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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

条件付きの愛は哀しい

2011-11-15 16:50:47 | CS(子供伝道)
主人は孫のヒックンに「いい子だったら今度おもちゃ買ってあげる。いい子かな? 悪い子かな?」としきりに言っています。
そういうふうに言わないでと言っているのに……。

いい子だったら……と条件をつけると、いい子のヒックンは好きだけど、悪い子のヒックンは嫌いという意味になりかねません。
いい子になってほしくて言っているのはわかります。でも、子どもはするつもりがなくても、つい悪い事をしてしまうことがあります。(子どもだけでなく大人もそうですね)

そして悪い事をしたとき、しまった!と思って反省するのです。
そんなとき、頭ごなしに叱られたり、悪い子とレッテルを貼られたりしたら、反省の気持ちが薄れてしまいます。
さらに悪い子は受け入れてもらえない、愛されないと思うと、突き放されたような気持ちになります。

わたしは子どものころ悪いことをした時、母に叱られているうちは安心していました。
でも、「もういい。わかったから」とそっぽを向かれると不安になりました。「何がわかったの?と聞くと、「あんたは悪い子だってことがわかったの」

そう言われると、もう愛してもらえないのだと思い、母の背中に泣いてしがみついたのを覚えています。

悪いことをしてしまったら、その行為に対して叱っても、悪いことをした子どもの存在を否定してはいけないのです。

今の世の中は良い結果を出すこと、努力して勝ち抜くことを賞賛し、体が弱いため頑張りたくても頑張れない人、頑張っても良い結果を出せない人をバカにする社会です。
目に見える成果、結果だけを重視し、経過やそのときの子どもの心を無視する先生や親。
「いい子だったら○○してあげる」「成績が上がったらご褒美を上げる」と条件付きで子どもを可愛がる親。

成績が悪くても、悪い事をしてしまっても、存在そのものが尊いのだという聖書的な考えで子どもに接すれば、もっと伸びて行くのになあと思います。

先週の水曜礼拝では夜回り先生こと、水谷修一さんの書いたものを紹介して下さいました。
その中に
「純粋でまっすぐな子どもほど病んでいき、優しさがある子ほど、優しさゆえに傷つけられている。みんな大人の都合で汚されている」
と書かれていました。

夜の街でうろついている子どもたちは不良でどうしようもない人間だというレッテルを貼る大人が多い中で、水谷先生は夜の街の子どもたちと接してこられました。彼らは好き好んで夜の街にいるのではなく、居場所がないから出かけて行くのです。本当は寂しくて愛に飢えているのです。

そんな子どもたちに伝えたい。「きみを造った神様は『わたしの目には、あなたは高価で尊い(イザヤ43:4)』と言っておられるよ。きみは愛されるために生まれたんだよ」と。



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夏期キャンプ(その4)

2011-08-05 17:11:31 | CS(子供伝道)
礼拝が終わるころ、雨がやみ、青空が見えてきました。外で活動ができることになってよかったです。

今年はオリエンテーリングをしました。空き缶にクイズの問題を書いたカードをグループの数だけ入れ、それを教師がグランドや教会堂の周囲に隠します。

2か所のポイントを作って、そこにひとりずつ教師が立ちます。ひとりは、クイズを出します。箱の中に日常生活に使う色々な物を入れ、それを10秒見せます。箱のふたを閉じて、箱の中身を10個以上答えられたら空き缶ひとつ出してもらえます。

もうひとりは、金魚すくいのポイを額につけて子どもたちと水鉄砲対決をします。ポイに穴があいたら空き缶をゲットできます。

グループごとに行動すること。2つのポイントは必ずクリアすること。空き缶からカードを取ったら、缶をもとの場所にもどすこと。の約束を決めます。時間内にできるだけたくさんのカードを集めるように言って、スタートします。

時間になったら部屋に集まって、クイズの質問表に取ってきたカードを貼り付けます。質問表にはあらかじめ問題の前半が書かれています。カードは問題の後半なので、考えて貼り付け、次の欄に答えを書きます。

クイズは主に聖書クイズで「ダニエルさんは何の穴に入れられたでしょう」など簡単なものです。
たくさん正解できたグループが優勝。得点の高いグループから順にお昼の流しソーメンを食べるとき、好きな位置に立てるというご褒美が与えられます。

わたしのグループは女の子4人のグループでした。空き缶探しはなかなか難しかったのですが、子どもたちはめざとくタイヤの中や滑り台の下側に張り付いているのを探し出しました。水鉄砲対決では思わず本気になってしまいました。K先生ごめんなさい。

全部で15個空き缶があったのですが、11個みつけたところで時間切れになってしまいました。クイズは主に3年生が答えてくれました。8グループのうち4位でした。

楽しいオリエンテーリングが終わって、いよいよ流しソーメンです。竹は校長先生がわざわざ遠方の竹林まで切りに行って、作って下さいました。

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子どもたちは流れてくるソーメンを箸で上手につかまえていました。

終わりの会がはじまるとき、出たくないと言った子どもが2人いました。理由を聞くと「終わりたくないから」楽しくてもっともっと教会にいたいそうです。
そう思ってくれてよかったです。終わりの会での賛美は力強く、子どもたちの目は輝いていました。

子どもたちと寝食を共にして、普段の教会学校の時間では気づかない意外な面を発見しました。
「愛されている者として互いに愛し合う」というテーマ通り、子どもたちが助け合い、いたわりあっている姿をみて心打たれました。

