『イワン・イリッチの死』 トルストイ ☆☆☆☆☆
トルストイの中篇を岩波文庫で読了。これは『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』よりあとの作品だが、大傑作『アンナ・カレーニナ』を書き上げたあと人生の無意味や迫り来る死の不安によって深刻な精神的危機に見舞われたトルストイは、10年近く創作の筆を折ってしまった。そしてさまざまな葛藤や新たな信仰の力でようやくそれを乗り越え、再び筆を取り、書かれた小説がこの『イワン・イリッチの死』である。
ではその『イワン・イリッチの死』とはどういう物語なのか。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』とは似ても似つかない、単純きわまりない話である。一人の官吏が死ぬ、ただそれだけだ。主人公のイワン・イリッチは判事で、上流階級の人間ではあるがごく普通、取り立てて英雄的でもなくとりたてて高潔でもなく、アンドレイやピエールやレーヴィンのように哲学的な思索をめぐらす人間でもない、要するに私やあなたと同じような、ごくごく普通の人間である。そのごく普通の人間イワン・イリッチが死ぬ。死にあたってたとえば黒澤の『生きる』のように、突然死に物狂いになって何かを成し遂げる、ということもない。死を悟った時にはすべてが手遅れなのだ。彼はただ怯え、絶望に苦しみ、恐怖と格闘しながら死に向かっていかねばならない。これがごく普通の、当たり前の死なのだ。私やあなたが、あるいは私やあなたの家族が、いつか必ずたどり着かねばならない死というものなのである。トルストイはただそれを書いた。虚飾を剥ぎ取って、正面から、淡々と。
非常にシンプルながら、巧みな構成である。最初はイワン・イリッチの死の直後、官吏仲間の描写から始まる。彼らはイワン・イリッチが死んだという話をする。そしてそのためにどういう人事異動があるのか、それが自分にどう影響するのかを考える。そしてすぐに、他の日常的なあれこれに考えを移していく。本気で驚いたり、悲しんだりする人間はいない。ありふれた光景。これが私たちが知っている死の姿だ。つまり、他人の死。毎日テレビやニュースでごまんと目にするもの。
次に物語はイワン・イリッチの人生を簡潔に描写していく。才気あふれる、人好きのする若者だったこと。がんばって勉強したこと。力を持った、上流階級の人々に憧れたこと。結婚し、子供が生まれ、家を買い、順調に出世したこと。真面目一方でもなく、適当に遊びも知っていて、人付き合いもうまい。何も特別なことはない。私たちは身の回りにこういう人々を大勢知っている。とはいえ、イワン・イリッチは成功者と言っていいだろう。判事である。安定した地位、恵まれた俸給、家を買い、恥ずかしくない家具を揃えることができる。ちょっとした人生の困難も経験する。仕事を正当に評価してもらえないという不満を持ち、色々手を打って乗り越える。役所では尊敬され、人々が羨む目で彼を見る。自分の権力と地位を感じ、しみじみと深い満足を覚える。
ここで描かれるイワン・イリッチの人生の普遍性は驚くべきもので、現代の日本人が考える「勝ち組」人生と寸分の違いもない。判事を他の地位、たとえば大企業の役員、銀行頭取、ベンチャー企業社長、あるいは芸能人、政治家、大学教授などと置き換えてみればいい。金持ちになり、地位と名誉を得、人々に羨まれる。望ましい相手と結婚し、家を持ち、子供に恵まれる。適当に息抜きもする。19世紀にロシアで書かれた小説が、21世紀の日本人にもぴったり当てはまってしまう。人生の本質とは不変であることが分かる。
やがて、ふとしたことで病気になる。最初は気にしていないが、だんだん深刻になる。寝込む。心配する。そして、自分は死ぬのはないか、と考え始める。
冒頭に描かれた「他人の死」ではなく、ここからトルストイはイワン・イリッチの内面に入り込み、「自分の死」を描いていく。小説の魔法がそれを可能にするのである。読者はここでついに「自分の死」と対面する。あんなにもありふれた死というものが、人間の人生に何をもたらすのか、トルストイは克明に描き出していく。
