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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

苦難の意味(その1)

2017-10-09 17:43:23 | 教会
一昨日は土浦市の花火競技大会でした。土浦では全国の花火師さんが集まって、毎年10月に競技大会が行われます。今年は前日から朝にかけて雨が降ったものの、夕方からいい天気になって、70万人もの人が集まってきたそうです。わたしの住むマンションからよく見えるので、わたしは孫たちとベランダに出て観ました。

色の名前を全部覚えて得意になっている3歳のナルクンが大声でカラフルな花火を見て「青」「赤」「黄色」と大声で叫んでいました。途中で飽きておもちゃで遊んでいましたが……。


日曜日は、教会でA先生からメッセージを聞きました。メッセージの一部の紹介と考えたことを書かせていただきます。

障がいのある人を見ると、なぜ障がいがあるのだろう、本人の心がけが悪かったのか、両親が悪いことをしたのか……と思う人がいます。

2000年前にもそのように思った人がいました。それはイエス様の弟子たちでした。(弟子たちばかりではなく、大勢の人がそのように思っていたことでしょう)

生まれつき盲目の人を見て、弟子たちはイエス様に質問しました。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか(ヨハネ9:2)」
イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。(ヨハネ9:3)」と答えました。


弟子たちの発言は、因果応報の思想に根ざしています。 つまり、苦難がその人にとっては罰だと考えるのです。 罰だと思うと、苦しみは二重の苦しみとなります。
ところがイエス様ははっきり否定されました。

この記事が聖書に書かれていることによって、どれだけの人が慰めを受けたことでしょう。

わたしは2歳のときから喘息とう持病を持ち、苦しんできました。大きくなるにつれ、どうしてわたしだけがそんな病気持ちになったのか、神様からの罰なのか……と精神的にも苦しみました。
この聖書の言葉を読んだとき、どれだけ救われたことでしょう。


                つづく


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さようなら、Iさん

2017-10-03 20:25:29 | 教会
教会学校で一緒に奉仕していたIさんが召されました。今日は教会でお葬儀がありました。

今年の3月まで同じ分級で奉仕しており、そのときはとてもお元気でした。6月に胆管細胞癌がみつかって入院し、療養生活を続けていましたが、9月28日に召されました。73歳の生涯でした。
お葬儀で思い出を語らせていただきましたので、紹介させていただきます。

Iさんと初めて出会ったのは、10年ぐらい前のことです。場所は教会学校の部屋の入口でした。小学生のご家族の方かと思っていましたが、そうではなく見学していたのでした。Iさんはめぐみ教会に移って来られてから、毎週教会学校を見学されていました。

一年経って、教会学校教師として奉仕されるようになりました。教会学校は礼拝が終わると各学年に分かれて少人数で分級をします。分級の担当を10年間で4回ほどご一緒させていただきました。

Iさんにたくさんのことを教えられました。礼拝でのお話しのとき、分級での聖書の学びをするときは、じっくり
聖書を読み、時間をかけて準備されていました。
誕生会のときは、手作りのカードを丁寧に作っておられました。

遠方からバスを乗り継いで教会に通うのは大変だったと思います。教会学校の行事等で第一礼拝に出る必要があるときは、早朝に家を出て、8時半からの第一礼拝に間に合うように来られていました。
 
7年前にIさんがお茶の水聖書学院(OBI)の卒業生だとわかりました。わたしは、通信で学んだので同席することはありませんでしたが、OBI20周年記念でご一緒しました。お母様の介護のことで、とても大変な時期に聖書学院に通っておられたことをお聞きし、つらい境遇の中にあって、必死に神様を求めて生きてこられたのだなあと思いました。

あるとき、いつまで教会学校奉仕を続けるかという話になりました。わたしは、「体がきつくなってきたから、あと1,2年かな……」と言うと、Iさんは「わたしは体力がなくなったらヘルパーとして奉仕し、もっと年をとって歩けなくなっても教会学校に参加し続けたい」
と、言われたのを聞いて、子どもたちと教会学校を心から愛しているのだなあと胸が篤くなりました。

その話をしてから一年もたっていないのに、天に駆け上がっていってしまいました…………。

Iさん、天国でお会いできる日を楽しみにしていますよ。
  

「Iさんは神様から愛され、神様を愛した人でした」と牧師先生が言われました。

聖書の言葉
しかし、私たちは、私たちを愛してくださる方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8:37)

写真画像追加しました。


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真珠商人

2017-09-27 15:52:18 | 教会
日曜日は洗礼式でした。5人の方が洗礼の恵みに与かりました。今回は若い人ばかりで、5人の中の3人は青年、2人は中学生でした。

マタイ13:45-46の箇所からメッセージをいただきました。新約聖書の福音書にはたとえ話が書かれています。イエス様が当時の人たちにわかりやすいようにたとえで話されました。

「また、天の御国は良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物全部売り払ってそれを買ってしまいます。(マタイ13:45-46)」