わたしは教会へ行くとき、教師用の寝具が足りないと聞いたので枕とバスタオルまで持って行きました。歩いて行くつもりでしたが、あまりにも荷物が重く、2.3歩歩いただけで疲れてしまいました。一時的に雨が上がったので帰りのことは考えずに自転車で行きました。

夏期学校が終わって反省会のとき、土砂降りの雨が降っていました。
さて、帰りはどうしよう……と思っていたら、反省会が終わると同時に雨がやんだのです。

神様は雨からも焼けつくような暑さからも守って下さいました。

体力の限界を感じながらも、奉仕できたことを感謝しました。また来年も奉仕できたらいいな……と思っています。
                   
                      おわり


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夏期キャンプ(その3)

2011-08-04 13:19:53 | CS(子供伝道)
夏期キャンプ2日目の朝も雨が降っていました。そのおかげで子どもたちはみな6時ごろまでは寝ていました。(例年は明るくて4時ごろから起きてしまう子どもが多いのです)

2日目の主な活動はオリエンテーリングと流しソーメンです。どちらも部屋の中より外で行うことを前提としていたので、その時間だけでも雨がやみますようにと祈りました。

6時半から1年生10名の部屋で聖書を読み、祈る時間をもちました。各自持ってきた聖書を開きます。1年生でも大人と同じ聖書を使います。これまでに何度か分級で聖書を開いていましたが、子どもたちは慣れていません。

聖書箇所はマタイ20:1-16です。「今日の礼拝でお話しを聞く箇所よ」と言うと一生懸命さがしていました。

マタイがどこにあるのかわからない子どもがほとんどです。全員が開くまで10分近くかかりました。ようやく全員が開いたので、ひとり1節ずつ順番に読むように言いました。

1年生にとって意味のわからない言葉が多かったと思います。つっかえ、つっかえ読んでいましたが、ほかの人が読んでいる時はちゃんと聞いていて、静かな集中したひとときでした。(分級ではこんなに静かになったことがありません。びっくりしました)

朝食のあと掃除を済ませると、礼拝が始まりました。1年生の子どもたちは「朝、聖書読んだから、今日のお話しのこと少し知っているんだ」「ぶどう園が出てくるんだよ」と得意げに話していました。前もって読ませていてよかったと思いました。

K先生がしてくださったお話しのあらましを紹介します(メモをとっていなかったので少し違う部分があるかもしれません)

ぶどう園の主人は、ぶどう園で働く人を探しに朝早く市場に出かけて行きました。そして、9時~6時まで6千円で働くように約束してひとりの人を連れてきました。

仕事が今日中に間に合いそうもないと思ったので、主人はもうひとり働く人を探しに12時ごろ市場へ出かけて行き、連れて来ました。
  
また、主人が5時ごろにも市場に行ってみると、人が立っていたので、ぶどう園に行って働くようにいいました。

6時になったので、ぶどう園の主人は、お金を払うことにしました。
このとき、お金をもらっていちばん嬉しい人は誰でしょう?

主人は、いちばん最後に来た人からお金を払うことにしました。この人は1時間しか働かなかったのですが、6千円渡しました。

12時に来た人にも6千円渡しました。最初に来た人は、たくさん働いたので、もっといっぱいお金をもらえると思っていましたが、やはり他の人と同じ6千円でした。
 
その人は文句を言いました。でも、最初に来た人は、1日6千円という約束をしていたので、ご主人がずるいことをしたわけではありません。働いた分の報酬としてお金をもらったのです。

最後に来た人は、そんなにたくさんのお金をもらえる資格のない人でした。でも、ご主人はその人にも6千円あげたかったのです。この人がもらったものは報酬ではなくて恵みといいます。

わたしたちは、最後に来た人のようにもらう資格のない者ですが、神様が恵みをくださいました。神様はそういうお方なのです。



(雇われた労務者の顔の絵を貼りながらお話しされました。聖書にはブドウ園の主人は早朝と9時、12時、3時、5時の5回市場に行っていますが、9時と3時は省略しています)


わたしは初めてこの聖書箇所を読んだとき、自分が最初に雇われた人だと思いました。そしてその人と同じように、神様(ぶどう園の主人)は不公平だと思ってしまいました。でも、自分が最後に来た人だと思って読んでみると、神様のしてくれたことがどれだけ愛に満ちていることかわかります。

最後に来た人は、主人に会うまで、仕事がなくて不安な時間を過ごしていたのですから。

体の隅々まで恵みが注がれた気持ちになりました。
                
       つづく


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夏期キャンプ(その2)

2011-08-02 17:01:59 | CS(子供伝道)
教会に戻ると5時でした。予定を1時間もオーバーしています。子どもたちとカレーを作る予定でしたが、カレーはお手伝いのお母さん方にお願いして、子どもたち(希望者)はフルーツポンチとサラダを作りました。
夕食を戴き、夜の集会ではA神学生から聖書のザアカイのお話を聞きました。

ザアカイのお話しを紹介します。

取税人のザアカイは人々から余分にお金を集めて、一部をだまし取るという悪い事をしていたので町の人から嫌われていました。
お金を数えるときがいちばん楽しかったのですが、ザアカイの心の中はさみしさでいっぱいでした。

イエス様がザアカイの住んでいるエリコの町に来られると聞いて、ザアカイはイエス様を見てみたいと思いました。不思議な奇蹟を行う方だとうわさを聞いていたからです。

町の通りは人でいっぱいでした。ザアカイは背が低かったので見ることができません。どうしてもイエス様を見たかったザアカイは、イエス様より先回りして、いちじく桑の木に登りました。

