アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

Bleu <ブルー>

2005-10-27 08:56:43 | 映画
『Bleu』 Krzysztof Kieslowski監督   ☆☆☆☆☆

 キェシロフスキ監督の『トリコロール三部作』の第1作『Bleu』(英語タイトルは『Blue』)。キェシロフスキ監督は私が最も敬愛する映画監督である。『トリコロール三部作』と『二人のベロニカ』は私にとって映画芸術のエッセンス以外のなにものでもない。

 『トリコロール三部作』は青、白、赤というフランス国旗の三色をモチーフにした三部作で、それぞれの色が意味するところの自由、平等、博愛というテーマが織り込まれている。つまり『Bleu』のテーマは「自由」ということになる。

 ところでこのトリコロール三部作、原題はフランス語でブルー、ブラン、ルージュ、英語ではブルー、ホワイト、レッドだが、邦題は『青の愛』『白の愛』『赤の愛』になっている。勘弁して欲しい。誰がつけたのか知らないが、どうしてこう邦題のセンスは悪いのか。青、白、赤でいいじゃないか。「の愛」なんて余計なものをなぜつける? トリコロール三部作ではそれぞれのタイトルが色の名前のみ、というシンプルさがとっても美しいのに、『青の愛』『白の愛』『赤の愛』じゃそれが台無し、まるでメロドラマ三部作みたいだ。『青』『白』『赤』の方がはるかに良い。
 
 さて、『ブルー』は三部作の中で最も悲哀の色が濃い作品である。沈痛、憂愁、哀愁、喪失感。青という色の持つ情緒からしてこれは必然なのだろう。それからまた、この『ブルー』は他の二作、『ブラン』と『ルージュ』に比べておそらくストーリーの求心力が最も弱い作品である。一種の復讐劇である『ブラン』はプロットが一番派手だし、『ルージュ』は二つの人生の時空を越えた交錯という鮮烈な大仕掛けがある。しかし『ブルー』は交通事故で家族をなくしたジュリーのその後の日々を淡々と描くという、何となく平坦で地味な構成になっている。様々なエピソードが出てくるが、それらは結びつくというよりバラバラに並置されている印象がある。未完成の交響曲についてのプロットがメインになっているが、それにしたって何の結末も迎えないまま映画は終わってしまう。私のアメリカ人の友人は「ポイントレスな映画」という印象を受けたと言っていた。

 実のところ、私も最初にこの映画を観た時はそう思った。『ベロニカ』や『レッド』のような幻想性、神秘性に欠けているのが不満だった。しかしこの映画にもやはりキェシロフスキ特有の神秘の感覚が底に流れている。ただそれがあからさまでなく、とても淡々としているので、観る側が感受性を研ぎ澄ましていないととり逃してしまうのだ。

 本作のテーマは「自由」である。最初観た時はなんでこれが「自由」なのか良く分からなかったが、要するに家族をなくしたジュリーが過去のすべてを捨てて一人で新しく生きていこうとする、それがこの映画が語る「自由」なのだ。
 ジュリーは家を処分し、未完成の交響曲を捨て、夫の友人の愛情にすらケリを付けて誰も知らないアパートで生活を始める。彼女はすべてに無関心で、誰も寄せ付けない。隣人に対して礼儀を気にする必要もなく、そういう意味で彼女は確かに自由だ、束縛はない、しかしその自由は孤独の裏返しでもある。深夜の暴力沙汰におびえ、自分の部屋からロックアウトされても誰も開けてくれる人はいない。ひとり階段で夜を明かすしかない。

 電話をかけてきた少年が言う。「大事なことです」ジュリーが言う。「大事なことなんて何もないわ」

 しかしそうした努力にもかかわらず、過去は次々とジュリーのところへ戻ってくる。捨てた交響曲は楽譜のコピーが取られていたし、愛人は自分を探し当ててやってくるし、残っていた写真のせいで夫の愛人の存在まで知らされてしまう。そしてジュリーは過去に抗うことができない。自ら夫の愛人に会いに行き、戻ってきた恋人の部屋で交響曲を聴くことになる。
 ジュリーはついに過去を拒絶することをやめる。家を売るのを止め、夫の愛人に提供しようとし、未完成だった交響曲の完成に協力の手をさしのべる。彼女はようやくまた生きる元気を取り戻したように見える。しかし彼女の変心は皮肉なしっぺ返しを受ける。家の提供も、交響曲への協力も拒否されてしまうのだ。

 すべてを拒否して得ようとした自由はまた、自分が拒否されるということでもあった。この映画が語る「自由」の味はとても苦い。ジュリーは慰めを求めて、かつて訣別しようとした恋人に愛の言葉を求め、抱かれるために彼に会いに行く。物語はそこで終わる。

 ジュリーは「自由」を求めるが、人生はそれを許さない。運命と言ってもいい。淡々としたこの映画に神秘性を与えるのはその運命の存在である。青い光が音楽とともにジュリーを包むいくつかのシーンは、運命が彼女を過去=思い出=人間の世界へ引き戻そうとしているかのようだ。

 映画のラストシーンで、映画に登場したキャラクター達の姿が順番に映し出される。このラストに『ブルー』の神秘性が最も強く表れている。人間との関わりを拒もうとしたジュリーにかかわった人々それぞれのドラマが暗示され、人間達の結びつき、拒もうとしても拒みきれない人々の運命的な絆が強烈に印象付けられる。

 道端に倒れているフルート吹きに、ジュリーは声をかける。「大丈夫ですか?」「お前はやがて何かにすがりつこうとする」「え?何ですって?」

 このフルート吹きはジュリーが捨てたはずの交響曲を道端で演奏する。確か小説版ではジュリーが捨てた楽譜を拾ったことになっていたと思うが、映画の中ではそういう説明はない。だから何となくこのフルート吹きは超越的な、神性を帯びた存在に思える。

 この映画は生半可なことでは解釈し尽くせない。よく「家族を失った女の再生の物語」みたいな紹介のされ方をしているが、そんなありがちな映画ではないと思う。ジュリーが再生してよかったという映画でもないし、ジュリーが過去から逃れられず不幸になったという映画でもないが、しかしそれらすべての要素を含んでもいる。ものすごく多義的な映画である。ラストシーンでジュリーが流している涙の意味を言葉で説明することは、おそらく誰にもできないと思う。
 
 それからこの映画はまた、晩年のキェシロフスキ作品と切っても切れない関係にあるプレイスネルの音楽を最大限にフィーチャーした作品でもある。キェシロフスキはとうとう彼の音楽を物語の中に取り込んでしまった、しかも最重要要素として。プレイスネルなしではこの映画は作られなかっただろう。
 それからまた音楽の使い方がとても面白い。ジュリーが楽譜をなぞるとそれに合わせて音楽が聴こえる。いつもキェシロフスキの音や映像には遊び心を感じるが、これもなんとも彼らしい優雅な手法だと思う。

 他にも青の色彩の美しさとかジュリーの瞳に映る映像とかまだまだ言いたいことは沢山あるが、長くなったのでやめる。ちなみに、『ベロニカ』の人形遣い役の俳優が不動産エージェントの役でちょろっと出演していたのがなんか嬉しかった。

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