『Amour』 Michael Haneke監督 ☆☆☆☆☆
2012年のパルムドールを獲ったミヒャエル・ハネケ監督の「アムール」を、先日リンカーン・センター・シネマで観てきた。
これは広義の「難病もの」と言っていいだろう。ある日突然妻が発症し、半身麻痺となる。最初は意識はしっかりしているが、だんだん朦朧としていき、やがて話すことすらできなくなる。夫は妻を自宅で看病する。病名ははっきり出てこなかったと思うが、おそらく脳腫瘍系の病気だ。この夫婦は高齢者で、そういう意味で真の問題は病気というより老いであるとも言え、つまりこれは多くの人々を待ち受ける運命、誰にとっても他人事ではない運命なのかも知れない。その点がいわゆる「難病もの」と違うかも知れないが、ある日発病し、支え支えられながら生きるために闘う、という基本構造は同じだ。私は前『ツレがうつになりまして。』のレビューで、この感動はいわゆる「闘病もの」+「夫婦愛」のパターンからはみ出すものではない、ジャンル内映画だ、みたいなことを書いたが、そう書きながら、「しかしこのパターンの映画はどうしてもそうならざるを得ないだろうな」とも考えていた。大体同じような話の展開になるし、セリフも役者の芝居も似てくる、それはいかんともしがたいことだろう、と。
ところがこの映画は、そんな私の固定観念をこっぱ微塵に打ち砕いた。打ち砕き、粉砕し、破片はバキューム・クリーナーで宇宙の彼方へ吹き飛ばされた。これは私がこれまで観た他の「難病もの」とはまったく違う。これには驚いた。やはり、才能ある映画監督の手にかかれば不可能はないのだ。ハネケ監督の『アムール』はジャンル内映画ではないし、素晴らしい映画という以外のあらゆるレッテルを拒否する作品である。
が、何も奇抜な工夫が凝らされているわけではない。物語の展開はいわゆる「難病もの」とそう違わない。高齢の、二人きりで暮らす夫婦がいる。二人は長い年月をともにしながら、今でも愛し合っている。ある日、妻の様子がおかしくなる。会話の途中で動きが止まり、何も反応しなくなってしまう、まるでフリーズしたロボットのように。数分後、彼女はまた元通りになるが、何も覚えていない。妻は病院に行くことを嫌がるが、やがて発作が起き、半身が麻痺する。病院で診断を受け、自宅療養が始まる。夫は妻を支え、日々の面倒を見る。かつての教え子が訪問してくる(二人はピアノの教師なのだ)。遠くに住む娘がやってくる。ふたたび発作が起き、妻は寝たきりになる。もはや何を喋っているのか分からない。それでも夫は妻に話しかける。看護婦を雇い、クビにする。そんな生活の果てに、夫はある決心をする…。
何より印象的なのは、非常に淡々とした、このクールなカメラである。カメラは終始、冷静かつ容赦ない視線を夫婦に投げかけ続ける。決して感傷的にならないし、決して迷わない。何を映すべきで何を映さないべきか、完璧な確信が画面全体を支配している。「こういう時は普通こうだろう」みたいな常套が一切ない。だからなんてことない演奏会の観客席を長いこと映したかと思うと、会話の途中でブツッと切れたりする。父親と娘の会話の途中で、父親が娘に問いを発したあと娘の回答もなく場面が変わってしまうけれども、あの場面で映画は実のところ、娘にではなく観客に問いかけている。編集が私たちにそう感じさせる。
病院のシーンがないし、医者も出てこない。普通はこういう映画に欠かせないと思える、医者の告知場面がないのである。場面が変わると、もう夫は病気のことを知っている。それからプロットの上では決定的に重要であるはずの、二度目の発作の場面もない。このように、この映画ではあれこれのポイントとなる場面がきわめて大胆に省略されている。なぜか。監督の興味がそこにないからだ。これは妻が病気になるという不幸を現実味たっぷりに描き、それでもって観客を泣かせてやろう、という映画ではないのだ。監督は自分のテーマを知っており、その重要さを確信しており、だからどの場面でもそこから一ミリも意識がぶれない。この映画を観ているとそのことが淡々と、当然のことのように画面から伝わってくる。
