巻物に救い主のことが書いてあったような……。

ナレ   :博士たちは、以前ペルシャに住んでいた捕囚の民、ユダヤ人が持っていた巻き物を読んでいました。

アルタバン:巻物のダニエルに書かれていることから計算したら、メシヤ誕生はちょうど今年になっているんだ。

ナレ   :アルタバンは仲間の誰よりも巻物を一生懸命読んでいました。
博士2  :とうとう救い主がお生まれになったんだ!
博士3  :みんなでユダヤの国に救い主を拝みに行こう。
博士1  :救い主に差し上げる贈り物を用意しなくては。
博士2  :長い旅になるから、ラクダも必要だな。      
博士3  :では、四日後の夕方に七星の宮の前で会おう。

ナレ   :博士たちは、旅支度をするため、それぞれ家に帰って行きました。財産を売り払ってメシヤに差し上げる贈り物やラクダを用意しました。アルタバンは贈り物としてサファイヤとルビーと真珠を求めました。

アルタバン:ああ、もすぐ約束の時間だ。急がなければ……。
ナレ   :約束の日の夕暮れが迫ってきころ、アルタバンはラクダに乗って、七星の宮に向かっていました。そのとき、道端に誰かが倒れているのを見つけました。
旅人   :(苦しそうに)う、うっ……。助けてくれ。

ナレ   :倒れていたのはユダヤ人の旅人でした。アルタバンがラクダから降りて旅人を見ると、彼は熱病にかかっているらしく、手足がけいれんで震えていました。

アルタバン:(気の毒だけど、看病したとしても助かるまい。約束の時間がせまっているから、行かなくては……。)

ナレ   :アルタバンがラクダに乗りかけたとき、旅人の細い手がアルタバンの衣のすそをつかみました。

旅人   :み、水くんねえか。
アルタバン:えっ、水だって! (この人のために水を汲みに行っていたら間に合わなくなる。どうしよう)
ナレ   :アルタバンは迷いましたが、旅人を見捨てることができず、水を汲みに行き、飲ませてあげました。そして、薬草を飲ませて一晩中看病しました。
夜が明けるころ、旅人は回復しました。アルタバンは、持っていたずべての食料と薬草の残りを渡しました。

旅人   :ああ、ありがてえ……。おめえさまは誰だっぺ?
アルタバン:アルタバンです。救い主がお生まれになったので、これからユダヤの国のエルサレムに行くところです。
旅人   :そうけ! 救い主がとうとう生まれたのけ。何のお礼もできねえけど、おめえさまにひとつ聞かせてえことがある。
アルタバン:何でしょうか?
旅人   :救い主が生まれるのはエルサレムでねえべ。ベツレヘムだっぺ。まちげえるな。
アルタバン:ありがとう。ベツレヘムですね。

ナレ   :アルタバンは旅人と別れ、ラクダをすすめました。約束の日時はとっくに過ぎていましたが、仲間が待っているかもしれないと、七星の宮の前に来ましたが、そこには誰もいませんでした。
宮の屋上に「先に行く。砂漠を超えていくから追いつくように」と書かれたパピルス紙が置いてありました。
      
アルタバンはがっかりしました。でも、しかたがありません。食料も薬草もなくなってしまったので、贈り物として用意していたサファイヤを売って、それらを買い、仲間のあとを追いました。
                  つづく

 *ユダヤ人の言葉を茨城弁で書いています。
  ガリラヤなまりと茨城弁が似ているのではないかと勝手に想像しました。




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