アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

生は彼方に

2012-09-09 13:06:22 | 
『生は彼方に』 ミラン・クンデラ   ☆☆☆☆

 ずいぶん久しぶりに再読。本書はミラン・クンデラが『冗談』の後に発表した「作品第二番」であり、『存在の耐えられない軽さ』『不滅』よりも前の小説である。したがってそのスタイルは、メタフィクション性や、エッセーと小説の境界線が溶解した柔構造が特徴の『存在の耐えられない軽さ』『不滅』よりも、もっとトラディショナルな『冗談』に近い。また本書は、クンデラ自身が詩人から小説家へ転向するきっかけとなったと語る「精神的トラウマ」を直接題材にしているという点で、重要な意味を持っている。そのトラウマとはクンデラ自身があちこちのエッセーで語っているが、要するに詩人たち、そしてその作品たる抒情詩が革命と手を握り人々の殺戮を称揚した、というようなことである。

 そのことは本書の中にもはっきり、著者自身の言葉として書かれている。本書のテーマは要するに抒情的なるものへの批判である。それは本書のタイトルがもともと「抒情の時代」となる予定だったということからも明らかだが、ここで「抒情」という言葉について補足すると、私たちが通常使うようなリリカルとかロマンティックとか、詩情溢れるとか、草葉が匂い木漏れ日が揺れるようなニュアンスとはちょっと違い、クンデラのいう「抒情」は、感情や心情の表現ということである。つまり抒情詩とは感情の高まりや心情の吐露を主眼とした詩のことで、感情や心情に最高度の価値を見出す態度のことでもある。要するに、これはクンデラが『不滅』の中で書いているホモ・センチメンタリスと同じ範疇の言葉で、抒情的態度とはホモ・センチメンタリス的態度を意味する。それは知性より感情を重んじることであり、感情に陶酔することであり、感傷に溺れることである。

 クンデラはチェコに革命の嵐が吹き荒れた歴史的時期、共産主義を輝ける「未来」だと信じた詩人たち、芸術家たちがそのヴィジョンに「抒情的に」陶酔し、同化したあげく、大勢の人々が殺されたり生活を奪われたことを正当化したばかりか、むしろ積極的にあとおしし、賛美すらしたことに大きなショックを受けた。革命の残酷さそのものよりも、抒情詩人たちのその態度の方により大きな衝撃を受け、その結果、自分はあらゆる抒情的な誘惑に対して免疫ができたと語っている。そしてそのような抒情的態度と対極にあるものとして「透徹した醒めた視線」を欲し、それを小説の中に見つけたとしている。これをもってクンデラは抒情詩人であることをやめ、小説家となった。

 クンデラが革命の際の抒情詩人たちの姿をどこかでこんな風に描いていたのを、私は特に印象的なものとして覚えている(どこでだったかは忘れてしまった)。人々は共産主義の偉大さを理解しないある芸術家を縛り首にした。死体は彼らの頭上でぶらぶら揺れ、それは共産主義の輝かしい未来そのものの象徴となった。だから抒情詩人たちはぶらぶら揺れる死体をうっとりと眺めながら、手をつないで輪になり、声を合わせて歌い、踊った。素晴らしい陶酔がますます人々を一つにした……。

 本書の中で、クンデラは一人の少年詩人の肖像を描き出した。どことなくランボーを思わせるこの少年詩人ヤロミルは、詩の才能はあるかも知れないが心情的にはごく普通の未熟な少年で、母親の干渉にうんざりし、自分の容貌にうんざりし、熱烈にガールフレンドを欲し、女性の前でスマートに振舞えない自分に絶望している。彼は普通の、未熟な少年が望むようなあらゆることを望む。恋人に過剰な貞節を要求する。自分の未熟さを敏感に感知する世界を嫌い、否定する。栄光を求める。自分を特別な人間と考える。恵まれた他人を嫉妬する。そして彼はだんだんと(かつてクンデラが見た抒情詩人たちのように)共産主義革命へと傾倒していくが、それは共産主義を理知的に考察した結果ではなく、まさに日々の鬱屈の数々から、つまり母親にうんざりしているから、ガールフレンド一人作れない自分に嫌気がさしているからである。彼の動機は実のところ、小児性、嫉妬、肥大した自我、あるいは隠された利己主義に他ならない。自分の現状が気に入らない少年は社会が気に入らず、革命を望むようになる。人々の振る舞いの裏にある真の動機は決して口に出されることがない、というのはクンデラが好んで扱うテーマだが、本書でもヤロミルが自分と周囲の人々を騙しつつ革命にのめりこんでいく過程と、その真の動機が、アイロニカルに的確に描き出されていく。