そしてもう一つ、この手の映画としてはほとんど信じがたいことに、夫が泣く場面がない。夫ジョルジュを演じるジャン=ルイ・トランティニャンが涙する場面がないのである。ということは、いわゆる愁嘆場がない。映画の中で泣くのは夫婦の娘だけだ。しかもこの娘は多分に感傷的な人物として描かれており、主観をまじえないクールなカメラを通しているものの、微妙にアイロニックな描き方をされている。彼女は母がかわいそうだといって理不尽に父を責め(「もっといい方法があるはずだわ!」)、感情的に振舞う。そして、誰よりも辛いはずの父は、それをむしろ冷静にさとす。
ジャンル映画としての「難病もの」に登場するのは、通常この娘に近いキャラクターである。彼らは感極まって泣き、笑い、時には罵倒し合い、和解しあう。しかしこの映画の中心人物である夫婦、ジョルジュとアンはそういう振舞いから遠く隔たっている。にもかかわらず、この二人の苦悩と痛みは非常にリアルに私たちに伝わってくる。それはそうした感情を、俳優がセリフとして口にしたり激情的に振舞ったりすることでではなく、映画を観ている私たち自身に想像させることによって、はるかにデリケートに達成される。ハネケ監督が何かを見せたり見せなかったりすることで観客の想像力を刺激する時、その距離感の正確さは見事の一言に尽きる。優れた映画監督の才能とは、観客を信頼する才能のことなのだ。
このように、この映画からはさまざまなものが省かれている。涙、愁嘆場、感傷、医者、病院、詳しい病状、詳しい経緯。そしておそらくもっとも重要な、そして大胆な省略は、最後、ジョルジュがある行為に至る直接の動機だろう。あの行為は通常の「難病もの」映画では受け入れがたいだろうし、観客の中にもさまざまな葛藤を呼び起こすに違いない。「なぜ?」と誰もが思い、説明が欲しくなる。もちろんそれまでの経緯から大体は分かるが、しかし彼にそうさせたものが結局何だったのか、彼はそれをどういう風にして自分の中で決着させたのか、それをはっきり教えて欲しい。そうやって安心させて欲しい、私たちを不安の中に置き去りにしないで欲しい、と観客は思う。しかしこの映画はそれすら説明しない。すべては私たちの想像に委ねられている。
そういう部分も含め、この映画はミステリアスな終わり方、あるいは一種幻想的な終わり方をする。いってみれば、ジョルジュが以前のアンの姿を幻視するのだが、私の場合、「あれあれ?」と思っているうちに終わってしまい、なるほどそういう意味だったのか、と後で納得した。だから泣かずにすんだ。しかしもう一度観た時、あの場面で涙腺が決壊しない自信がない。もう、まったくない。
この映画のことを思い返す時、私がまず思い浮かべるのはアンを見ているジョルジュの顔だ。映画の中で、ジョルジュは常にアンを見ている。アンが異常を見せた時の驚きと心配の表情、アンが「こんな風に生きていたくない」と告げた時の悲しげな表情、何か用はないかとさりげなく尋ねる時の表情、あるいは何も言わずただ自分の伴侶を見つめる表情。それからまた何気ないディテール、ピアノの音、微笑み、何十年も連れ添ったアンにジョルジュがかける言葉、「今日の君はとてもきれいだったよ」……
本作が挑発的な作品であるということに、おそらく誰も異論はないだろう。この映画を観て人はいろんなことを考えさせられるに違いない、老いという問題、病気という問題、介護の問題、医療の問題、そして尊厳死の問題。しかし実はこの映画が本当に言いたいのはそういうことではなく、映画全体を貫くテーマ、ハネケ監督がその重要性を確信しているテーマはただ一つしかないように思われる。それは最初から私たちの前に明示されている、きわめて直裁に、この映画のシンプルきわまりないタイトルとして。色々なことを考えさせられたあげく私たちは気づくだろう、これは結局のところ「愛」についての映画なのであり、それ以外の何物でもない、ということに。