私たちが理想的な死について考える時、それはたとえば、自分の成し遂げた仕事やこれまでの人生、愛にめぐまれ、家族と友人にめぐまれた人生に満足し、「わが人生の悔いなし」と感じながら従容として受け入れる、というようなものではないだろうか。イワン・イリッチはまぎれもない「勝ち組」だ。彼の素晴らしき「勝ち組」人生は死の苦痛を和らげただろうか。
とんでもない。何の慰めにもならないのである。これっぽっちも役に立たない。それどころか、自分は何をあんなに嬉しがっていたのか、という暗い絶望がやってくる。すべてが空虚で、虚飾でしかなかったことが判明する。最初は、いやいやそんなことはない、そんなはずはないと自分に言い聞かせる。しかしやがて避けがたい真実を知る。自分の人生は偽りだった。やり直すにはもう手遅れだ。家族も慰めにならない。死にゆく人間は死者の側にいて、家族は生者の側にいる。死は孤独だ。
では、死を克服するよすがとなるものは本当に何もないのか。ここでイワン・イリッチはあることに気づく(読んでいて、私が一番興味深いと思ったのはここだ)。仕事のこと、人々から尊敬されたこと、自分の地位と名誉のことを考えても何の慰めにもならない。それがかつては、もっとも深い喜びの源泉であったにもかからわずだ。しかし子供の頃のことを思い出すと、そこには痛みを和らげる何かがある。それは人生の時間軸を進んでいくとともに薄れていくが、学生時代にはまだところどころにある。その後はダメ、仕事を始めてからは特にダメだ。仕事をし、出世する過程には、もう何もない。
その何かとはつまり、真の幸福である。イワン・イリッチは卒然として気づく。自分は長い時間をかけて、人生の坂をだんだんと上ってきたつもりだった。ところが実は坂のてっぺんにいたのは子供の時で、そのあとはずっと下ってきたのだと。
ばかばかしい、そんなのはトルストイの妄想だと、あなたはそう言いきれるだろうか。先ほど私たちは、この作品が持つ驚くべき普遍性を確認したばかりだ。トルストイがここで言っているのは、ごく簡単なことである。死の苦しみをわずかにでも和らげることができるのは真の幸福だけ、そして真の幸福とは、虚栄や見栄とはまったく関係がない。つまり、他人に羨まれること、他人を支配できること、権力、名誉、豪華な邸宅、贅沢な生活、こうした「勝ち組」人生を形作るすべての要素は、実のところ幸福とは何の関係もない虚飾なのである。
では、真の幸福はなぜ子供の頃の記憶に多く見出されるのだろうか。考えてみれば当たり前で、子供には見栄や世間体がない。ただ自分の心が本当に望むものを追い求める。イワン・イリッチを看病する人々の中で、飾り気のない純朴な下男と、幼い息子の正直な態度だけが彼の苦しみを慰めることができる。逆に妻や成人した娘、友人たちの欺瞞は耐え難い苦痛をもたらす。
この点については、イワン・イリッチより恵まれている人もいるだろうと思う。余談だが、日本でホスピス関係の仕事をしている人から間接的に聞いた話がある。その人は、死を待つだけの患者さんに対して、生前に遺産分けをしてはいけないとアドバイスしているそうだ。それをすると子供達がもう見舞いに来なくなるというのだ。信じられない話だが、実際にそういう例があるらしい。
それからまた、こんな話も思い出す。がんセンターで働く看護婦さんから聞いた話だ。末期がんの告知をされた時の患者さんの反応はさまざまだが、意外だったのが、高い地位につき、金と名誉に恵まれた人の方が取り乱し、精神的にぼろぼろになってしまうことが多い。そしてむしろ自営業とか職人さんとかラーメン屋さんとか、地位や名誉と縁のないような人の方が、「自分の人生に悔いはありません」と穏やかでいられる例が多い、というのである。どこまで本当か分からない。看護婦さんの脚色が入っているのかも知れない。が、この『イワン・イリッチの死』を読んで、そんなことも思い出した。
さて、イワン・イリッチは結局どのように死ぬのか。最後の最後に何が起きるのか。それを書いてしまうとネタバレだと怒られそうなのでここには書かない。あれはフィクションなのか、それともそこに真実があるのか。私には分かりません。自分の死を迎える時にその答えを発見したい。