イエス様がやってきました。ザアカイはイエス様を見ることしか考えていなかったのですが、イエス様は木の下で立ち止まると、ザアカイを見上げました。そして、思いもよらぬことを言われました。


「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。(ルカ19:5)」

ザアカイは大喜びでイエス様を迎えました。(こんな罪深い嫌われ者のわたしの家へイエス様が来て下さるなんて……)
とザアカイは嬉しくてたまりませんでした。もう悪い事はやめようと思い、言いました。

「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は4倍にして返します(ルカ19:8)」

イエス様は言われました。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです(ルカ19:10)」



A神学生は子どものころ、ザアカイのようにお金が好きで、自分が得することばかり考えていたそうです。そんな彼女がパプアニューギニアで働いている宣教師のところへ行きました。

イエス様を伝えるため命がけで働いている宣教師の姿を見て心打たれ、神学校へ行く決心をしたそうです。自分が損することを厭わず主のために働く姿を目の当たりにして、生き方が変わったのでしょう。
力強い証しに子どもたちは圧倒されていました。



雨のため、花火はできませんでしたが、一年生は疲れて集会の終りの方では目をこすっていました。
夜中はトイレに起きたり、泣く子がいたりで教師はほとんど眠れませんでしたが、子どもたちは楽しい夢をみていたようです。
          
                   つづく



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夏期キャンプ(その1)

2011-08-01 17:05:18 | CS(子供伝道)

教会学校で7月29日、30日に低学年夏期キャンプを行いました。数日前までの天気予報では29日30日は晴れだったのに、どんどん変化していき、当日は雨が降っていました。

でも、今年は原発事故で放射能が地面や草に付着していることを考慮し、一日目は外での活動計画していませんでしたので、雨でも計画変更する必要はありませんでした。

開会礼拝のあと、1年生から3年生の子どもたち36人と20人の先生とヘルパーたちは、2台のバスに乗り込みました。

行き先は千葉県印西市にある東京キリスト教学園(神学校)です。

夏期キャンプ一日目の昼食は、例年はお弁当を持ってきていましたが、今年は違いました。
東京キリスト教学園へ行く途中でイオンに寄り、昼食をとりました。ひとり700円持ってきて、自分の好きな食べ物を選んで食べるという話をすると、子どもたちは大喜びでした。

教会から一時間半ぐらいかかって印西市のイオンに到着。昼食時だったのでフードコートは混んでいました。4-5人のグループごとに座って何を食べるか考えることからはじめました。

いつもは親御さんと一緒にこのような場所に行き、食べ物を買ってきてもらうのでしょうが、今回はお父さん、お母さんとではなく友達と一緒です。また、自分で値段を考えて選んで買うのです。もちろん注文したり、運ぶのは大人が手伝いますが、自分でできる子どもは自分でします。

500円のそばを買ってデザートに100円のアイス。残りの100円を震災に寄付した子どももいました。
食後、ごみを分別して捨てる方法を、3年生が1年生に教えている場面も見られました。
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東京キリスト教学園では、福祉棟を見学させていただきました。介護用品や介護用ベッドの説明を聞き、人形をお風呂に入れるところも見せていただきました。

人形がお風呂の方へ下がるのではなく、お風呂が上がって行くのをみて、子どもたちは感嘆の声を上げていました。(わたしもびっくりしました。寝たまま浴槽に向かって下がっていくのは怖いことでしょう。下がるのではなく浴槽が上がっていくのなら安心ですね)
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次にパイプオルガンを見せていただきました。高い天井に届くほどのパイプ。オルガンだけど管楽器なのだそうです。
オルガンにはバッハのサインSoli  Deo  Gloria(ただ神の栄光のために)と書かれていました。
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パイプオルガンでの演奏を聴き、希望する子どもたちにパイプオルガンを弾かせていただきました。空気の調節によって同じ音でも全く別の響きになることに驚きました。
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子どもたちにとって一生忘れないほどのよい経験をさせていただきました。

                      つづく


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あきらめないで(その2)

2011-07-02 11:02:07 | CS(子供伝道)
前回に続き、教会学校小学科(低学年)でお話ししたことを紹介しています。実際に話した言葉とは少し違っているかもしれません。


次にイエス様は、わたしたちのお祈りに応えてくださる神様がどんなお方か教えて下さいました。
自分の子どもがパンを食べたいと言うのに石を与えたり、魚が食べたいというのに蛇を与えるお父さんはいますか?そんな人はいませんね。

人間のお父さんでも自分の子どもには良い物を与えるのですから、それ以上にわたしたちを愛してくださっている天のお父様は熱心に求めるわたしたちに喜んで良い物を与えて下さいます。

求めても願っていた物が与えられないことがあります。
たとえば、小さな子どもがお父さんやお母さんに「ナイフちょうだい」と言ったらどうでしょう。あげる親はいませんね。ナイフは危ないので代わりの物をあげるでしょう。
神様はわたしたちにとっていちばん必要な物を必要な時に与えて下さいます。

わたしは、子どものころからお話しを作るのが好きでした。イエス様を信じてからは、神様の愛を伝えるために童話を書きはじめました。

キリスト新聞社でクリスマス童話を募集していたので、年に1回クリスマス童話を書いて送っていました。入選するようにと祈って送ったのにいつも落選でした。9年祈り続け、応募しましたが、9回とも落選でした。そのたびに落ち込んでいました。10回目も応募する気持ちでいたのに募集が終わりになってしまいました。