2012年のパルムドールを獲ったミヒャエル・ハネケ監督の「アムール」を、先日リンカーン・センター・シネマで観てきた。
これは広義の「難病もの」と言っていいだろう。ある日突然妻が発症し、半身麻痺となる。最初は意識はしっかりしているが、だんだん朦朧としていき、やがて話すことすらできなくなる。夫は妻を自宅で看病する。病名ははっきり出てこなかったと思うが、おそらく脳腫瘍系の病気だ。この夫婦は高齢者で、そういう意味で真の問題は病気というより老いであるとも言え、つまりこれは多くの人々を待ち受ける運命、誰にとっても他人事ではない運命なのかも知れない。その点がいわゆる「難病もの」と違うかも知れないが、ある日発病し、支え支えられながら生きるために闘う、という基本構造は同じだ。私は前『ツレがうつになりまして。』のレビューで、この感動はいわゆる「闘病もの」+「夫婦愛」のパターンからはみ出すものではない、ジャンル内映画だ、みたいなことを書いたが、そう書きながら、「しかしこのパターンの映画はどうしてもそうならざるを得ないだろうな」とも考えていた。大体同じような話の展開になるし、セリフも役者の芝居も似てくる、それはいかんともしがたいことだろう、と。
ところがこの映画は、そんな私の固定観念をこっぱ微塵に打ち砕いた。打ち砕き、粉砕し、破片はバキューム・クリーナーで宇宙の彼方へ吹き飛ばされた。これは私がこれまで観た他の「難病もの」とはまったく違う。これには驚いた。やはり、才能ある映画監督の手にかかれば不可能はないのだ。ハネケ監督の『アムール』はジャンル内映画ではないし、素晴らしい映画という以外のあらゆるレッテルを拒否する作品である。
が、何も奇抜な工夫が凝らされているわけではない。物語の展開はいわゆる「難病もの」とそう違わない。高齢の、二人きりで暮らす夫婦がいる。二人は長い年月をともにしながら、今でも愛し合っている。ある日、妻の様子がおかしくなる。会話の途中で動きが止まり、何も反応しなくなってしまう、まるでフリーズしたロボットのように。数分後、彼女はまた元通りになるが、何も覚えていない。妻は病院に行くことを嫌がるが、やがて発作が起き、半身が麻痺する。病院で診断を受け、自宅療養が始まる。夫は妻を支え、日々の面倒を見る。かつての教え子が訪問してくる(二人はピアノの教師なのだ)。遠くに住む娘がやってくる。ふたたび発作が起き、妻は寝たきりになる。もはや何を喋っているのか分からない。それでも夫は妻に話しかける。看護婦を雇い、クビにする。そんな生活の果てに、夫はある決心をする…。
何より印象的なのは、非常に淡々とした、このクールなカメラである。カメラは終始、冷静かつ容赦ない視線を夫婦に投げかけ続ける。決して感傷的にならないし、決して迷わない。何を映すべきで何を映さないべきか、完璧な確信が画面全体を支配している。「こういう時は普通こうだろう」みたいな常套が一切ない。だからなんてことない演奏会の観客席を長いこと映したかと思うと、会話の途中でブツッと切れたりする。父親と娘の会話の途中で、父親が娘に問いを発したあと娘の回答もなく場面が変わってしまうけれども、あの場面で映画は実のところ、娘にではなく観客に問いかけている。編集が私たちにそう感じさせる。
病院のシーンがないし、医者も出てこない。普通はこういう映画に欠かせないと思える、医者の告知場面がないのである。場面が変わると、もう夫は病気のことを知っている。それからプロットの上では決定的に重要であるはずの、二度目の発作の場面もない。このように、この映画ではあれこれのポイントとなる場面がきわめて大胆に省略されている。なぜか。監督の興味がそこにないからだ。これは妻が病気になるという不幸を現実味たっぷりに描き、それでもって観客を泣かせてやろう、という映画ではないのだ。監督は自分のテーマを知っており、その重要さを確信しており、だからどの場面でもそこから一ミリも意識がぶれない。この映画を観ているとそのことが淡々と、当然のことのように画面から伝わってくる。