この商人は、その真珠がとても価値ある物だと知っていました。それで、その真珠を得るために全財産を投げ打ったのです。

「天の御国はそこまでして手に入れてもなお余りある物です。何にも代えがたい価値をもっています。手に入れるためには何を差し出せばよいのでしょう。」と、牧師先生が言われました。

わたしたちは、ひとりひとりが真珠商人のような者です。真理を探し求めています。洗礼をうけた人たちは、真理を見出したのです。

神様もまた、真珠商人といえます。ヨハネ15:16には「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と書かれています。

神様は、自分の本当の価値を知らずに生きていたわたしたちを見いだし、救い上げてくださったのです。
神様は、わたしたちの失われたいのちを取り戻すため、イエス・キリストを遣わしてくださいました。神様は、イエスという代価を払ってわたしにご自分のいのちを与えてくださったのです。

わたしたちにつけられた値札には「イエス・キリスト」というタグがついているのです。


初めて「あなたがわたしを選んだのではありません」と書かれている聖書箇所を読んだとき、変だなあと思いました。
たくさんある宗教の中からわたしがキリスト教を選んだのに……と思ったのです。
でも、そうではありませんでした。

広い世界の中で、神様はわたしを選び、救い上げてくださいました。罪のためにドロドロに汚れた服を着、世の中に絶望し、あてもなくさまよっていたわたしに光を当ててくださいました。

自分なんか何の価値もないと思っていたわたしに「あなたは高価で尊い」と言ってくださいました。
そして、このままでは魂が滅びてしまうわたしのために、ご自分のひとり子、イエス様のいのちを差し出してくださったのです。

神様は、ドロドロに汚れた服を脱がせ、真っ白な衣を着せてくださいました。だから、わたしの衣には「イエス・キリスト」のタグがついています。


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何をして待つ?

2017-09-23 16:18:45 | 聖書から
一昨日は久々の家庭集会でした。教会の和室に8人の方が集まりました。
久しぶりだったので、まずは近況報告。そのあとで聖書から学びました。

わたしたちは、待たされることが多いと思います。病気が治るのを待つ。苦難が過ぎ去るのを待つ。誰かが来てくれるのを待つ。助けを待つ。主を待つ。

待つことの意味と、待っている時にすべきことを教えていただきました。

旧約聖書のイザヤ書40:30-31には次のように書かれています。
「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない」


*『たゆむ』とは勢いが弱まるという意味です。

人生の中でいちばん力のある若者。しかし、若者でも倒れることがあります。若者が疲れてしまっても、「主を待ち望む者は力を得」と書かれています。

神様が疲れ果てた者に上から力を与えてくださるので、もういちど新しく力を得ることができます。

それでは、どうすれば神様から力をいただけるでしょうか? 唯一の条件は主を待ち望むことです。
聖書には何か所にも「待ち望め」と書かれています。

待ち望めとは、具体的にどういうことでしょうか。神を信じていても、時として失望することがあります。
自分の祈りは届いているのか? 神様が生きて働いているというのは本当か? など、不安になることがあります。信仰の偉人は、『待つことによってクリスチャンの信仰が成熟していく』と言っています。

パプアニューギニアの牧師先生から聞いた「待つ」(wait)ことの4つのポイントを教えてくださいました。

①W:WORK(働く)
すわって待つのではなく働きながら待つ。自分は何ができるのか考えて、今できることをしながら待つ。奉仕を忠実に行いながら待つことができる。

②A:CARE(世話をする)
周りの人を助けながら待つ。周囲を見回すとCareを必要としている人に出会う。Careしながら待つとき、神様は驚くことをしてくださる。

③I:LISTEN(聞く)聞きながら待つ。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
(へブル4:12)」


聖書のことばは生きています。生きているみことばを聞くことが大切です。みことばは動機の裏に何があるか教えてくれます。

④T:TRUST(信頼する)
信頼とは、より頼むこと。

実現が遅れていても、拒絶にあっても変わることのない神様が、人生に最も良いことをしてくださると信じてより頼むことです。

スポルジョンの言葉
「神は今も、なお必ずあなたを助ける。あなたを助ける神は、すでにあなたのために買って置いたものを与えている。あなたが千倍もの欠乏を感じているとしても、神はそれを与える。しかし、あなたは神が与えようとしているものを遥かに少なく要求している。自分では多く求めているように思っても、与える神にすればなんでもない」


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ひとつひとつの出来事が…

2017-09-22 16:54:25 | 乳癌
昨年から右肩が痛くて日常生活に支障をきたすようになりました。ふつうの肩凝りとはちょっと違うようなので整形外科に行くと、五十肩といわれました。(六十肩ではありません)5か月間リハビリに通いましたが、少ししかよくなりません。

6月末に娘が出産のため実家に戻ってきたので、完全には治っていなかったのですが、リハビリを終わりにしました。医師が腕を持ち、後ろに回しました。かなり痛かったのですが、「痛くありません」と嘘をついて無理やり終わりにしたのです。
 