 クンデラはまた、ヤロミルを描く時に数々の実在の詩人たちのエピソードや言葉(伝記の中から、あるいは自筆の手紙の中から)をあれこれと引用して読者の前に並べてみせる。これによって読者は、ヤロミルがただクンデラの空想から生まれたキャラクターではなく、実在した抒情詩人たちの総合であることを知る。

 ヤロミルをはじめとする抒情詩人たちの態度に特徴的なのは、その非寛容である。ヤロミルは自分のガールフレンドが過去に男とつきあったという事実に我慢できない。自分にとっては彼女が最初の女だというのに! こうした非寛容はヤロミルがまだ若く、未熟である証拠であり、ある意味で純粋である証拠だ。純粋と抒情、この二者は最悪の組み合わせである。ミシェル・トゥルニエは『イデーの鏡』の中でこう書いた。「純粋さというデーモンにとりつかれた人間は、そのまわりに死や荒廃をまき散らすのだ。…(中略)…こうした常軌を逸した考え方は、結局のところ、無数の虐殺や不幸に帰着するしかない」

 未熟さの属性としての抒情や純粋は、理想を、つまり絶対を求める。したがって理想的でないものに対して非寛容になる。非寛容は断罪、排斥、攻撃、破壊に結びつく。抒情的であること、純粋であることの危険性はここにある。あなたが誰かを断罪し、排斥し、攻撃したくなった時、もしあなたがそのための素晴らしい大義名分を持っていたならば、実はその時こそもっとも注意が必要である。なぜならば、正義の後ろ盾を持った純粋ほど救いがたく、愚かしいものは何もないからだ。これまで見てきたように、「正義」は往々にして真の動機の隠れ蓑になる。ヤロミルを思い出してみよう。あなたの純粋を、あるいは抒情的な非寛容をもしクンデラが見たならば、彼はそこにヤロミルと同じものを発見しないだろうか。すなわち、小児性、嫉妬、肥大した自我、あるいは隠された利己主義。

 クンデラがこうした抒情的人物と正反対の場所に対置するのは、『別れのワルツ』に登場するスクレタのような人物だろう。彼は医師だが、いい加減で、友人に頼まれれば毒薬を都合してやり、不妊症の治療に自分の精子を使うようなとんでもない人物だ。スクレタは言う。「正義はわたしには関わりがないのです。それはわたしの外と上方にある。いずれにしろ、それは非人間的なものです。わたしはそんな不愉快な権力に決して協力しないでしょう。わたしが認める価値には、何ら正義と共通のものはありません」たとえば何かと聞かれ、彼は答える。「たとえば、友情です」

 本書ではまた、ヤロミルの母親の振る舞いもまた重要なテーマとして扱われている。彼女もまた違う意味で抒情的な人物であり、ヤロミルを愛し、ヤロミルを自分の手元にとどめておきたいがゆえにさまざまな間違いを犯す。ヤロミルは彼女を愛しながらも憎み、その手から逃げ出したいと望む。彼女にまつわるクンデラの考察で特に面白かったのは、過去は時とともにその姿を変えるということだ。これをクンデラは「過去はタフタの服のように、光の具合でその光沢を変える」と表現している。母はヤロミルの絵画教師と一時期不倫の関係になり、夫に罪悪感を感じてやめる。最初、その関係を彼女は一時の気の迷いであり、過ちから逃れた自分を賢いと思う。ところが、やがて夫が不倫していたことが発覚する。すると過去が、タフタの服のように光沢を変える。実はあの関係こそが自分の真実の愛だったのであり、自分はそれをつまらない貞操観念から捨ててしまった、と彼女は考える。そして後悔に苛まれる。

 この件に限らず、ヤロミルも母親も、あるいはヤロミルのガールフレンドも友人たちも、自分の経験や記憶をさまざまに解釈しながら生きている。解釈が変われば世界は変わる。世界も真実も一様ではなく、すべてはせめぎあい、移ろい流れていく。あなたや私の人生も、やはりタフタの服のようなものなのだ。それは光の加減でどのようにでも光沢を変える。光を当てるのは、もちろん私たち自身だ。

 『生は彼方に』は、そんな生の諸相を言葉で捕捉した力業である。クンデラの作品の中では比較的ポエジー控えめ、批評的態度が強く出た小説なので、最初の一冊としては適切でないかも知れないが、ファンならやはり見逃せない作品である。


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