そしてもう一つ、この手の映画としてはほとんど信じがたいことに、夫が泣く場面がない。夫ジョルジュを演じるジャン=ルイ・トランティニャンが涙する場面がないのである。ということは、いわゆる愁嘆場がない。映画の中で泣くのは夫婦の娘だけだ。しかもこの娘は多分に感傷的な人物として描かれており、主観をまじえないクールなカメラを通しているものの、微妙にアイロニックな描き方をされている。彼女は母がかわいそうだといって理不尽に父を責め(「もっといい方法があるはずだわ!」)、感情的に振舞う。そして、誰よりも辛いはずの父は、それをむしろ冷静にさとす。
ジャンル映画としての「難病もの」に登場するのは、通常この娘に近いキャラクターである。彼らは感極まって泣き、笑い、時には罵倒し合い、和解しあう。しかしこの映画の中心人物である夫婦、ジョルジュとアンはそういう振舞いから遠く隔たっている。にもかかわらず、この二人の苦悩と痛みは非常にリアルに私たちに伝わってくる。それはそうした感情を、俳優がセリフとして口にしたり激情的に振舞ったりすることでではなく、映画を観ている私たち自身に想像させることによって、はるかにデリケートに達成される。ハネケ監督が何かを見せたり見せなかったりすることで観客の想像力を刺激する時、その距離感の正確さは見事の一言に尽きる。優れた映画監督の才能とは、観客を信頼する才能のことなのだ。
このように、この映画からはさまざまなものが省かれている。涙、愁嘆場、感傷、医者、病院、詳しい病状、詳しい経緯。そしておそらくもっとも重要な、そして大胆な省略は、最後、ジョルジュがある行為に至る直接の動機だろう。あの行為は通常の「難病もの」映画では受け入れがたいだろうし、観客の中にもさまざまな葛藤を呼び起こすに違いない。「なぜ?」と誰もが思い、説明が欲しくなる。もちろんそれまでの経緯から大体は分かるが、しかし彼にそうさせたものが結局何だったのか、彼はそれをどういう風にして自分の中で決着させたのか、それをはっきり教えて欲しい。そうやって安心させて欲しい、私たちを不安の中に置き去りにしないで欲しい、と観客は思う。しかしこの映画はそれすら説明しない。すべては私たちの想像に委ねられている。
そういう部分も含め、この映画はミステリアスな終わり方、あるいは一種幻想的な終わり方をする。いってみれば、ジョルジュが以前のアンの姿を幻視するのだが、私の場合、「あれあれ?」と思っているうちに終わってしまい、なるほどそういう意味だったのか、と後で納得した。だから泣かずにすんだ。しかしもう一度観た時、あの場面で涙腺が決壊しない自信がない。もう、まったくない。
この映画のことを思い返す時、私がまず思い浮かべるのはアンを見ているジョルジュの顔だ。映画の中で、ジョルジュは常にアンを見ている。アンが異常を見せた時の驚きと心配の表情、アンが「こんな風に生きていたくない」と告げた時の悲しげな表情、何か用はないかとさりげなく尋ねる時の表情、あるいは何も言わずただ自分の伴侶を見つめる表情。それからまた何気ないディテール、ピアノの音、微笑み、何十年も連れ添ったアンにジョルジュがかける言葉、「今日の君はとてもきれいだったよ」……
本作が挑発的な作品であるということに、おそらく誰も異論はないだろう。この映画を観て人はいろんなことを考えさせられるに違いない、老いという問題、病気という問題、介護の問題、医療の問題、そして尊厳死の問題。しかし実はこの映画が本当に言いたいのはそういうことではなく、映画全体を貫くテーマ、ハネケ監督がその重要性を確信しているテーマはただ一つしかないように思われる。それは最初から私たちの前に明示されている、きわめて直裁に、この映画のシンプルきわまりないタイトルとして。色々なことを考えさせられたあげく私たちは気づくだろう、これは結局のところ「愛」についての映画なのであり、それ以外の何物でもない、ということに。
・・・カンヌ映画祭パルムドール(最高賞)?