家で肩こり体操を一生懸命したせいかどうかわかりませんが、その後、肩はどんどんよくなってきました。その代り腰痛、めまい、膝痛など、次々に起こりました。骨量を測ってもらうと、骨粗鬆症と言われました。しかも5段階に分けると、下から2番目に悪いと聞いて驚きました。8年前外科で測定したときは、「骨量は若い人並です」と言われたのに……。

薬を処方され飲み始めましたが、数値はよくならず横ばい状態です。長い期間飲まなくては効果が出ないそうです。
これまでよく骨折しなかったと思いました。また、五十肩になって整形外科に行ったから骨粗鬆症であることがわかって、治療を始められたので助かったのです。骨粗鬆症は症状が現れないので、治療を受けないまま最後の段階までいってしまったら、治る可能性が低いのだそうです。
ひとつひとつの出来事が、主のみ手の中にあって守られていると感じます。

なぜ骨粗鬆症になったのか……と考えていたら、8年前、乳がんの再発転移を抑える薬フェマーラを飲み始めたことを思いだしました。フェマーラを飲む前に同意書にサインをしたのです。この薬を飲むと関節痛が出たり、骨粗鬆症になったりすることがあると説明を受けました。

そのときは骨量が多かったので骨粗鬆症にはならないだろうと勝手に思っていました。むしろ関節痛になったら、ピアノが弾けなくなるかもしれない。PCのキーボードを打てなくなるかもしれないと恐れました。当時、教会学校で奏楽をしていましたので、友人にも祈っていただきました。

5年間フェマーラを飲みました。果たして関節痛は起きませんでした。けれども、いつごろからかわかりませんが、骨粗鬆症になりました。
でも、いまのところ乳がんの再発転移はありません。

膝痛でまた整形外科に通うことになりました。歩き過ぎと言われました。歩くときは8千歩から1万歩ぐらい歩いていると言ったら、多すぎると言われました。一日5千歩でいいのだそうです。健康のために一日一万歩と厚生労働省が大々的に掲げていましたが、いったいなんだったのでしょうか? 整形外科医からみると、一万歩も歩くとかえって健康によくないのだそうです。

 適度なウォーキング、適度な運動とはどれくらいでしょう? 年齢や体力によって人それぞれ違うので、自分にあったものを考えないといけないですね。


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二人称で書く

2017-09-19 16:09:52 | 日本クリスチャン・ペンクラブ
16日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の65周年記念の集会でした。40人の方が参加して、祝福あふれる会になりました。

講師としてお迎えしたF先生の「書くこと、話すこと、伝えること」と題したメッセージの一部を紹介させていただきます。

(先生の言葉は、青字。わたしの感想は茶色。聖書の言葉は緑で書いています。)

マルティン・ブーバーは、その著『出会い』の中で、「問いと答え」と題する非常に印象的な文章を書いています。
1914年の5月、第一次世界大戦がまさに始まろうとしていた時、友人の老牧師ヘヒラーから、「愛する友よ、われわれはある重大な時代に生きています。どうか言って下さい。あなたは神を信じますか?」と、彼は尋ねられました。
駅に老牧師を送って行く途中、暗い路地の角でのことでした。ブーバーは、ヘヒラーを安心させようと思って、「このことについて、私のことを心配される必要はありません」と答えて、彼を駅に送り列車に乗せました。
ところが、帰りにその角まで来た時、ブーバーは正しい答えを見出すまでは一歩も進むまいと決心して、長いことそこに立ち止まっていた、と記しています。

そしてブーバーの到達した答えは、「もし、神を信ずるということが、第三人称で語ることを意味するならば、私は神を信じていない。もし、神を信ずるということが、彼に向かって語りうることを意味するならば、私は神を信じている。
すなわち信仰は、三人称ではなく、二人称……あなたとわたしの関係で向かい合う世界だと、ブーバーは語っています。


「Aさんは、敬虔なクリスチャンです。」
「Bさんは、すばらしい賜物を持っていてたくさん奉仕しています。」
「Cさんは心からイエス様を信じています」
と書いただけでは、人を感動させることができません。

「あなたはどうなのですか?」「あなたはどのようにイエス様を信じているのですか?」
と問われたように思いました。

聖書にはイエス様が弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?」と問いかけ、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。(マタイ16:16)」と答えてイエス様に褒められたということが書かれています。





最後にあかし文章を書く者たちへの勧めをしてくださいました。


何を書くか、何を伝えるかが大切です。あかしの文章を書き、それを人に伝えるには、自分の言葉でほんとうに信じていることを書くことです。真実を追求し、美しい日本語で書くことです。聖書の言葉を現代生きている人にわかるように書くことです。言葉は人を変えるのです。 

JCPのHP更新しました。ここをクリックしてご覧ください。


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言葉の力

2017-09-15 16:44:16 | 聖書から
わたしが語った言葉に励まされたと言ってくれる人もいれば、わたしの言葉に腹が立ったとか傷ついたと言ってくる人がいます。
言葉を放った本人は、相手がどう受け取ったのかも気づかずに、何を語ったかさえ忘れていることがあります。


