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扶養能力あっても断種は必要なのか 「福祉の父」63年前の疑問!

2019-03-14 11:25:27 | Weblog
扶養能力あっても断種は必要なのか 「福祉の父」63年前の疑問

近江学園の生徒や保母らと写真に収まる糸賀一雄(中央)=1951年4月、遺族提供
近江学園の生徒や保母らと写真に収まる糸賀一雄(中央)=1951年4月、遺族提供
 「障害者福祉の父」と呼ばれ、戦後、滋賀県に知的障害児施設などを創設した糸賀一雄(1914~68年)。その後半生は、優生保護法(48~96年)による強制不妊手術が行われた時期に重なる。福祉の巨人は、障害のある人たちへの断種にどう向き合ったのか。

 63年前の機関誌に糸賀の言葉が記録されていた。知的障害者の親たちでつくる「全国手をつなぐ育成会連合会」(大津市)の前身団体が発行した「手をつなぐ親たち」。旧厚生省と文部省の監修を受けた、親を教育する「指導誌」だった。

 56年7、9月号に東京・銀座で開いた座談会「精薄児と性の問題」の発言録が載っている。精神薄弱は知的障害の当時の呼称だ。糸賀や東京大の教授、小児科医、国の官僚ら13人が参加した。

 発言録によると、医師や大学教授、官僚が強制不妊を肯定していた。「(知的障害が)遺伝的なものなら子供は生まれてほしくない」。子を養育できないとも決めつけて、障害者同士の結婚には不妊手術が前提との意見が相次いだ。

 ■「手一つ握らない清純な恋愛」

 糸賀は、自身の施設を退園したカップルが「手一つ握らない清純な恋愛」を続けていると紹介。「これは断種して結婚させるか、それともそのまま結婚させるかどういうものでしょう」と周囲に聞く。

 「断種でしょう」と医師に即答されると、「扶養能力があってもですか。…社会に出しても私たちのアドバイスで立派にやれるだろうと思う」と抵抗しているように見える。

 恋愛とセックスを求める自然な感情を尊重する考えも語った。「この子供たちは…永遠に結婚することはできないのかということです。あるいは性の本能を満足させることは許されないのか、という問題です」

 糸賀はこの時42歳。発言録から、強制不妊への明確な賛否は読み取れない。65年の著書「この子らを世の光に 近江学園二十年の願い」には座談会を振り返って「本質的に性の問題の悩みは精神薄弱であろうとなかろうと、おなじである」とあった。

 家族や同僚に何か語り残していなかっただろうか。関係者を探した。

 湖南市の山沿いの集落に小迫弘義さん(88)が住んでいた。糸賀のおいで、46年に大津市に設立された知的障害児や戦災孤児の施設の近江学園で15歳から働いた。広島県の生家が空襲で焼かれ、戦後、学園内にあった糸賀宅に身を寄せた。

 「糸賀は信念の人。他人に気を使って、言いたいことを飲み込むことはなかった」。周囲の圧力に押されて声を潜めた可能性は低いと推測した。

 学園では職員同士が朝礼後、さまざまな議論を交わすのが日常だった。小迫さんが10代の頃、優生保護法も議題になったと記憶している。自身は参加しなかったが「手術をするべきか否か、激しい議論をしたと耳にした。職員にも賛否両論があったようだ」。

 おじから、強制不妊手術への見解を聞いた覚えはない。「どんな考えだったのか。反対であってほしいです」。小迫さんはつぶやき、窓の外の冬空に視線を向けた。

 ■「これはひどい話だ」

 忙しい時でも夜には布団で添い寝をして、本を読んでくれる優しい父親だった。だが、あの日は言葉に怒気を含んでいたと記憶している。

 「これはひどい話だ」。糸賀一雄の長女、山下牧子さん(79)=京都市左京区=は幼少期、自宅で父が母にこぼす声を聞いた。

 「良い家のお嬢さん」が知的障害児施設の近江学園(当時は大津市)に入ってきた。親の意向で不妊手術をした後だった。クリスチャンの糸賀は「神様に許されることではない」と嘆いていたという。

 現在の近江学園(湖南市)を訪ねた。1949~70年に活動報告としての年報を12回発行していた。65年3月の第11号をめくっていた時、「優生」の文言を見つけた。

 同年までに学園の退園者14人から寄せられた結婚の事例を、5ページにわたり紹介していた。31歳女性は「優生手術をして子供ができないことで夫婦ゲンカになった」。24歳女性は「結婚してホヤホヤ。相手は就職先の息子で精神薄弱(知的障害の当時の呼称)。本人承認の上で優生手術を受けている」。

 学園の考えを記した文章の一つに、目が留まった。

 「優生手術には慎重でありたい。この人たちの結婚問題に対する受けとめをする構えをわれわれは用意しておかねばならない」

 年報の編集者は糸賀だった。講演中に倒れて急逝する3年前のことだ。60年代は滋賀県内で150件もの強制不妊手術が行われた時代。障害児施設として、異例の意見表明だったのかもしれない。

 約40年間、近江学園で働いた守山市の90代男性は、糸賀が「雲の上の存在」だったと語る。顔を合わせるのは年に1回程度で、職員向けにまれに開かれる糸賀の「園長講座」は貴重な場だった。

 優生保護法の強制不妊や中絶に触れた機会があり、糸賀は「人間の知恵で、人間に手を加えて、人間を否定するような立場や、考え方には賛成できない」と発言したという。

 だが「糸賀イズム」が福祉現場に浸透していたかどうか、男性には疑問もあるという。

 50年代後半に学園系列のある施設に移り、引き継ぎを受けた。前任職員は10代の男児2人を指さして「あの子とあの子は、そうだから」。断種した、という意味だった―。手術をしないと彼らの人生に不具合が起きる、と平然とした口調で説明された。

 「手術を受けた子は元気や男らしさがない」。滋賀県内外の知的障害児施設の職員が集まる会議で、感じたままを発言した。すると岡山県内の施設の医師が怒り出した。「ありえない! 体の一部に手を入れても、人間の性格が変わったり病気がちになることはない。君が間違っている」

 素朴な疑問は全否定された。障害児福祉の一線で、断種を容認する空気感があった。

 「糸賀先生の理想が現場にきちんと伝わっていたかといえば、現実はそうじゃなかったのかもしれない」。男性は目をつぶり、かみしめるように打ち明けた。

 ◇

 連載<隠れた刃 証言・優生保護法> 国が「不良な子孫」と決めつけ、不妊手術や中絶を強いた法律があった。71年前、優生保護法は民主的手続きを経て成立、23年前に改正され強制不妊の規定がなくなっても、苦しみ、もがき、沈黙するしかない人たちが、今もいる。「優生」の意識は、私たちの心の中に「刃(やいば)」のように潜んでいるのではないか。教訓を未来への道しるべとするために、時代の証言を探した。

【 2019年03月13日 17時31分 】
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