そのころ事件が起こりました。今まで書いてきた童話のデーターが全部消えてしまったのです。今までがんばってきたことの意味はなくなってしまったように思え、がっかりしました。
でも、その事件によって、何のために書いているのかをもういちど考える機会が与えられました。

そんなときクリスチャン新聞で小説を募集していることを知って、わたしは祈りました。
「神さま、いままで入選したいとばかり願ってきましたが、間違っていました。いま、『書くこと』をあなたにお捧げします。『書くこと』があなたのみ心にかなっていないのなら、書くことをやめます。でも、もしみ心にかなっているのでしたら、それを用いて下さい」

このように祈って小説を書き応募すると、思いもかけず入選し、新聞に連載されました。9年前のことです。

クリスマス童話は入選しなかったのですが、神様は小説を入選させて下さいました。神様は願っていたこととは別の物を与えてくださいました。

その後はクリスチャンでないところに小説や童話を応募し続けて、そしてまた落選し続けています。でも、祈り求めることが前と変わりました。

前は入選させて下さいと祈っていましたが、今はそう祈っていません。神さまの栄光をあらわすような作品が書けますように。神様がいちばん良いと思われるとき、神様の方法で用いて下さいと祈っています。

だから落選してもがっかりしなくなりました。前は、落選するとしばらく落ち込んで書けなかったりしましたが、今は落選がわかったその次の日に新しい童話を書いたりしています。

神様はいちばん良いときにいちばん良いものを与えて下さいますから、祈りがかなえられないといって簡単にあきらめたりしないようにしてほしいです。


このことを話した後、「わたし、先生がお話ししてくれた『くしゃみ大将』覚えています。とってもおもしろかったです」と分級を一緒に担当しているEちゃんが声をかけてくれました。

Eちゃんは大学一年生。Eちゃんが小学生のときクラスを受け持っていました。
わたしが受け持ったクラスの子どもたちは、へたくそな童話を聞かされて迷惑だったんじゃないかな……と不安を感じていたのでしたが……喜んでくれていて、ずっと覚えていてくれたことを約10年後に知らされて感激しました。


「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見だそう。(伝道者の書11:1)」


クリスマス童話にだけ応募していたのではないので、落選は9回どころか30回ぐらいしています。入選した後の分も入れると落選回数は数え切れないほどです。その分、打たれ強くなっているかもしれません……。

詳しくはHP HP「生かされて・・・土筆文香」のエッセイの部屋「書くこととわたし4」に記しています。

                おわり



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あきらめないで(その1)

2011-06-30 16:59:39 | CS(子供伝道)
2011年も半分が過ぎました。
来週の月曜日から2泊3日で行われるお茶の水聖書学院のサマースクーリングで軽井沢に行く予定です。
去年はスクーリング当日の朝より熱が出て参加できませんでした。

泊まりがけで出かける予定をしていて当日具合が悪くなったことは初めてでした。
微熱だったので、下がれば2日目からでも参加しようと思っていたのに、それもできませんでした。熱はそれから2週間も続いたのです。
急に暑くなる6月末から7月はじめにかけていつも体調がよくありません。この2.3日も体調が悪かったのですが、腰痛のおかげでゆっくり休め、腰痛も体調も快復してきました。
今度こそは参加できるようにと祈りつつ……。

日曜日に教会学校(小学科低学年)でペープサート(紙人形劇)を使ってお話をさせていただきました。「成長」(いのちのことば社)テキストの6/19のメッセージ「神に求める」を参考にしています。
2回に分けて紹介します。


イエス様はこんなたとえ話をなさいました。
ま夜中、シモンさんの家に旅人が訪ねてきました。イスラエルの人は旅人にごちそうしたり、よくしてあげるという習慣がありました。

「どうぞ中に入って下さい。お疲れでしょう、ゆっくり休んで下さい。いま、食事のしたくをしますね」
シモンさんは旅人に夕食をごちそうしようと思いました。ところが台所には一切れのパンもありません。

シモンさんは近所の家に走って行きました。そのころはコンビニもなかったのです。夜だし、知り合いにパンを貸してくれるように頼むしかありませんでした。

トントントン
「パンを3つ貸してくれないか。旅人が訪ねて来たんだが、家に食べ物が何もないんだよ」
シモンさんは戸をたたいて言いました。

家の中から声が聞こえました。
「かんべんしてくれよ。何時だと思っているんだ? いい夢みているところなんだから、起きたくないよ」
けれども、シモンさんはあきらめません。

トントントン
「戸締りもしたし、家族みんな寝ているんだ。子どもたちが起きてしまうじゃないか。明日にしてくれよ」
トントントン
「申し訳ないけれど、頼むよ。パンを貸してくれ」
トントントン トントントン 
答えはありません。

でも、シモンさんはどうしても旅人にごちそうしたかったので、あきらめずにたたき続けました。
しばらくして、戸が開きました。

「やれやれ、仕方ないなあ」とその人は起き上がってパンを貸してくれたのです。
シモンさんは、大喜びでパンを受け取ると、旅人に食べさせてあげました。

イエス様はこのたとえ話で「あきらめないで熱心に祈りなさい」と教えてくれました。
暗唱聖句を読みましょう


求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7)