あ た り 前 じゃん?
これがパルムドールじゃないなら何がパルムドールなんだよ?・・・と半ば逆ギレ気味に言ってみる。(誰に?)
はい、名作です。決定。終わり。
以下、個人的涙目ポイントだけ。
第一波はアンヌ(フランス式でお送りします)が失禁してしまい強くプライドを傷付けられて嗚咽を漏らすシーン。これはダメだ。気高い心を持った老女がいたたまれず泣く、というのがもはや忍びない。本当に悲しくなってしまう。
第二波は寝たきりになり、まともな会話が出来なくなった上に癇の強くなったアンヌが食事を受け付けなくなるシーン。
アンヌにどうにか水を飲ませようとする夫が最後は無理に口をこじ開けて水を含ませるがプッと吐き出してしまう。その瞬間、それまで愛情込めて介護していた夫ジョルジュが思わず手を上げてしまう。
「・・・すまなかった。許してくれ」
・・・・誰も悪くないのがつらく、悲しい。
そして・・・・爺さん、そのタイミング!?・・・うん、でもあれがベスト(?)タイミングかもしれない。
ラストの処理がこの上なく優しい。心を打ちのめす作品だがあれで少し気持ちが軽くなる。「そんなに不幸な人生じゃなかったよ」と
言ってくれてるような感じ。
・・・とりあえず言いたいのはこの映画の脚本を思いついたとしても日本では絶対に、
絶 対 に!映画化されないと断言できること。
まずこういう映画を作れる監督がいない。(周防監督の名前が挙がるかもしれないけど、これ観ちゃったら格が二段も三段も落ちると言わざるを得ない。悪いけどセンスが違う。)
そしてこれを作ろうという映画会社も存在しない。絶対に!!(日本には映画文化は存在しないと思う)
こんな素晴らしい映画を作ってくれたミヒャエル・ハネケ監督万歳!!
日本映画界クソ食らえ!!!!
・・・・ふう。取り乱してスイマセン。
どうでもいいけど大箱の映画館でかかる予告の日本映画ってどうしてあんなダサいのかねえ・・・
でも言うほど「挑発的な」映画ではないと思うんですよ。老老介護の末に・・・っていうのはむしろ僕らがよく聞く「ありふれた(即ち普遍的な)」題材ではないでしょうか?それをありのまま、むき出しに描いたのが「挑発」の意味なのか・・・?
これが「挑発」なら現実世界そのものが僕らを「挑発」しているのであって、この映画が、ではないでしょう。
話は変わって上映前にウディ・アレンの新作の予告があってペネロペ・クルスがえっちいねえちゃんの役を演じていてめちゃくちゃ面白そうでした。
ウディお得意の気弱そうな男がパーティの席上、前の女に刺されそうになり、今の彼女を盾にするのがやたらおかしく、(本編はお通夜みたいだったけど)そこだけ笑いが起きてました。
絶対観に行こっと。
多分僕があんまり映画を観ない人間なので、おっしゃられる難病「もの」みたいな映画リテラシーが無い為の齟齬かもしれません。
少なくとも僕は「むしろよくある」ストーリーと受け取ったので。非常に優れた映画だけど内容だけあらすじにしてみると全然「ユニーク」ではない(それ故、普遍的)映画だと思ったんですが。
(そしてそういう内容だけ見ると全然ユニークではないストーリーをベースにしながら、俳優の演技と演出でここまで濃密な空間を作り出すというのはハネケ凄いな、と。)
観るのがつらいという人もいるようですが、これは観る価値がある映画だと思いますよ。
>青達さん
かりにストーリーがユニークでないとしても、映画は充分ユニークで挑発的だと思いましたが、無論意見を押し付けるつもりはありません。