先日は、言葉について考えさせられました。
水曜礼拝では、十戒の学びをしています。
十戒とはイスラエルの民に授かった神様からの律法で、十の戒めです。

9番目に「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と書かれています
それは、言葉によるものを戒めています。
聖書における偽りの証言とは、人が言葉によって犯す、すべての罪を示しているのだそうです。

言葉によって犯す罪と聞いてドキッとしました。わたしは今までどれだけ言葉で罪を犯してきたでしょうか。
もしかしたら、何十年も前に放ったわたしの言葉に、今でも苦しんでいる人がいるかもしれません。

20年近く前ですが、「あなたの言葉に傷ついた」と言われたときは、ひどく落ち込み、もう人を傷つけることがないように、ずっと沈黙していようと思ったほどでした。

でも、そのように言ってくる人はまれで、わたしに傷つけられても黙っている人が多いのだと思います。逆にわたしも人の言葉に傷つけられました。でも、それはほとんど忘れてしまいました。

人を傷つけないためになるたけ言葉を発しないというのは、極端な思いですね。それは神様を喜ばせることではありません。


人は本来、神様を賛美し、祝福となるように言葉が与えられたのです。

箴言には「穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌は魂の破滅。(箴言15:4)」と書かれています。この聖書箇所では、言葉と舌は同義語とみなします。

舌はいのちにもなり、魂を破滅させるものにもなります。
『舌は剣より多くの人を殺す』とも言われています。

わたしは、いまだに恐れています。わたしの言葉が誰かを傷つけないかと。

『言葉による罪を犯さないようにするには、言葉の本来の目的の通りに言葉を使うことです』と牧師先生が言われました。

言葉は本来、神様を賛美し、祝福するものです。神様をほめたたえ、神様を証しするために言葉を使えば、人を傷つけることがないでしょう。

「ですからあなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。(エペソ4:25)」

教会で一緒に長い間奉仕していた方が入院しています。脳梗塞のため言葉が出なくなってしまったと聞きました。声は出るのに言葉にならないそうです。言葉で伝えたいと思っても伝えられないもどかしさを感じておられるでしょう。言葉が戻るように祈ります。

言葉が与えられていることを感謝して、語れるうちに語り、書けるうちに書いていきたいです。
『ペンは剣よりも強し』ですから。



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ひとりの人を

2017-09-12 15:26:37 | 教会
先日の日曜日は、横浜からK先生が来られてメッセージしてくださいました。
K先生とはお目にかったことはなかったのですが、K先生の教会の執事のIさんを知っていたので、K先生が来られると聞いて驚きました。もしかしたら先生と共にIさんも来られるかもしれないと思って、お会い出来たら本を差し上げようと、クリスチャン・ペンクラブで出版した「山川草木」を持って出かけました。朝3回礼拝があり、わたしはTEENS奉仕をしているので、いつものように第1礼拝に出ました。
第1礼拝で紹介された新来者の中にIさんの名はありませんでした。

K先生のメッセージが心に響いてきました。
イエス様が最後の晩餐の日、弟子たちの足を洗ったことは知っていました。
でも、イエス様がどのような気持ちで洗われたのか深く考えていませんでした。



その時は、イエス様がもうすぐ十字架につけられるという時でした。愛する弟子たちと食事をしながら(最後の晩餐)、イエス様は弟子たちに愛を残ることなく示されました。
悪魔はすでにイスカリオテのユダの心に働いていました。イエス様はそのことを知っておられました。
夕食のあと、イエス様は弟子たちがびっくりするようなことをなさいました。立ち上がって、たらいと手ぬぐいを用意し、弟子たちの足を洗い始めたのです。当時、足を洗うことは奴隷の仕事でした。それなのに黙々と弟子たちの足を洗うイエス様の姿を見て、ペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言います。

イエス様はなぜ弟子たちの足を洗ったのでしょう……。人に仕えることが大切だと、行動を持って弟子たちに教えたのです。
イエス様はしもべとしての生涯、謙遜の生涯を歩まれました。

Ⅰヨハネ3:18には次のように書かれています。
「子どもたちよ、わたしたちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」
口先で『愛する』と言うだけで、実践が伴わなければならないことを教えられました。

能力、才能のある人が用いられることがありますが、私たちは仕える者として召されています。わたしたちは、弱い者ですが、弱さの中にこそ、主が力を与えてくださいます。

わたしたちは、地上にいる間は、完全に聖(きよ)いわけではありません。足は汚れているのです。イエス様に洗ってもらわなくてはなりません。でも、イエス様がペテロに言ったように、足以外は汚れていないのです。それは、わたしたちは赦された罪人だからです。

わたしたちは、弱さを持っていますが、弱さを知って、互いに足を洗いあうとき、キリストの愛により、互いにに結び合わされるのです。
イエス様は、弟子たちの足を洗うことで、模範を示されたのです。