「求めなさい」「捜しなさい」「たたきなさい」というのはどれも神様にお願いすることを表す言葉で、「求め続けなさい」「捜し続けなさい」「たたき続けなさい」という意味です。
たとえ話に出てきたシモンさんは、おなかをすかせている旅人のためにどうしてもパンが必要でした。それで、断られても戸をたたき続け、パンを貸してくれるように頼みました。

本当に必要なこと、大切なことのためにはあきらめずに熱心に祈り続けなさいとイエス様はおっしゃった のです。
         

   つづく(次回はわたし自身のあかしも入れています)




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わらべ歌のすばらしさ

2011-05-24 11:52:39 | CS(子供伝道)
日曜日の午後は、教会学校の教師研修会でした。今回は近藤信子先生によるわらべうたの研修会なのでとても楽しみにしていました。

近藤先生は、NHKの「にほんごであそぼ」のわらべうたの指導をしておられ、つくば市で『とんとんやかた』というわらべ歌を基礎とした音楽教室を開いておられます。

日曜は同じ教会の礼拝に集っているのに今まで個人的にお話ししたことがありませんでした。今回、わらべ歌の素晴らしさを教えていただき、個人的にお話もできて、とても嬉しかったです。


まず、近藤先生の指導でわらべ歌の実践をしました。

いちにっさん にのしのご さんいちにのしの にのしのご……

と歌いながら指を出していくという単純な動作ですが、親指がいちになったり、小指がいちになったりと変化し、両手同時に出したりで、途中からついていけなくなりました。

最初緊張していましたが、やがて楽しくてたまらなくなりました。わらべ歌の持つリズムは、日本古来からあるので、なじみやすいですよね。

『あずきちょまめちょ』では、鬼につかまえられるかもしれないというスリルを味わい、
『かわのきしのみずぐるま』では、ルールを守って遊ぶことの大切さを学びました。

ふたりが向かい合ってすわり、「ここはとうちゃんにんどころ ここはかあちゃんにんどころ ここはじいじにんどころ ここはばあばにんどころ」(にんどころというのは似ているところという意味)
と言いながら相手のおでこ、あご、左右のほっぺたをつつき、顔をなでて最後に「○○ちゃん大好き」と抱きしめるわらべ歌には心がホカホカ温かくなりました。


触れ合うことによって、愛されていること、自分の存在の大切さがわかります。
鬼になって孤独を味わうことも大切で、ひとりで心細くてもあえて先生は付き添わないほうがいいのです。ひとりになっても、そのあとすぐに仲間になれるという安心感をもって孤独を体験させることも必要です。
また、好き嫌いに関係なく、遊びの中でいろいろな人と手をつなぐことによって嫌いな人を受け入れるようになります。
と教えていただきました。

わらべ歌遊びをすることによって社会性も身につくのですね。わらべ歌ってすばらしい!と思いました。そういえばわたしも小学校低学年のとき、『花いちもんめ』や『ひらいたひらいた』などやって遊んでいました。


ところで、わらべ歌の歌詞の中には日本の神話に出てくる神や坊さんが出てきます。クリスチャンである近藤先生は、最初は悩まれたそうです。
でも、それらの上にまことの神がおられるのだから気にしないで取り入れているとおっしゃっていました。お坊さんがいなければ、日本の文化はここまで発展しなかったのでしょうから。


研修会には約20人(10代から60代の男女)の教会学校教師が参加しました。腰の痛い方は一部見学していましたが、わたしは年甲斐もなく(若ぶって?)全部参加。

『芋虫ごろごろ』などハードなものもあったので、翌日は疲れと筋肉痛と腰痛で、半日寝ていました。

わらべ歌の研修会のあと教師会だったので、家に帰ったのは6時を過ぎていました。3時ごろ豪雨に見舞われましたが、帰りが遅い時間だったおかげで雨はやんでいて感謝でした。


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祝福された親子礼拝

2011-05-16 16:49:14 | CS(子供伝道)

昨日は年に一度の親子礼拝でした。いつもの教会学校は教育館で1.2歳クラス、幼稚科、小学科低学年、高学年に分かれてそれぞれ礼拝を捧げていますが、親子礼拝では1.2歳クラスから小学6年生までの子どもと親が共に礼拝堂で礼拝を捧げます。
礼拝堂は満席だったので、親子合わせて300人以上いたと思います。

「主われを愛す」「つながれイエスさま」
礼拝堂いっぱいに賛美の声が響きました。
わたしは受付だったので親子礼拝のメッセージをじっくり聞くことができませんでした。

親子礼拝の前に行われた第Ⅰ礼拝のメッセージの一部を紹介します。

旧約聖書の申命記はモーセの遺言のようなものです。書かれた目的は、出エジプトのとき起きた奇跡(10の災いや紅海がふたつに分かれることなど)を見ていない第二世代の民たちに主なる神のなさった業を伝えることです。

モーセはメッセージの途中で祝福の祈りをしています。

「―どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そして、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるようにー(申命記1:11)」


イスラエルの民にとって最大の祝福は、子どもがたくさん与えられることです。これからイスラエルの国を建国していこうというときに民の強さではなく、健康でもなく、イスラエルに子どもが増えることをモーセは祈っています。

なせそう祈ったか……モーセは祝福の原点を知っていたからです。
創世記1:28には
「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」」
と書かれています。

子どもたちが祝福の原点です。
それなのに自分の都合で子どもたちに接していませんか? 合理性と利便性を追求するあまり、子どもを優先しない社会を作っていませんか?

