アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

苦い蜜月

2016-11-28 22:56:57 | 
『苦い蜜月』 アルベルト・モラヴィア   ☆☆☆

 先月日本に一時帰国した時にモラヴィアの初期短篇集を古本で入手した。モラヴィアは後期になるともっと幅が広くて傾向が見定めがたい短篇を書くようになるが、初期は明確な個性と傾向を持った、はっきりとモラヴィア印の短篇を書いている。それはもちろん『無関心な人々』『倦怠』に共通する灰色の、荒涼とした、冷たくて乾いた不毛な世界である。個人的にはモラヴィアの世界こそ文学における真のアンニュイであり、デカダンスという気がする。彼の登場人物は常に空虚に苦しんでいる。

 小説のムードは濃厚に立ち込める倦怠感と虚無感を特徴とし、物語の具体的な題材は性愛である。嫉妬が特に好んで扱われるテーマだ。このテーマを究極まで突き詰めた恐るべき傑作が『倦怠』だけれども、『軽蔑』にしても『無関心な人々』にしても、同じく嫉妬が重要なテーマになっていることに変わりはない。冷たいだ不毛だ言っても嫉妬するということは愛情や情熱があるんだろうと思うかも知れないが、モラヴィアの嫉妬はそんな陽性のもの、あるいは熱いものではない。それは歯痛のように苛立たしい懊悩をもたらすが、決して愛情をかきたてたりはしない。そこが独特なのだ。この短篇集の諸作品でも、それぞれ小粒とはいえこのやりきれない灰色の世界を味わうことができる。

 そんなイヤなものをなんで読むのかという人がいるかも知れないが、苦悩や懊悩が文学的に昇華されるとそこには甘美なるものが生まれる。なぜかは分からないがそうなのだ。私はモラヴィアの『倦怠』ほどやりきれない甘美さに溢れた小説を知らない。現代文学では軽くて心地よくてお洒落なものがもてはやされ、昔ながらの深刻な苦悩を扱った文学はあんまりはやらないようだけれども、もしこの文学的に昇華された苦悩の蜜の味を知らない人がいたら、実にもったいないことである。

 さて、本書には以下八篇が収録されている。

「縁の切れ目」
「建築家」
「あらし」
「休暇から帰る」
「勘違い」
「孤独」
「落ちる」
「苦い蜜月」

 いずれも性愛が主要なテーマとなっているのは先に書いた通り。「縁の切れ目」では倦怠感と虚無感に苦しむ金持ちの男が愛人と諍いをし、「建築家」では若い建築家が婚約している顧客の娘と肉体関係を持つ。「縁の切れ目」の主人公は何不自由ない環境にありながら理由の分からない苦悩に蝕まれ、自殺に憧れるほどだけれども、これこそモラヴィアの典型的な主人公だ。それからモラヴィア作品のもう一つの特徴として女性の不可解さがある。モラヴィアの主人公である男たちは常に実存的不安に苦しんでいるが、女たちはそうではない。むしろ現実に満ち足りていて、貪欲で、人生に対しアグレッシヴだ。それ故に主人公の目にはミステリアスに映るし、また男にとって女は圧倒的な強者である。『倦怠』のチェチリアがその典型で、彼女は若く無教養で貧乏であるにもかかわらず何人もの年長の男たちを破滅させてしまう力を持っている。短篇ではここまで緻密なキャラクター造形は無理だが、「縁の切れ目」の愛人や「建築家」のアメリアはやはりそうした残忍なイノセンス、あるいは幸福な鈍感とでもいうべき資質を持っている。

 また、「あらし」では偶然過去の恋人に再会した主人公が彼女のアパートへ行き再び彼女に結婚を申し込むが、小説の冒頭から予感されているあらしの到来が象徴的に、効果的に使われている。登場人物たちの心理が激しく動揺した瞬間に稲妻が光り、豪雨が叩きつけてくる。もちろんこれは通俗小説や映画でも昔からよく使われる手法だが、モラヴィアの灰色のトーンの中でこれをやられると自然現象が人間心理の影響を受けているような、あるいは外界が人間の内面と地続きになっているような、不思議にシュールレアリスティックな効果をもたらす。

 細密なリアリズムと心理解剖を基本とするモラヴィアの小説は一見シュールレアリスムと相いれないようだけれども、実はこの具象と抽象の奇妙な混交はモラヴィアのトーンを決定づける重要な要素で、訳者のあとがきにも「見るからに写実的な筆づかいながら、必ず登場人物の心理や物語の展開に深く通底して、具象的なタッチのわりにアブストラクトな気配がページに横溢しているあたり、モラヴィアが好んで名前をあげるモンドリアンの世界を彷彿とさせる」とある。ただモンドリアンは言い過ぎじゃないか?

 その他「休暇から帰る」「勘違い」のようにモラヴィアにしてはトリッキーなプロットの短篇もあり、「勘違い」などはちょっとコーエン兄弟の映画を思わせるが、やはり苦い後味が独特だ。そしてラスト、表題作の「苦い蜜月」は若いカップルがハネムーンでアナカプリの島へ行き、そこで妻の古い男友達に偶然会って夫が嫉妬に苦しむという、典型的なスタイルである。美しい島を訪れたはずなのにすべてが灰色に澱んでいて、カップルのそれぞれが幻滅しているという冒頭からしてもうモラヴィア印が全開だ。

 しかしモラヴィアを読む醍醐味はやはり、緻密な心理解剖を偏執的にじわじわ積み上げていくことで亢進していく甘美なやりきれなさにあり、従って短篇小説では十分に魅力が伝わらない気がする。少なくとも本書では、ほんのさわりだけという印象だ。モラヴィアを初めて読むならやはり『倦怠』『軽蔑』などの長篇を読むべきである。



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