トルストイの中篇を岩波文庫で読了。これは『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』よりあとの作品だが、大傑作『アンナ・カレーニナ』を書き上げたあと人生の無意味や迫り来る死の不安によって深刻な精神的危機に見舞われたトルストイは、10年近く創作の筆を折ってしまった。そしてさまざまな葛藤や新たな信仰の力でようやくそれを乗り越え、再び筆を取り、書かれた小説がこの『イワン・イリッチの死』である。
ではその『イワン・イリッチの死』とはどういう物語なのか。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』とは似ても似つかない、単純きわまりない話である。一人の官吏が死ぬ、ただそれだけだ。主人公のイワン・イリッチは判事で、上流階級の人間ではあるがごく普通、取り立てて英雄的でもなくとりたてて高潔でもなく、アンドレイやピエールやレーヴィンのように哲学的な思索をめぐらす人間でもない、要するに私やあなたと同じような、ごくごく普通の人間である。そのごく普通の人間イワン・イリッチが死ぬ。死にあたってたとえば黒澤の『生きる』のように、突然死に物狂いになって何かを成し遂げる、ということもない。死を悟った時にはすべてが手遅れなのだ。彼はただ怯え、絶望に苦しみ、恐怖と格闘しながら死に向かっていかねばならない。これがごく普通の、当たり前の死なのだ。私やあなたが、あるいは私やあなたの家族が、いつか必ずたどり着かねばならない死というものなのである。トルストイはただそれを書いた。虚飾を剥ぎ取って、正面から、淡々と。
非常にシンプルながら、巧みな構成である。最初はイワン・イリッチの死の直後、官吏仲間の描写から始まる。彼らはイワン・イリッチが死んだという話をする。そしてそのためにどういう人事異動があるのか、それが自分にどう影響するのかを考える。そしてすぐに、他の日常的なあれこれに考えを移していく。本気で驚いたり、悲しんだりする人間はいない。ありふれた光景。これが私たちが知っている死の姿だ。つまり、他人の死。毎日テレビやニュースでごまんと目にするもの。
次に物語はイワン・イリッチの人生を簡潔に描写していく。才気あふれる、人好きのする若者だったこと。がんばって勉強したこと。力を持った、上流階級の人々に憧れたこと。結婚し、子供が生まれ、家を買い、順調に出世したこと。真面目一方でもなく、適当に遊びも知っていて、人付き合いもうまい。何も特別なことはない。私たちは身の回りにこういう人々を大勢知っている。とはいえ、イワン・イリッチは成功者と言っていいだろう。判事である。安定した地位、恵まれた俸給、家を買い、恥ずかしくない家具を揃えることができる。ちょっとした人生の困難も経験する。仕事を正当に評価してもらえないという不満を持ち、色々手を打って乗り越える。役所では尊敬され、人々が羨む目で彼を見る。自分の権力と地位を感じ、しみじみと深い満足を覚える。
ここで描かれるイワン・イリッチの人生の普遍性は驚くべきもので、現代の日本人が考える「勝ち組」人生と寸分の違いもない。判事を他の地位、たとえば大企業の役員、銀行頭取、ベンチャー企業社長、あるいは芸能人、政治家、大学教授などと置き換えてみればいい。金持ちになり、地位と名誉を得、人々に羨まれる。望ましい相手と結婚し、家を持ち、子供に恵まれる。適当に息抜きもする。19世紀にロシアで書かれた小説が、21世紀の日本人にもぴったり当てはまってしまう。人生の本質とは不変であることが分かる。
やがて、ふとしたことで病気になる。最初は気にしていないが、だんだん深刻になる。寝込む。心配する。そして、自分は死ぬのはないか、と考え始める。
冒頭に描かれた「他人の死」ではなく、ここからトルストイはイワン・イリッチの内面に入り込み、「自分の死」を描いていく。小説の魔法がそれを可能にするのである。読者はここでついに「自分の死」と対面する。あんなにもありふれた死というものが、人間の人生に何をもたらすのか、トルストイは克明に描き出していく。
私たちが理想的な死について考える時、それはたとえば、自分の成し遂げた仕事やこれまでの人生、愛にめぐまれ、家族と友人にめぐまれた人生に満足し、「わが人生の悔いなし」と感じながら従容として受け入れる、というようなものではないだろうか。イワン・イリッチはまぎれもない「勝ち組」だ。彼の素晴らしき「勝ち組」人生は死の苦痛を和らげただろうか。