マルコ10章には、イエス様のもとに来る子どもたちを弟子たちがしかったことが書かれています。イエス様は憤って言われました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。(マルコ10:14)」


子どもたちの存在そのものが神の祝福です。

それなのに、勉強がもっとできるようにとか、スポーツができるようになどプラスαを求めて喜びにしようとしていませんか?

子どもの存在そのものが祝福であることを多くの人は知りません。イエス・キリストを知らないとわからないことです。
モーセはこれから国家を建て上げていく第二世代に人たちに神の祝福の原点を語り、これを忘れてはならないと言ったのです。



子どもの存在そのものが祝福であることを知っていたのに、わたしは子どもにプラスαを求めていたことを思い出しました。「○○ちゃん大好き。ピアノの練習をしたら、もっと好き」などと言っていたような気がします。無条件で好きとなぜ言えなかったのでしょうか……。
わたしも幼いころ「いうことをきく子が好き」と母に言われて育ちました。母に嫌われることを恐れて逆らうことができなかったのでした。



親子礼拝の後、教会のグラウンドで親子運動会が行われました。チームに分かれて障害物競走、くるくるリレー(おでこを棒につけ、5回くるくる回ってから走る)、綱引きなどで大いに盛り上がりました。

親子運動会の最中に、雨が降ったわけでもないのに虹が出ていました。(写真)アーチ型ではなく、まっすぐな虹でした。
ノアの洪水のあと、神様は虹を立てて言われたことが創世記に書かれています。

「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。(創世記9:13)」


契約というのは、今後大洪水で地を滅ぼすようなことはしない。という神様の約束です。
このときも神様は「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と言っておられます。

礼拝メッセージにつながっているではありませんか!
神様は、こんなにたくさんの子どもたちと大人が共に礼拝を捧げ、神様をほめたたえたことをとても喜んで下さっている。それで教会の真上に虹を立ててくださったのではないかと思いました。



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イースターの意味

2011-04-26 12:40:23 | CS(子供伝道)
23日の土曜日、ヒックンとママが来ました。主人は、朝からはりきって掃除をし、わたしは夕食の下ごしらえと昼食の用意をしながら待っていました。

居間には主人が段ボールで手作りした高速道路をセットし、おもちゃを並べて、ヒックンが楽しそうにミニカーで遊ぶ姿を想像していました。

ところが、その日はヒックンの遊ぶ姿を見ることができませんでした。いつもは満面の笑みをみせてくれるヒックンですが、笑顔がなく、ママに抱かれて眠そうな顔でやってきました。
熱を測ると39.8℃もありました。午前中は元気だったのに……と、ママもびっくり。
何も食べられず、おもちゃにも興味示さず、ただぐったりと寝ているばかりです。
治るまで泊まってもらうことにしました。

ママが病院へ連れていくと、インフルエンザではなかったのでほっとしました。座薬を入れると熱が下がってきて、笑顔でおしゃべりをはじめました。ヒックンは月曜日には平熱になりましたが、一日我が家で過ごし、今日は保育園に行きました。


日曜はイースター礼拝でした。教会学校ではパネルシアターを使ってわたしがメッセージをさせていただきました。以下はメッセージのあらましです。(聖書箇所ルカ24:1-12)



イエス様が十字架につけられて死に、墓に葬られて後、3日目の朝のことです。
マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、ヨハンナの3人は、イエス様の体に香油をぬろうと墓へ向かっていました。マリヤたちは、墓が大きな石でふさがれているのを知っていました。自分たちだけでは石を動かすことができないのですが、どうしてもイエス様に香油をぬってさしあげたいと思って出かけました。

ところが、墓の前に行くと、石はすでにころがしてありました。中をのぞくと墓は空っぽでした。マリヤたちがおろおろしていると、神様の御使いがやってききました。マリヤたちは驚いてひれ伏しました。

御使いが言いました。「あなたがたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたからです」

御使いは、イエス様がガリラヤにおられたころ、ご自分が十字架につけられ、3日目によみがえることを話していたと告げました。それを聞いて、マリヤたちは思い出しました。そして、御使いの言葉を信じて大喜びで他の弟子たちのところへいきました。

「墓はからっぽでした。主はよみがえられたのです!」
マリヤたちは伝えましたが、弟子たちは「そんなこと、あるはずがない」と、信じませんでした。
ペテロとヨセフだけは墓に確かめに行きました。墓はからっぽで、中にはイエス様の体を包んでいた亜麻布だけがありました。

どんな偉い人でも死んだら骨が残ります。でも、イエス様の骨は世界中どこを探しても見当たりません。それは、死んだままではなく、よみがえられたからです。
イエス様は今も生きておられ、わたしたちと一緒にいてくださいます。

イエス様がよみがえってくださったおかげで、イエス様を信じる人は罪が赦され、永遠の命が与えられるというすばらしい約束が実現しました。

イエス様の復活をお祝いする日がイースターです。イエス様がよみがえってくださったことを喜び、イースターの意味を知らない人に伝えましょう。



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会いたかったよ

2011-02-28 21:12:27 | CS(子供伝道)