認知症らしき高齢者の方が迷子になっていたとき、教会に連れてきてもらい、最後までめんどうをみたという話を聞いて、イエス様は、ひとりの人をどこまでも大切になさって、愛を示されておられたことを思い起こしました。へりくだってキリストの愛を示すこと、これが神様がわたしに求めておられることなのだと示されました。

午後に教会全体の修養会がありました。修養会の場であかしをしてくださった方がおられました。その方がIさんでした。お目にかかるのは10年ぶりぐらいです。
休憩時間にご挨拶すると、「土筆文香さん」と呼んでくださり、わたしのこと覚えていてくださいました。感激の再会でした。



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「走れ、走って逃げろ」を読んで

2017-09-09 16:12:43 | 読書
先日、児童文学者協会茨城支部の集まりがありました。茨城支部では毎回課題本を読んで、感想を分かち合っています。

今回は「走れ、走って逃げろ」ウーリー・オルレブ作 母袋夏生訳 岩波少年文庫でした。わたしの感想文を紹介させていただきます。

第二次世界大戦下、ナチスドイツ占領下のポーランド。8歳のユダヤ人の少年スルリックは、ゲットー(強制居住区)のなかで家族とはぐれてしまい、一人で壁の外へ脱出します。
執拗に追いかけてくるドイツ兵から逃れ、働く場所を転々と移り、つかまりそうになると森へ逃げていました。森には恐ろしい獣や毒蛇などいたことでしょうが、スルリックは恐れることなく木の枝の上で眠るのです。そのたくましさに圧倒されます。

貧しい人の家に行けば助けてもらえると聞いて、お金持ちでなく貧しい家を訪れます。
特別親切にしてくれたおばさんは、スルリックに誰かに尋ねられた時の答えを教えてくれます。ユダヤ人であることがわかると殺されてしまうからです。

スルリックは名前を変え、逃亡生活を送るうちに、自分の本当の名前を忘れてしまいます。
後に父親と再会を果たしますが、そのときが父親との別れになりました。

父親は「自分の名前を捨てろ。記憶から消すんだ。だが、全部忘れても、父さんや母さんを忘れても、自分がユダヤ人だということは決して忘れちゃいかんぞ。」
と言いました。アイデンティティーを確立するように言ったのでしょう。

父親はスルリックを逃がすためにおとりとなって殺されました。

読んでいてスルリックを応援したくてたまらない気持ちになりました。

スルリックが歯車に巻き込まれて腕を失ったことはショックでした。ユダヤ人だからといって診察してもらえず、病院の廊下に放っておかれ、壊疽を起こして切断となってしまったこと。腕を失っても、片腕でできることを自分で考え、生きることに必死になる少年の姿に涙しました。

これは本当にあった話で、大人になったスルリックから聞いた話をもとにして書かれた小説です。情景描写が少なく、心理描写も少なく淡々と書かれています。


ホロコーストについて知らない人にはちょっと難しい内容です、中高生向きです。

*アイデンティティーとは、自分が何者か認識することです。



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自分の生まれた日をのろった人

2017-09-06 16:39:42 | ティーンズ
前回の記事に9月1日前後は自殺者が多いと書きましたが、今年も高校生、中学生が自らの命を絶ったニュースが流れてきました。

3日のTEENS礼拝では「いのちはどうして大切なの?」と問いかけがありました。
その後、旧約聖書のヨブ記が紹介されました。

ヨブは神様を信じる正しい人でした。子どもや孫たちに恵まれ、たくさんの財産を持ち、裕福で幸せな生活を送っていました。
ところが、ヨブの息子、娘たちが集まっていると、突然シェバ人が襲ってきて若い人たちが剣で殺されてしまいました。その報告がなされているうちにに天から火が下り、羊と若い者たちが焼き尽くされたという知らせが届きました。その間にカルデヤ人がらくだを奪い、若い者たちを打ち殺したという知らせがありました。その間に大風が吹いてきて家が倒れ、息子娘たちが全員死んでしまうという知らせが届きます。

次から次へと信じられないような災難に見舞われますが、ヨブはそれを聞いて、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1:21)」と言って、神様を恨まず、かえって主をほめたたえています。

その後、ヨブ自身にも禍が降りかかります。ヨブは病気(重い皮膚病)になって、土器のかけらで身をかきながら灰の中に座っていました。
そのとき、ヨブは「自分の生まれた日をのろった」のです。

すべてを失ったのに神を恨むことなかった信仰深いヨブがなぜ? と思いますが、神を呪って当然のような状態です。

生まれなければ、こんなひどい目にあうこともなかったのに……と思ったことでしょう。
ヨブの災難を聞いて慰めに来た三人の友人は、あまりにもひどいヨブの様子をみて、しばらく誰も言葉を発しませんでした。
こんなときは、どんな慰めも励ましもかえって痛みになります。

かゆい、激痛がある、呼吸が苦しいときなどは一刻も早くこの苦しみを取り去ってほしいとしか祈れません。
苦しみは、肉体的苦痛だけではありません。なぜ、自分だけがこのような目にあうのかと精神的苦しみが加わります。

正直に生きていれば、幸せになり、悪いことをしたり欲深い人は不幸せになるという考えを持っている人は現代にもいますが、紀元前1500年頃にもそのように考えていた人たちがいたようです。
慰めるつもりで見舞いに来た友人たちが、ヨブに罪があるからそうなったのだと言い始め、ヨブはそれに答えていくうちに意固地になっていきます。

ここまでは、わたしのヨブ記理解です


以下はメッセージの一部です。
人は自分に与えられているものによって支えられています。それをすべて失ったとき、生きる力が与えられるのでしょうか? 