とんでもない。何の慰めにもならないのである。これっぽっちも役に立たない。それどころか、自分は何をあんなに嬉しがっていたのか、という暗い絶望がやってくる。すべてが空虚で、虚飾でしかなかったことが判明する。最初は、いやいやそんなことはない、そんなはずはないと自分に言い聞かせる。しかしやがて避けがたい真実を知る。自分の人生は偽りだった。やり直すにはもう手遅れだ。家族も慰めにならない。死にゆく人間は死者の側にいて、家族は生者の側にいる。死は孤独だ。
では、死を克服するよすがとなるものは本当に何もないのか。ここでイワン・イリッチはあることに気づく(読んでいて、私が一番興味深いと思ったのはここだ)。仕事のこと、人々から尊敬されたこと、自分の地位と名誉のことを考えても何の慰めにもならない。それがかつては、もっとも深い喜びの源泉であったにもかからわずだ。しかし子供の頃のことを思い出すと、そこには痛みを和らげる何かがある。それは人生の時間軸を進んでいくとともに薄れていくが、学生時代にはまだところどころにある。その後はダメ、仕事を始めてからは特にダメだ。仕事をし、出世する過程には、もう何もない。
その何かとはつまり、真の幸福である。イワン・イリッチは卒然として気づく。自分は長い時間をかけて、人生の坂をだんだんと上ってきたつもりだった。ところが実は坂のてっぺんにいたのは子供の時で、そのあとはずっと下ってきたのだと。
ばかばかしい、そんなのはトルストイの妄想だと、あなたはそう言いきれるだろうか。先ほど私たちは、この作品が持つ驚くべき普遍性を確認したばかりだ。トルストイがここで言っているのは、ごく簡単なことである。死の苦しみをわずかにでも和らげることができるのは真の幸福だけ、そして真の幸福とは、虚栄や見栄とはまったく関係がない。つまり、他人に羨まれること、他人を支配できること、権力、名誉、豪華な邸宅、贅沢な生活、こうした「勝ち組」人生を形作るすべての要素は、実のところ幸福とは何の関係もない虚飾なのである。
では、真の幸福はなぜ子供の頃の記憶に多く見出されるのだろうか。考えてみれば当たり前で、子供には見栄や世間体がない。ただ自分の心が本当に望むものを追い求める。イワン・イリッチを看病する人々の中で、飾り気のない純朴な下男と、幼い息子の正直な態度だけが彼の苦しみを慰めることができる。逆に妻や成人した娘、友人たちの欺瞞は耐え難い苦痛をもたらす。
この点については、イワン・イリッチより恵まれている人もいるだろうと思う。余談だが、日本でホスピス関係の仕事をしている人から間接的に聞いた話がある。その人は、死を待つだけの患者さんに対して、生前に遺産分けをしてはいけないとアドバイスしているそうだ。それをすると子供達がもう見舞いに来なくなるというのだ。信じられない話だが、実際にそういう例があるらしい。
それからまた、こんな話も思い出す。がんセンターで働く看護婦さんから聞いた話だ。末期がんの告知をされた時の患者さんの反応はさまざまだが、意外だったのが、高い地位につき、金と名誉に恵まれた人の方が取り乱し、精神的にぼろぼろになってしまうことが多い。そしてむしろ自営業とか職人さんとかラーメン屋さんとか、地位や名誉と縁のないような人の方が、「自分の人生に悔いはありません」と穏やかでいられる例が多い、というのである。どこまで本当か分からない。看護婦さんの脚色が入っているのかも知れない。が、この『イワン・イリッチの死』を読んで、そんなことも思い出した。
さて、イワン・イリッチは結局どのように死ぬのか。最後の最後に何が起きるのか。それを書いてしまうとネタバレだと怒られそうなのでここには書かない。あれはフィクションなのか、それともそこに真実があるのか。私には分かりません。自分の死を迎える時にその答えを発見したい。
その他にも面白そうな本が沢山紹介していましたので参考にさせて下さい。
色々な制度や風習によって守られていた中世的人間よりも裸の近代的人間の脆さが描かれていて、イワン・イリッチの死に向かっていく姿に共感を覚えない人はいないのではないのでしょうか。
トルストイも影響を受けたナポレオン戦争以降の人間の姿をトルストイの冴え渡る筆で描いた傑作だと思います。