少し暖かくなってきたと思ったら、今日は雨が降ってとても寒いです。気温の変化についていけないせいか、体調不良で一日ごろごろしていました。

入院している友人のお見舞いに行くつもりでしたが、無理して出かけるとこちらが見舞われることになりそうなので、今日はやめました。
夜になって元気回復してきました。

このところ土、日に出かける用事が2週続けてあったので、ヒックンを呼べませんした。
ヒックンは26日にやってきました。3週間ぶりです。

「会いたかったよ!」って駆け寄って来たのでぎゅっと抱きしめると、
「ずっと会いたかったんだよ。ゆこちゃん(わたしの愛称)は?」と尋ねます。
「わたしもヒックンに会いたかった」と言うとニッコリ笑いました。

「会いたかった」

なんて嬉しい言葉でしょう! ヒックンが帰ってからも、この言葉を頭の中でリピートさせて微笑んでいるわたしです。

昨日は教会学校で暗唱聖句大会が開かれました。1年生から6年生まで、60人以上の子どもたちがゲーム形式で学年ごとに競いました。例年は学年を縦割りにして競っていたのですが、今年は学年ごと(もちろんハンディをつけて)に競いました。

聖句を後半だけ書いたカルタを百人一首の要領でとる競争と虫食いクイズ。そしてそれぞれが覚えてきた聖句の数の平均を分級ごとに出して加算しました。
わたしの担当学年2年生は、1年生にも負けて最下位でしたが、みんなが意欲的だったことが嬉しくて、ひとりひとりに賞をあげたい気持ちです。

個人賞としてはヨハネ15章1-17を覚えるのですが、ひとりの6年生の男子が完全に暗唱できました。拍手!


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「ことば」を住まわせる

2011-02-22 13:07:05 | CS(子供伝道)

教会学校では、来週暗唱聖句大会があります。聖句カードの1ページには5~6の聖句が書かれていてそれがA~Zまであります。

Fまでの聖句(33個)をまず覚えて、意欲のある子どもはZまで順に覚えていきます。その他にヨハネ15章1~17まで覚えると個人賞がいただけます。わたしは3週間で33の聖句とヨハネ15章を覚えたつもりでしたが、頭の中が飽和状態になってしまいました。

ひとつ新しいものを覚えるとひとつ忘れるので困ってしまいます。聖書箇所もなかなか覚えられません。小学2年生の子どもに負けています。(3週間で62個の聖句を覚えた小2の子どもがいます)

先日読書会で読んだ本、「乙女の密告」の中では、ドイツ語を暗唱する乙女たちが出て来ます。「忘れる言葉はその人にとって大事な言葉」というセリフがあって、意味深いなあと思いました。小説の中で乙女たちが覚えていたのは『ヘト アハテルハイス』(アンネの日記)でした。主人公は最後に大切な言葉を自分のものにして語っています。

覚えるためには、繰り返し声に出して読み、何度も何度も口の中で唱え、大変な努力を必要とします。
暗唱するうちに言葉が自分の中に入ってくるのがわかります。
また、暗唱しなければ何度読んでも気づかなかったであろう言葉に出会い、はっとさせられることもあります。

ヨハネ15章に
「あなたがたがわたしにとどまり。わたしがあなたがたの中にとどまるなら……」と繰り返し書かれていいますが、7節だけは、「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」になっています。「ことば」という語が入っているのはなぜでしょう……。

ヨハネ1:1に「ことばは神であった。」と書かれているので、わたし=ことばと解釈できますが、あえて「ことば」と書かれているのはなぜでしょう……。

7節の後半には「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」と書かれています。

イエス様ご自身が心に入って下さり、聖書のことばが自分のものになったときには、願い求めることが神さまと同じになっているのではないでしょうか。

名誉欲、金銭欲などのように自分のことだけを考えて求めるのでなく、神様のみこころにかなったことを求めるようになるのではないでしょうか。

だから、「あなたがたのためにそれがかなえられます」と言っているのでしょう。「あなたがたのために」という言葉も意味深いです。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものは与えられます。マタイ6:33」
と同じ意味になると思いました。

子どもたちの心の中に、また私の心の中にもたくさんのみ言葉を住まわせることができるように祈り求めます。


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背後にあるもの(その2)

2011-02-02 21:48:28 | CS(子供伝道)
今日はヒックンが熱を出したので一日預かりました。午後には熱が下がって元気になったのでほっとしました。
昨日の続きです。

それに気付いたエステルは、人を遣わしてモルデカイに尋ねさせます。モルデカイは発布された法令の写し渡し、事情を伝えました。そして、王のところへいってユダヤ人を助けるように頼みます。
エステルは、召されないのに王のところに行く者は死刑になるという法令があること。しかし、王が金の笏(しゃく)をその人に差し出せば、殺されないですむことを話し、エステルは30日も召されてないことを告げます。

そのときに語ったモルデカイの言葉は、迫力があります。

聖書には次のように書かれています。
「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時であるかもしれない。」

モルデカイは神が必ずユダヤ人たちを守って下さることを信じています。また、エステルに使命が与えられていることを伝えています。
実の娘のように愛するエステルを危険な目にあわせても使命を全うせよと言うモルデカイの心中はどうだったのでしょう。確固たる信仰を持っていたからこそ言えたのでしょうね。

モルデカイの言葉を伝え聞いたエステルは奮い立ちます。ユダヤ人たちに3日間の断食と祈祷をお願いし、「たとい法令にそむいても、私は王のところへまいります。私は死ななければならないのでしたら、死にます」と言いました。
張りつめた会話がかわされています。



30日のCSのメッセージはここまででした。
「さて、エステルは、ユダヤ人たちは、どうなったでしょうか。続きは来週」と言うと、子どもたちの間で「えーっ!」「続きが聞きたい!」という声が上がりました。


