アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

存在の耐えられない軽さ

2007-03-21 19:39:26 | 
『存在の耐えられない軽さ』 ミラン・クンデラ   ☆☆☆☆☆

 クンデラの代表作を再読。昔ハードカバーで持っていたがなくしたので文庫を買った。やはり素晴らしい。なかなか新作が出ないが、もう小説は書かないのだろうか? 大好きな作家なので大変寂しい。

 本書は映画化されたので知っている人も多いだろうが、映画を観てもこの小説の真価はまったく分からないと言っていい。まあそれはどんな映画化作品にも多少は言えることだが、クンデラの場合は意味合いが違う。この人の小説の主要素はストーリーではないのである。では何か? クンデラの小説的思考である。

 小説的思考とはクンデラがエッセーの中で使っている言葉で、抽象的な形而上学的思考や哲学とは異なり、特定の人物の特定の状況の中からのみ生まれてくる思考であり、テーマであり、問いかけということになる。この人はとにかくクラシック音楽、哲学、そしてもちろん文学の素養を満々とたたえた明晰かつ陰影に富んだ思索家、多少快楽主義がかったアイロニーと真摯さに満ちた思想家であって、この「小説的思考」というアイデアだけでもきちんと説明するのは難しいのだが、要するに小説という形をとってしかなし得ない思索、ということだ。基本的にそれは問いかけの形で表現され、絶対的な回答は与えられない。与えられたように見えても、それは特定の人物、特定の状況でのみ有効な回答であって、「相対性のカーニバル」たる小説の中では確信など存在しないということだけが確信される。

 というわけで、本書はニーチェの永劫回帰についてのエッセーから始まる。一度起きたことが無限に繰り返すというこのわけのわからない神話は一体何を言おうとしているのだろうか。永劫回帰が「もっとも重い荷物」と呼ばれるように「重さ」につながるのならば、一度きりの帰ってこない私達の人生は「軽さ」として現れる、というところから、本書最大のテーマである「重さと軽さ」の対立が導かれる。これがメインのテーマだ。果たして重さと軽さでは、どちらが肯定的でどちらが否定的なのだろうか。

 クンデラの小説は実験場に似ている。いくつかの異なるモチーフから生まれた登場人物たちがロンドを繰り広げ、私達はクンデラの明晰な視線をガイドとして彼らのドラマを見守ることになる。トマーシュは「一度は数のうちに入らない」ということわざから生まれ、テレザは「心と身体」の相克から生まれた。テレザはトマーシュのところへやってきて、トマーシュは彼女を受け入れる。チューリッヒでテレザがトマーシュのもとを去った時、トマーシュの頭の中にはベートーベンの「そうでなければならない!」という運命的な旋律が鳴り響き、彼はテレザを追ってプラハに来る。人々は自分の愛を「軽い」ものだとは考えない、それを何かしら運命的な「重い」ものだと考えたがる、トマーシュのように。そしてトマーシュはある時、テレザと自分が会ったのはたまたま上司が病気になり、たまたまトマーシュが代わりに派遣され、たまたまそのホテルにとまり、たままたテレザの働くレストランに入った、という風に六つの「たまたま」が自分達を引き合わせたに過ぎないと悟り、絶望する。ここには「そうでなければならない!」ものなど何も存在しない、「いくらでも違った風であり得た」軽さがあるばかりである。トマーシュはこの愛の軽さに打ちひしがれる。

 しかし、ここでマジカルな価値の反転が起きる。実は必然的なもの、必ず起きることに大した意味はないのである。偶然起きたこと、他のようでもあり得たにもかかわらず起きたことこそ、重要なメッセージとして私達の前に現れるのではないだろうか。私達はあり得ないような偶然の中にこそ、運命的なものを見る。クンデラは書く、「必然性ではなしに、偶然性に不思議な力が満ち満ちているのである。恋が忘れがたいものであるなら、その最初の瞬間から偶然というものが、アッシジのフランチェスコの肩に鳥が飛んでくるように、つぎつぎと舞い下りてこなければならないのである」クンデラの思考がポエジーになる瞬間である。

 本書にはこのような深くて面白くて詩的で、そして感動的な思索がつまっている。重さと軽さの他にも心と身体、人間と動物、大行進、などさまざまなモチーフが現れて小説的思考のシンフォニーを奏でるが、私が個人的にとても感銘を受けたのは「キッチュ」に関する思考である。キッチュ=俗悪なものだが、俗悪とは何だろうか。クンデラはキッチュ=存在との絶対的同意=糞の絶対的否定であるとする。糞、要するにうんこである。これほど分かりやすい定義が他にあるだろうか。つまりその美的な理想は、すべての人がまるで糞など存在しないかのように振舞っている世界であり、キッチュは人間の存在において、受け入れがたいものをすべて除外する。

 本書第三の主人公であるサビナによれば、キッチュはイデオロギーの相違を越えてその背後に存在する悪である。芝生の上で戯れる子供を指差し「これが幸福というものです」と微笑むアメリカ上院議員の微笑みと、共産主義の高官が眼下に行進する市民を見て浮かべる微笑みは同じものなのである。イデオロギーこそ違え、二人は同じキッチュの帝国に住んでいる。そしてクンデラの思索は驚くべき展開を見せる。キッチュは大勢と共有できるものでなければならず、大勢と共有しているという感激こそがキッチュをキッチュたらしめる。つまり、世界の人々の兄弟愛はただキッチュなものの上にのみ形成できることになる!

 なんというシニカルな認識だろうか。しかしクンデラの素晴らしさはシニカルなだけで終わらないことだ。サビナのエピソードの中で「キッチュ」のモチーフはさらにスリリングに掘り下げられるが、クンデラの透徹した視線はサビナの中にも避けがたいキッチュを発見する。「たとえわれわれが出来る限り軽蔑しようとも、キッチュなものは人間の性に属するものなのである」

 終盤、「カレーニンの微笑み」と題された最終章の中でトマーシュとテレザの犬、カレーニンが死ぬ。トマーシュとテレザは村のダンスホールへ踊りに行く。私達はそれまでの物語ですでに、トマーシュとテレザが帰り道にトラック事故で一緒に死ぬことを知っている。そのせいで、この最終章はひときわ哀切でリリカルな調べを奏でる。クンデラの小説の中で、本書はおそらく一番静謐で美しいエンディングを持つ小説だろう。テレザとトマーシュは重さの印の下で死に、サビナは軽さの印の下で死ぬことになると暗示される。重さと軽さ。もっともミステリアスな対立。

 彼の小説的思考のことばかり書いてしまったが、クンデラの小説にはユニークな点が他にもたくさんある。軽々とリアリズムを乗り越えていくようなマジカルな虚構力、きわめて音楽的な構成、エレガンス、上質なユーモア、平気で作者がストーリーに介入すること、そして詩的な比喩に満ちた独特の文体。知的な饗宴、あるいは祝祭と呼ぶにふさわしい小説である。
 


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (青達)
2014-06-22 19:34:54
これ、最近読んだんですけど、訳文酷くないですか?あんまりにあんまりな直訳調文章で僕はイライラしてしまいました。(ですのでego_danceさんの絶賛にいまいち納得できず)グーグルの自動翻訳をそのまま使ったんじゃないかと疑う部分が多々見られます。もうちょっとちゃんとした日本語に翻訳してよお!
返信する
Unknown (ego_dance)
2014-07-01 10:56:15
私は気になりませんでしたが、『不滅』など他の翻訳者のものを読まれましたか? もし同じなら、クンデラの文体かも知れません。
返信する

コメントを投稿