生まれた日をのろったヨブを他人事のようには思えません。いろいろなことを投げやりになったり、自分の環境をのろったり、自分の容姿がいやだ、もっと能力があったらよかったのにとのろうことがあります。

いのちに対していい加減な気持ちを持っているからのろうのです。
生まれた日をのろうということは、自分なんかいなくてもいい、存在しなくてもいいと思ってしまうことです。
「いのちはあなただけのものです」と言った人がいますが、それは違います。いのちはあなたのものではなく、いのちを与えてくださった神様のものなのです。
いのちを与えることができるのは神様だけです。与えられたいのちを生かしてくださるのは神様です。人間の価値を決定するのは神様です。


簡単に「死にたい」なんて言えないですね。


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今、死にたいと思っている人へ

2017-08-30 15:39:12 | 
18歳以下の子どもの自殺者は、年間300人もいるそうです。
そして9月1日前後に自殺する人が多いのだそうです。
自殺のニュースを見るとわたしは胸が引き裂かれたように痛みます。
わたしも中学生の時、死にたいとずっと思っていたからです。

自殺の原因はひとつではないでしょう。いじめや大人に対する不信感、生きる目的や意味が分からなくて自殺する人もいるでしょう。こんなつらい思いをしてまで、どうして生きなくてはならないのですか? と疑問を抱いている人がいることでしょう。

自分のいのちなのだから自分で自由にしたってかまわないでしょうと思っているかもしれません。でも、死ぬのはちょっと待ってください。
あなたに命を与えた方がいるのです。お母さんのおなかの中にいたときのこと、生まれたときのことを覚えている人はいないと思いますが、胎児のあなたをじっと見て、骨組みを作り、内臓を作り、組み立ててくださった方がいるのです。それは神様です。

聖書には
「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。(詩編139:13)」と書かれています。
偶然生まれたように思う人が多いことでしょう。でも、神様は、あなたという人間をデザインして、個性を持たせ、母親の胎の中で育み、生まれさせてくださったのです。目的を持って、造ってくださったのです。
だから、ひとりひとり顔も性格も違うのです。

人は個性があって当然なのですが、悲しいことに自分と違う性格の人を受け入れられない人がいて、その人がいじめをするのです。
人格を否定するようなひどい言葉を使ったり、暴力を振るったり、大切にしている物を壊したり……。
もし、クラスのみんなから「おまえなんか、いない方がいい」と存在を否定されても、世界中の人がそう思っているわけではありません。
「みんな言ってる」と言われても、みんなとは誰でしょう?
いないほうがいい人間なんていません。この世界に必要だからあなたが生まれたのです。あなたは、なくてはならない存在なのです。
何もできなくてもいい。あなたの存在そのものが尊いのです。だから、死なないでください。

聖書には「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」と書かれています。わたしとは、神様、あなたとは、これを読んでいるあなたです。

最後に以前書いてブログにも掲載したことのある詩を紹介します。

死なないでください

死なないで下さい
あなたが生まれた時
小さくてたよりない
その体を
そっと包むように抱いてくれた人がいるから


死なないで下さい
あなたがお母さんの
おなかにいる時から
あなたを知り
かたち造ってくれた
お方がいるから


死なないで下さい
すべての道が閉ざされて
何の希望も持てなくても
じっと見ている
お方がいるから


死なないで下さい
心の傷をすべて
涙の数をすべて、
知っていて下さる
お方がいるから


死なないで下さい
いとしいひとり子の命を
あなたのために
ささげてくれた
お方がいるから



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喜び歌いながら

2017-08-29 16:58:09 | 教会
一昨日は年に一度の教会のお祭り、めぐみ祭りが行われました。去年は用事で行けなかったのですが、今年はヒックン、ナルクンとママも一緒に参加しました。ヒックンは何度も参加していますが、3歳のナルクンは初めてです。
色々な方に声をかけられて、恥ずかしそうにしていました。

めぐみ祭りは、礼拝から始まりました。神様を喜ぶ気持ちで賛美し、踊ることの大切さを教えていただきました。
聖書には、捕囚としてバビロンに連れて行かれたイスラエルの民が、シオンに帰ってくるとき、喜び歌ったと書かれています。

「彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。
楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ51:11)」


