アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

最後の晩餐

2016-11-11 21:07:12 | 
『最後の晩餐』 開高健   ☆☆☆☆

 開高健の本を読んだのは初めてである。この人は釣りをしたり美食をしたりアマゾンの奥地に旅行したり、ブッキッシュという言葉の対極にある体験型冒険家型の作家というイメージを勝手に持っているが、これもやはり食に関するエッセーである。とはいっても、何がおいしかったとかこんな味だったとかいうありきたりのグルメ紀行文でも薀蓄披露でもなく、「食」というものの根源をゴリゴリ掘り下げていくような、人間の業としての「食」を見据えてやろうというような、気迫と覚悟と知的冒険心に満ちた文章集である。

 だから内容も普段の食というより非日常的な食に関するものが多く、兵隊の食事、王侯貴族の食事からカニバリズムにまで至る。兵隊の食の章では食と同じく糞尿についても扱われるが、これは食のもう一方には糞尿があるという、やはり人間にとっての食の根源に迫ろうとする作者の姿勢によるものだと思われる。それから中盤には作者自身が友人知人と一緒に美食を体験するという趣向のエッセーがいくつか収められているが、これがまた圧巻である。どう圧巻かというと、開高健の注文に応じて食を供する人々の常人離れしたスケール感、食のみならずその生き方や業績や裕福ぶりの凄まじさにあっけにとられる。そしてまた、そういう人々と交遊しつつ知的欲求を貪欲に満たしていく作者のバイタリティにも感心させられる。

 そういう意味で、これはうまいものに関するエッセーといった平和で穏やかなものではなく、食の愉悦、深淵、極北を描きつくそうという壮絶な文章集である、ということは言っておきたい。尚、著者は中華料理が好物らしく中華の話が多いが、本書を読むと、良くも悪くも中国の料理ほど業の深いものはない、ということがよく分かる仕掛けになっている。

 作者が知人友人と実際に食べてみる企画としては、たとえば「食べても食べても食べられる料理」というものがある。これは開高健が「本当にうまい料理というのは食べても食べても腹が窮屈になることなく、いくらでもすーっと食べられるものではないだろうか」と考え、それを有名なシェフに話して実現した企画だそうだが、こんな白昼夢の妄想みたいなアイデアを実現させてしまうのだからすごい。それを受けてたつ料理人もまた料理人だ。そして開高健とその仲間たちは朝、昼、夜とずっとコース料理を食べ続け、そのあとにホテルに戻ってから「うどんか何かを食べたくなったのには驚いた」というから、本当に驚きである。

 玄人はだしの素人料理を食べる企画というものもあり、三人ぐらいの素人料理人の得意料理を食している。ただしこれが本当に玄人はだしであって、出てくるモノはそれぞれ水餃子、アンコウの友和え、チーズケーキ。三人三様の料理へのこだわりも興味深いし、また三人三様の常人ばなれした生活と個性も面白い。開高健のまわりにはなぜこんな異常な人間ばかりいるのだろうか。

 中国の精進料理を食べる企画も面白い。中国の精進料理というのは、肉を一切使わずに肉料理そっくりの味を再現したりするものらしい。日本の精進料理にもそういうものがあると聞いたことはあるが、中国の場合はもっと徹底していて、本当にビフテキとしか思えない野菜料理なんかが出てくるらしい。すごい。子供の頃マンガの『包丁人味平』で、豆腐で作ったステーキを食って減量するボクサーの話が出てきたが、あんなものが本当に存在するとは知らなかった。そして開高健はこの中国の精進料理について、最初から清貧を旨とする日本のそれと違い、肉そのものは放棄しつつその味は諦めず追求してしまう中国の僧のメンタリティの複雑さに思いをめぐらす。

 そして、作者の強烈すぎる交友関係のきわめつけが邸永漢である。この人は作家であり金儲けコンサルタントみたいなことをやってるらしいが、開高健の紹介を読むととんでもない人である。さまざまな事業を手掛けいくつも会社を作っては成功させ、豪邸に住み美食を追求しているという、まるで海原雄山みたいな人である。この人が台湾から連れてきたシェフにやらせている中華レストランの料理を食べる企画、というものについて書かれた章があるが、どうやらこれはもはや天上の料理というべきものらしい。それにしてもこういう経験を書く時の開高健の筆には独特のユーモアがあって愉しい。とんでもないスケールの金持ちや人物について書く時、「グンニャリする」という表現がたびたび出てきて笑える。さすがに、開高健も邸永漢みたいな大富豪の生活ぶりを見るとグンニャリするものらしい。

 そして最後の章では、冒頭から予告されていた通りカニバリズムについて語られる。ここでもメインは中国文化だ。中国では、カニバリズムのことを喫人という。中国には古来より喫人の文化があり、あまり大っぴらに語られることのないその喫人文化について著者はさまざまな文献を引きながら蘊蓄を傾ける。いやーすごい。どうやら中国では、喫人は王侯貴族の贅沢だったらしい。そういう喫人の歴史を詳しく語った後、作者は、これらを踏まえるとアンデス山脈で遭難者が人肉を食ったなんて話はどうってことないと思えてくると書く。しかしこれこそまさに食の極北であり、とてつもなくヘヴィーなテーマでる。もはやグルメエッセーなどとはかけ離れた次元の話であり、本書の最終章を読み終えると、人間の業の深さに打ちのめされた気分になる。もうおなかいっぱいである。
 
 ところで巻末の解説で、角田光代が開高健の食に関する表現のすごさについて語っている。「まったりした」とか「口中に広がる甘み」などというどこかで聞いたようなフレーズを使わずに美味を表現することがいかに難しいかということらしいが、特に開高健のワインについての描写を見事な一例として挙げている。たしかに開高健の文章を読むとそれら美食のすごさが実感として伝わってくるが、よく読むと味そのものの描写、表現はあまりない。その代わり、「歯ぐきにまんべんなくまわし、しみこませて、滴の内奥からやおらあらわれてくる顔をつくづく眺める」のような文章が出てくる。なんだか抽象的な、一種アクロバティックなメタファーだけれども、食べ物のもつ迫力みたいなものが伝わってくる。さすがである。これがコトバのプロとしての作家の凄みなのだろう。



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