アブソリュート・エゴ・レビュー

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ハッピーエンド

2018-10-08 23:42:34 | 映画
『ハッピーエンド』 ミヒャエル・ハネケ   ☆☆☆☆☆

 ハネケ監督の新作を、日本版ブルーレイで鑑賞。いやー面白かった。大傑作。ひとつひとつのシークエンスがいちいち独創的で、かつ美しい。といってもこれは心温まる映画などではまったくなく、辛辣かつブラックな、小説でいえばイアン・マキューアン・タイプの作品である。いわゆるハートウォーミングの対極にある映画だと思っていれば間違いない。

 フランスはカレーに住む、ある裕福な一家の物語。多くの使用人を使い、豪邸に三世代が同居している。ある日この家に、離婚した元妻に引き取られていた長男の娘が引っ越してくる。母親がドラッグ中毒で入院したため(その後死亡)だが、実は母親に薬を持ったのはこの少女である。それを知らない周囲は少女に気を遣い、さかんに慰めようとする中で、少女は父親が不倫していることを知る。折も折、一家が経営する会社の工事現場で事故があって、長女とその息子が後始末に奔走するが、息子が被害者家族に暴行されるという事件が起きる。さらに、杖がないと歩けない祖父が夜中に車で抜け出し、故意に木に突っ込んで病院に担ぎ込まれる。

 要するに、この優雅な豪邸に住むセレブ一家にはろくな人間がいない。祖父は自殺マニア、父親は不倫する変態セックス・マニア、いとこは能無し。少女自身も母親やクラスメートに平然と毒を盛る恐るべき子供である。とんでもなくブラックな映画であることが分かっていただけると思う。

 ただし、これは決して風刺ではない。ブラック・コメディではあるかも知れないが、たとえば金持ちを攻撃したり批判したりというメッセージではなく、その笑いのセンスはきわめて微妙だ。ハネケ監督はこれらの人々を嘲笑するのではなく、もしかしたら同情し、共感さえしているかも知れない。従って映画はつかみどころがなく、観客は不安になり、宙づりにされた気分になる。風刺でないとしたら、一体この異様なエピソードの連鎖は何を言わんとしているのか。

 受け取り方はもちろん観客それぞれの自由だが、これはいわば私たちが暮らすこの世界の在り方についてのコメントであり、注釈であり、世界を映し出す鏡ではないだろうか。そうだとすれば、それはどのような種類のコメントなのか。それを考える時には、おそらくジョルジュが少女に話す、鳥が小鳥をズタズタにしたという話が参考になる。ジョルジュは言う、もしテレビでこれを見れば当然のことだと思えるだろうが、現実に起きると私たちは震えを止めることができない。

 つまりこれは、世界の不条理と残酷なメカニズムに関するステートメントなのだと考えられる。ただしハネケ監督はそれをおどろおどろしく沈鬱に、ではなく、淡々と晴れやかに呈示する。ここにはいかなる感傷も、情緒的な付け足しもない。

 この映画の場面場面の展開や構成を見ていると、ハネケ監督は他の多くの映画監督たちとは根本的に異なる文法で映画を撮っている、という感じが強くする。彼はストーリーを説明しない。常に放り出されたような断片だけを見せていく。直接話法ではなく、徹底して間接話法だけを使う。だから観客は常に、彼が何を見せて何を見せていないかを意識せざるを得ない。点と点をつなぐ作業を強いられるわけだが、その見せない部分、つまり物語の端折り方が実にスマートだ。

 たとえばこの映画では、ジョルジュの自動車事故、アンの息子の出社拒否と精神治療、少女の自殺未遂など、物語上重要なエピソードはことごとく画面の外で起きる。観客は現場に立ち会うことはできず、後で誰かの会話によって知らされるだけだ。にもかかわらず、それらの事件の切実さはまったく損なわれない。観客はドキドキしながらことのなりゆきを見守ることになる。

 それにしても、この映像の力強さはどうだろう。淡々として誇張や押しつけがましさがまったくない撮り方ながら、冒頭の建設現場の事故シーンから目が釘付けになる。あれは一体どうやって撮ったのだろう。そのあっけらかんとした撮り方は、観るに値するものを画面に映せばそれだけでいいんだよと言っているかのようだ。こうした突き放したようなクールな態度が、この映画の最初から最後まで一貫して維持される。アンの息子が暴行を受ける場面や少女が病院に母親を見舞いに行く場面など、カメラがずっとズームアウトしているせいで登場人物の表情すらよく見えない。

 そしてこの異常な物語は、海辺のレストランでの陽光溢れる美しいラストシーンに辿り着くが、あのラストの思い切りの良さと切れ味には驚いた。車椅子に座ったまま胸まで海につかったジョルジュ、それをスマホで撮影する少女、あわてて駆けていくアンとトマ。このアクションの対比の見事さには感嘆するしかない。不可解かつ不気味でありながら、オフビートでおかしい。このラストシーンは、一貫してナンセンスな晴れやかさを感じさせるこの映画全体の完璧な要約のようだ。

 ところで、ジャン・ルイ・トランティニャン演じるジョルジュは、ハネケ監督の前作『アムール』に登場したあのジョルジュなのだろうか。名前と俳優が同じであることに加えて、映画の中でもそれを暗示するようなセリフがある。娘をイザベル・ユペールが演じているのも同じだ。但し娘の名前は違う。ということはやはり別人かも知れない。ただいずれにしろ、本作のジョルジュが『アムール』のジョルジュのドッペルゲンガーであることは間違いないだろう。



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