どんなに悲しいことがあっても、悲しみが喜びに変えられるときが必ずきます。


礼拝の後、やぐらの周りで皆でめぐみ音頭を踊りました。ナルクンは、あきっぽい性格で本を読んであげても最後まで聞かずに走り回るような落ち着きのない子どもです。

でも、めぐみ音頭が気に入ったようで、片方ずつママとわたしが手をつなぐと、うれしそうに踊っていました。
二回目の踊りのとき、牧師のS先生が走って来られ、ナルクンの手を取って踊りだしました。ナルクンは人見知りもせず、きげんよく踊り続け(10分ぐらいでしょうか)、最後まで踊ったのでびっくりしました。


わたしは夢中で写真を撮りました。写っていたのは後姿ばかりでしたが……。

その後、輪投げやヨーヨーつり、ペットボトルボーリングなどでヒックンとナルクンは楽しんでいました。
教会員の人たちが心を込めて用意してくださったたこ焼きやチジミ、おにぎり、フランクフルトなどいただいて帰りました。

今朝、ミサイル発射警報が携帯から鳴り響き、びっくり仰天しました。
ちょうど朝のデボーション(聖書を読み、祈る)をしようとしていたところだったので、
テレビをつけたい気持ちを押さえて、

「神様、ミサイルで亡くなる方や怪我をする人が出ませんように。このことがきっかけで戦争になりませんように。日本を憐れんでください。世界を憐れんでください。北朝鮮の人たちを憐れんでください。北朝鮮に拉致されている人たちを憐れんでください」と何度も繰り返して祈りました。

横田めぐみさんはじめ、拉致されている人が、喜び踊りながら帰国できる日が近づいている気がします。



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「もうダメだ」と言わないで

2017-08-22 16:54:35 | ティーンズ
先週、ソークンは一か月検診を無事クリアして、娘たちは横浜の自宅に帰っていきました。
6月から来ていたので3か月近くいたことになります。夜中に目が覚めると、ソウクンがまだいるような気がします。
疲れましたが、無事役目を果たせてほっとしています。

TEENS礼拝では、職業人シリーズとして、福祉関係で働いているクリスチャンの証しを聞いています。
先日は、ケアマネージャーとして働いておられるOさんのお話でした。一部紹介させていただきます。

風邪をひいて自宅で転倒し、ひとりでトイレに行けなくなってしまった高齢者のFさんの事例が挙げられました。Fさんは「こんな身体になってしまって、もうダメだ」と言ったそうです。
言葉がけ次第で、その後がずいぶん変わることがわかりました。

①「もうダメだなんて言わないでください。大丈夫ですよ」
②「頑張らなくていいのですよ。ゆっくりしてください。今までずっと頑張って来たではありませんか」
③「これまでのようにお仕事ができなくなって、つらいでしょう。それでも、以前のように何か役目を果たしたいとお考えなのでしょう」

①~③、どれもよい言葉がけですね。でも、意欲的になるのは、③のように言われたときだと教えていただいて、確かにそうだと思いました。
Fさんは、「もうダメだ」と絶望しています。①や②のように言われると、治る見込みがないかもしれないと思い、リハビリをしようという意欲がなくなってしまいます。
③のように言われると、ダメじゃないかもしれない。以前と同じようにはできなくても、何か役に立つことができるようになるかもしれないと思うのです。

ここで、ケアマネージャーは方向性を考え、ケアプランをたてたり、トイレに手すりをつけたりします。

新約聖書のエペソ2:10には「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」と書かれています。

わたしもそのうち高齢者と呼ばれるようになります。最近、高齢者の心境がわかってきました。

昨日と今日は同じようですが、だんだんと体のあちこちが痛くなり、頭がぼんやりとし、今まで普通にできていたことができなくなってきます。
あせってもゆっくりとしか行動できず、物忘れをし、人の名前がわからず、言葉が出てこないこともあります。怪我や病気をするとたちまち弱ってしまい、回復が遅れ、自分は「もうダメだ」と思ってしまうことがあるでしょう。

そのような方たちに言いたいです。
あなたは、ダメなんかじゃありません。生きている限り使命があるのです。
60代には60代の、70代には70代の、80代には80代の、90代には90代の使命があるのです。

人は、良いことをするために神様によって造られた作品だからです。もし寝たきりになったとしても、「祈る」という仕事ができるので、使命を果たせます。


カテゴリーに『ティーンズ』を加えました。


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いのちがけの申告

2017-08-16 16:26:31 | 教会
一昨日、友人に暑中お見舞いを出してしまいました。とっくに立秋を過ぎているとも、涼しくなっているとも気づかずに、暑い日が続いていますが、お体に気を付けて……と書きました。

わたしにとっては、暑い夏がずっと続いているのです。毎日2回洗濯機を回し、2回買い物に行き、4~5人分の食事を作り、客人が来れば8人分作り、教会学校キャンプへ行く10歳の孫の送迎をし、赤ん坊をあやす毎日でした。