結果は、金の笏が延ばされ、エステルは助かります。ところが、エステルはユダヤ人たちを救ってほしいことをすぐに王に言いません。王とハマンを招いて2回も宴会を設け、2回目のとき、ハマンの悪だくみを訴えるのです。ハマンは王の逆鱗に触れ、木につるされます。ユダヤ人たちは助かります。


エステル記に書かれていることは本当にあった出来事です。
聖書をお持ちの方は、ぜひ旧約聖書のエステル記をお読みください。ひとつひとつの出来事が神の民、ユダヤ人を救うために起こったのだとわかります。背後に神さまの御手が働いているのです。

『もしかするとこの時のため』というのは、現代に生きるわたしたちにも当てはまるのではないでしょうか。

わたしたちは、神様の遠大な御計画の中に組み込まれています。色々なことが起こり、そのときは意味がわからず、嘆いたり、つぶやいたりするのですが、ずっと後になって「もしかするとこの時のため」に起きた出来事であったと気づくのです。

中学生の時、友達がいなかったときの孤独な経験は、童話や児童小説を書く原動力になりました。
乳がんになったことは、HPやブログを通して同じ病気の方を慰めるのにお役に立ちました。
主にあって無駄な経験はありません。辛い経験もよいことに変えられるのです。


「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8-28)」


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背後にあるもの(その1)

2011-02-01 21:59:50 | CS(子供伝道)

教会学校小学科では、今月末に暗唱聖句大会を行います。子どもたちがひとつでも多くのみ言葉を覚えられるように指導しています。

わたしは衰える記憶力と戦いながら、一週間で33の聖句を覚えました。あと100ぐらいあるので、家事をしながら一生懸命覚えています。

小学科では5~6人の教師が順に「成長」というテキストからお話ししています。
30日は旧約聖書エステル記のメッセージをさせていただきました。

何か行事があると特別メッセージになるので、テキストから一週ずれていますが、30日がエステル記の前半でした。

わたしは、エステル記が大好きです。「神さま」「主」という言葉は使われていませんが、背後にある神様の働きが実感できます。

このメッセージをするために「もしかすると、この時のため」遠藤嘉信著(いのちのことば社)を再読しました。本を読んでいるうちに熱くなり、作っていたメッセージ原稿を書き直したほどです。
エステル記をご存じない方のために粗筋を紹介します。


イスラエルの国が滅ぼされ、ユダヤ人たちは捕囚としてバビロンに連れていかれました。その後、バビロンがペルシャに滅ぼされ一部のユダヤ人はエルサレムに戻りました。でも、異国の地に住み着いたユダヤ人も大勢いました。
その中にエステルという美しい娘がいました。エステルは幼い時に両親を亡くし、親戚のモルデカイに育てられました。

ペルシャの王、アハシュエロスは大宴会を催し、王妃ワシュティを呼び出しました。王妃の美しさを客人に見せびらかしたかったのでしょう。ところがワシュティは王のもとに来るのを拒みました。なぜ拒んだかは聖書に書かれていません。
しかし、そのことからエステルの出来事が始まっています。

ワシュティは退けられ、新しい王妃を迎えることになりました。そして大勢の娘さんの中からエステルが選ばれ、王妃になりました。モルデカイはエステルにユダヤ人であることを明かさないように命じます。

宮殿にはハマンという大臣がいました。王はハマンを信頼し、高い地位につけました。
宮殿中の者がハマンにひれ伏しました。モルデカイだけはひれ伏さなかったので、ハマンは彼を憎み、彼の民族と共に滅ぼそうと計画し、王に訴えます。

王は、ハマンに指輪を渡し、あなたの好きなようにせよと言いました。ハマンは全てのユダヤ人を殺害するという文章に王の指輪の印を押し、法令を発布しました。王の指輪の印が押された法令はだれも取り消すことができないものでした。

ユダヤ人の町は大混乱になりました。モルデカイも嘆いて着物を引き裂き、荒布をまとい、灰をかぶって門の前にすわりました。

                        つづく


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祝福されたクリスマス会

2010-12-18 19:56:05 | CS(子供伝道)

教会学校小学科のクリスマス会が祝福のうちに終わりました。
低学年はゴスペルを力いっぱい賛美しました。リズムをとりながら、体全体を使って賛美する姿は輝いていました。

練習は日曜ごとなので礼拝堂では練習できないのですが、本番は礼拝堂の舞台です。舞台練習は、先週の土曜日のリハーサルのときだけでした。

立ち位置に直前の変更があったり、リハーサルをお休みしてどこに立つのかわからないまま出場した子どももいましたが、歌がはじまるとみんな大きな声で賛美していました。

途中から歌詞が英語になるのですが、子どもたちはたった2回の練習で覚えてしまったと聞いて驚きです。50人近くの子どもたちが心ひとつになって神さまを見上げて賛美しました。

高学年は人形劇「小さなリース」を演じました。
わたしは舞台裏で指示を出す係でしたが、子どもたちはすっかり動きを覚えていたので、指示を出す必要がありませんでした。練習を積み重ねてきた成果が現れました。
人形操作と声を出す子どもは別なのにセリフと動作がぴったり合っていたと言われ、子どもの持っている力ってすごいなあと思いました。

そのほかハンドベルの演奏や、小林一茶の俳句の発表がありました。子どもたちの持っているよいものが引き出され、すばらしいクリスマス会になったことを感謝しました。


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