アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

炎の少女チャーリー

2015-06-21 21:39:02 | 映画
『炎の少女チャーリー』 マーク・L・レスター監督   ☆☆

 我が家にApple TVを導入した結果、このところiTunesのレンタル映画を観まくっている。レンタルで映画を観るなんてブロックバスター・ビデオが街中から姿を消して以来である。おまけにわざわざ返却に行く必要がない。これは便利だ。便利過ぎてどんどん観てしまう。いかんなあ。

 といいながらスティーヴン・キングで検索したら、この『炎の少女チャーリー』が出てきた。ほう、こんなものまであるのか。原題『ファイアスターター』。原作はもちろん名作だが、映画は駄作ともっぱらの評判だ。が、前からどうも気になっていたので、つい観てしまった。いかんなあ。

 その結果、やはり駄作だった。そんなことを確認してもしょうがないわけだが、あの原作に感動した人ならば、駄作と分かってもつい観てしまうこの気持ちを分かっていただけることと思う。しかし、なんでこうなってしまうのか。とりあえず、色んな意味で分かりやすくし過ぎだ。たとえばチャーリーや父親のアンディが超能力を発揮する時の演出。チャーリーは(風もないのに)髪が風になびき、アンディは両手を顔の両側に当てて目がツリ目になる。チャーリーはまだいいとしても、あのアンディのツリ目はどうにかならんのか。いちいちそのポーズをするので、カッコ悪くてしかたがない。そんなことしなくても、今能力を使っているところだぐらい観客はちゃんと分かるというのに。こういうところで子供だまし感が増幅されているなあ。

 他にも、アンディとヴィッキーは出会うや否や「愛してる」「私も」なんて告白し合うし、ロト・シックスの実験でも学生たちがわめいたり歌ったり大変なことになっている。もうマンガ的なまでの分かりやすさである。

 ストーリーの流れは原作通りなので、必然的に駆け足に、ダイジェスト的になる。原作は上下二巻でじっくり細部を書き込むスティーヴン・キング・メソッドが炸裂しているため、どうしてもそうなってしまうのである。その結果細かいところがいい加減に、雑になって、原作の良さが完全に失われてしまう。たとえば後半、ザ・ショップにおけるアンディのひそかな逆転劇の経緯は大きく省略されているし、物語展開上のキーといってもいい恐るべき「兆弾現象」はなくなっている。アンディはピンチョット医師ではなく、いきなりザ・ショップの長官を精神操作してしまう。微妙な駆け引きみたいなものはすっかりなくなっている。

 もともとスティーヴン・キングの小説というのは発想の斬新さやセンスの良さで勝負しているというより、子供だまし的なアイデアを緻密に、ねっとり粘らせつつ描きこむことで面白くしているため、小説より時間が限られる映画で同じ手法で再現することには無理がある。別のアプローチが必要なのだ。ストーリーは肝心な部分に集中して他はばっさり切り、肝心の部分の見せ方は小説とは変える必要がある。キング作品の映画化が意外に成功しないのは多分それが原因だと思う。稀にうまくいった例としてクローネンバーグの『デッドゾーン』があるが、この映画では物語の構成を原作と大きく変えてあるし、それぞれのエピソードにおいても原作の「丁寧に描きこむ面白さ」ではなく、クローネンバーグらしくスタイリッシュに切り詰めた演出が功を奏している。しかし残念ながら、本作にはそういうものがない。

 いかにもB級臭がぷんぷんにおう映画だが、少なくとも可愛らしい少女が念力放火で政府機関を手玉をとるアクション場面はもっと見栄えがしていいはずであり、アクションの演出さえ巧ければもっと観られる映画になったと思う。しかし、アクション場面もテンポが悪くて感心しない。何だかもったいぶっているような間延びした演出である。

 そんなこんなで、ほとんど観るべきものがない映画だった。あえて言えば、チャーリーを演じた幼いドリュー・バリモアの可愛らしさだろうか。ザ・ショップの長官役で出てくるマーティン・シーンも悪くないが、『デッドゾーン』と比べるとやはり生彩に欠ける。よほどのキング・ファン以外観てはいけない映画だ。



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