10歳のヒックンは昨日自宅に帰り、娘一家は娘婿の実家に出かけた(明日にはもどってきますが)ので、今日は初めて涼しさを感じたところです。

13日の敗戦記念礼拝は、ティーインズの子どもたちも大人の礼拝に与かりました。

戦後72年が経ち、戦争を知っている世代が高齢となっています。
学校では戦争について教えますが、どのようなことが行われたのか詳しくは教えません。
日本がインドネシアを支配していた時のこと、中国で大虐殺を行ったこと、韓国を30年以上も支配し、国土、名前、人権、いのちを奪ったことについて、学校ではどれだけ教えているのでしょうか。

礼拝では末永敏事(すえながびんじ)という長崎出身の医師のことが紹介されました。
末永敏事は、当時最先端の結核の研究をしていました。

国家総動員法によって国民徴用令が出されたとき
「反戦主義者であること申し上げます」と宣言して検挙され、行方知れずとなりました。

家族や親戚も末永敏事について知らされなかったのですが、最近調べてみると、地元の新聞に敏事が無教会主義のキリスト教伝道者、内村鑑三の薫陶を受けたこと、長崎医学専門学校(現長崎大医学部)を卒業後、米国に留学し、シカゴ大やシンシナティ大で研究していたことが書かれていたそうです。

敏事は内村鑑三に出会ってクリスチャンになっていたのです。
信仰に基づいて、いのちがけで申告したのですね。


聖書の言葉
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)」



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選択の自由

2017-08-08 16:05:23 | ティーンズ
暑さの中にあって、ソークン(娘の赤ちゃん)は元気です。大きすぎると思った産着が小さく感じられるほどになりました。まだ起きている時間より眠っている時間が長いですが、顔を見ていると、寝ていても起きていても、実に様々な表情をします。しかめつらもすれば、微笑んだり、口をすぼめたり、いきんで真っ赤になったり、くしゃみをしたり……。泣くときは全身で大声を上げます。生命力の強さに圧倒される毎日です。

日曜日にはソークンを見に妹と姪が都内からやってきました。息子一家も来て次々顔を見せたので、ソークンは興奮してその夜はなかなか寝付けなかったそうです。新生児でもわかるのですね。

今日は6日のTEENS(中高生)礼拝のメッセージから考えたことを書かせていただきます。

最初の人間は、アダムとエバです。アダムとエバはお母さんのおなかから生まれたのではなく、神様によって直接造られました。

ふたりは神様と共にエデンの園に住んでいました。神様は、アダムとエバに園の木に実っているどの果物でも食べてよいが、善悪の知識の木から取って食べてはならないと言われました。

アダムとエバがエデンの園で過ごしていた日々がどれくらいの期間だったのかわかりませんが、ありとあらゆる木の実を自由に食べられて、幸せだったのではないでしょうか。
ふたりはいつも神様と一緒で、隠しごともなく、どんな小さなことでも神様に話していたのだと思います。
「今日の夕食は何を食べたらよいでしょう。バナナですか? ブドウですか?」
と尋ねたかもしれません。

でも、神様はどの果物を食べたらよいか指定しませんでした。自分たちで選ぶようにされたのです。

神様のみこころに従って生きたいと願うとき、選択肢があるとどれを選んだらよいか迷います。神様がはっきり示してくださればよいのにと思います。
聖書を読んで、あるいは祈っていて示されることもありますが、わからないときの方が多いです。
そんなとき、神様が「何を食べてもよいのです。善悪の知識の木の実以外は」とアダムとエバに言ったことを思い出すようにと教えられました。

神様は人間をロボットのようになってほしいとは思っておられません。何から何まで命じてその通りにさせようとするのではなく、選択の自由を与えてくださっています。

自由があるからこそ、個性を生かすことができるのです。
神様が悲しまれるような道を選んでしまって、罪を犯してしまうこともあります。でも、罪を犯したからといってそれで終わりではありません。

エバは蛇にそそのかされて、唯一食べることを禁止されている木の実を食べてしまいます。そして、アダムにも食べるようにすすめ、アダムも食べてしまいます。その直後、ふたりは神様から身を隠します。

神様に見つけられたとき、ふたりは自分以外のもののせいにしてあやまりませんでした。それでエデンの園から追い出されてしまいました。神様はどれだけ心痛めたことでしょう。
神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せてくれます。
それは、後にキリストによって人類を救うことを表しているのだそうです。
神様は罰を与えるとともに、人類の救済計画をこのときから考えてくださっていたのだと思うと、心が震えます。

人生は選択の連続だと言われているそうですが、選択をするとき迷います。間違ったらどうしよう。この道を進んだら大変なことになってしまうかもしれない。
決断力のないわたしは、どうしよう、どうしよう……と思ってばかりでした。

けれども、神様が禁止されている道でなければ、どれを選んでもよいのだと気づかされました。

聖書には次のように書かれています。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」

どの道を選んでも、神様は益としてくださいます。益となったことがずっと後になってわかることもあります。だから、恐れずに選んでいきたいです。



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