アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

不滅

2009-08-25 20:32:24 | 
『不滅』 ミラン・クンデラ   ☆☆☆☆☆

 クンデラの『不滅』を再読。これは作者自身の定義によれば作品第七番、ということになる(クンデラは音楽家みたいに創作活動の中核をなす作品に作品番号を振っている)。日本では出版が前後しているが、『不滅』は『存在の耐えられない軽さ』の後の作品であり、『存在の耐えられない軽さ』は作品第六番である。この『不滅』の中には、クンデラとアヴェナリウス教授が『存在の耐えなれない軽さ』について話す場面が出てくる。

 今にしても思えば、この『存在の耐えられない軽さ』『不滅』を書いた頃がクンデラの作家としての絶頂期だった。ファンの私としてはそんな風に考えるのは悲しいことだけれども。しかしそんなわけで、本書のあらゆるページに私たちはクンデラ絶頂期のほとばしるエネルギーとオーラを見て取ることができる。帯の前面には「ジョイス、プルーストで幕を開けた二十世紀の文学は、この小説で締めくくられる」と大上段に振りかぶったような文句が書かれていて、まあ売り文句といえばそれまでだが、出版社が本書のクオリティに寄せる絶対的な信頼を感じることができる。また帯の裏には色んな人の賛辞が記載されているが、私はピーター・コンラッドの「この小説は、まさに、打ち続く祝祭、知の饗宴だ」という言葉が本書のイメージをもっともよく表していると思う。

 この小説はストーリーだけ見ると悲劇的なのだが、前述したようにクンデラのエネルギッシュな小説的思考やアクロバティックなメタフィクションの仕掛けが華やかに全体を彩っているせいで、どうしようもなく「祝祭的」な、カーニバル的ムードが漂っているのである。

 前作『存在の耐えられない軽さ』では冒頭にニーチェの永劫回帰についての考察があったものの、読者はわりとすんなりトマーシュとテレザの物語へと導かれていった。それに対して本書ではなかなか物語が始まらない。冒頭からいきなりクンデラ本人が登場し、プールで見かけた老婦人の話をする(ちなみにクンデラ本人の登場も前作よりぐっと多くなっている)。その老婦人の仕草からクンデラはアニェスという名前を思い浮かべ、そしてアニェスが本書の主人公として動き始める。アニェスは既婚者で、ポールという夫、そしてローラという妹がいる。この三人が物語の主要登場人物だが、第一部ではアニェスの日常、死んだ父親との会話の記憶、ポールとの会話、あるいは仕草についてのエッセーなどがバラバラに呈示されるだけで、これからどんなドラマが展開していくのかまだ分からない。ここで退屈してしまう読者もいるかも知れないが、『存在の耐えられない軽さ』がそうだったように、クンデラの小説は話の筋を追うことより「小説的思考」がメインなのであり、そういう意味では前作よりさらにこの手法が徹底されているといえると思う。作者のクンデラが登場して動き回ることでメタフィクション度もさらに上がり、反面ストーリーテリングのウェイトは下がっている。

 というわけで前作『存在の耐えられない軽さ』はストーリーだけを追う読み方でもまだなんとか愉しめたと思うが、本書ではきついだろう。

 第二部に入ると物語はアニェスから離れ、いきなりゲーテとベッティーナの話になる。そして「不滅」という本書の大テーマが姿を表す。ヨーロッパの文学史上名高いゲーテとベッティーナの恋愛物語は、実は「愛」の物語ではなく「不滅」をめぐる闘いの物語だった、とするクンデラの考察が鮮やかに展開していく。このあたりからぐっと面白くなる。そしてその後はゲーテとベッティーナの物語、アニェスとポールとローラの物語、そして天国のゲーテとヘミングウェイの会話などが交錯しながら、融通無碍な小説空間が広がっていく。

 本書でクンデラが扱うテーマは不滅以外にもホモ・センチメンタリス、仕草、エロティシズムにおける曖昧さ、絶対的に現代的であること(ランボーの言葉)、偶然、など多数あるが、私が特に面白かったのはホモ・センチメンタリス、つまり感傷性についての考察だった。クンデラは「感情」に絶対的価値を与える人々、そして感情をひけらかす人々をホモ・センチメンタリスと呼ぶ。これは物語上も重要なテーマで、ローラがホモ・センチメンタリス、主人公のアニェスが反対の価値観を象徴する人物として設定されている。

 これは前作の重要なテーマ「キッチュ」とも関係が深いが、現実の闘いにおいて勝利するのは大抵の場合ホモ・センチメンタリスである。人間の感情はあらゆるものの上位におかれる。理性よりも、倫理よりも上である。傷心のあまり涙を流す人間を非難することは誰にもできない。感情が豊かなあまりに間違った行動を取る人間こそが人間的であるとして擁護され、それを理性的に攻撃する人間は感情の何たるかを知らない、冷たい人間だと非難される。まさにこのようにしてローラは自分の「弱さ」と「感情」を武器に、姉のアニェスに攻撃をしかける。

 また興味深いのは、クンデラがアヴェナリウス教授との会話の中で創作について語っているくだりである。登場人物においては思想や性格よりそのグルント(人間を動かしている根本となる価値観のようなもの)を突き止めなくてはならず、それはメタファーの形で表現される。クンデラはこれを非常に重要な考えと言っているが、かくかくしかじか、という明快な定義では駄目でメタファーでしか表現できない、というあたりがクンデラらしい。
 
 さて、メインのストーリーが悲劇的な結末を迎えた後、本書の真のクライマックスというべき場面が訪れる。作者であるクンデラと作中人物であるポールが小説の中で出会い、会話を交わすのである。それまでクンデラとアヴェナリウス教授がいる虚構のレベル、それからアニェスやポールがいる虚構のレベルはちゃんと分かれていたのだが、ここでいきなり融合する。これと同じ手法を私は筒井康隆の『朝のガスパール』で初めて読んでぶったまげたものだが、この『不滅』の方が先だ。というか、筒井氏は『朝のガスパール』の中でクンデラに言及していたので、この『不滅』からヒントを得たに違いない。

 ストーリーの比重が下がっていること、メタフィクション度が増していること、ゲーテが出てきたり天国が出てきたりと小説世界の自由度がますます上がっていることなどで、『存在の耐えられない軽さ』ほど一般受けはしないだろうし、これが映画化されるなんてことは金輪際ないだろうが、本書がクンデラの最高傑作のひとつであることは間違いない。


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2 コメント

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キターーーー! (ともエ)
2009-09-07 18:29:33
嬉しいですね!
同じ意見です。不滅と存在以降のクンデラは
終わっておりますw

不滅、好きすぎて卒論で取り上げてしまいました。
まあ内容は…壊滅的でしたけど;;

おお、書いてるうちに読み直したくなってきました。影響もたらふく受けた、ほんまに大事なテキストです!
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クンデラ (ego_dance)
2009-09-08 08:36:14
『不滅』で卒論とはすごいですね。どんな内容だったんでしょう。

しかし『存在』『不滅』の頃のクンデラは本当に良かったですねー。読書の快楽とはこのことです。何度読み返しても飽きません。できればもう一度この頃のような小説を書いて欲しいものですが…
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