『死者の奢り・飼育』 大江健三郎 ☆☆☆☆★
実はこれまで大江健三郎をちゃんと読んだことがなかった。昔『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』を読もうとしたがノレなくて中断し、内容もまったく覚えておらず、それ以来一冊も読んでいない。ここらでもう一度トライしてみようと思って初期の短篇集である本書を入手してみた。実質、大江健三郎のデビュー作品集である。
冒頭の「死者の奢り」は大学生が解剖用死体の運搬(というか水槽から水槽への移し変え)のアルバイトをする話で、死体運びという題材にいかにも文学青年的な重たい観念性があり、屈折があり、と同時に多少の若さゆえの気負いが感じられる。また、死体がモノであるという感慨へのことさらなこだわりや、妊娠した女の腹の中にいる胎児と死体のアナロジーなどは、ある種の古さを感じさせる。観念的な饒舌というスタイルがすでに古いし、日常の中の異物を拡大して、哲学的な深刻さを付与してみせる姿勢が少々うっとうしい。テクニックがすごいのはこれ一篇で充分分かるが、やはりイマイチ肌に合わないなと思いながら読み終えた。
ところが次の「他人の足」以降、その観念的饒舌はほぼ影を潜める。その代わりに描写の対象の生々しさが強くなり、迫力と臨場感を増す。どれを読んでも、読者にずっしりしたリアルな重みを投げかけてくる。要するに力強いのだ。確かにこれは大したものだな、と思いながら読み進めた。
特徴的なのは、肉体的、生理的なうっとうしさの執拗な描写である。たとえば、外国人の体臭への言及が何度も出てくる。「体臭」なんて生々しくて嫌なものだが、そうした感覚に着目し、作品の血や肉にしていくのが大江健三郎の流儀らしい。内面描写でいえば、恥辱と、それに続く怒りの感情がよく描かれる。人間をやりきれない気持ちにさせ、身をよじりたくなるような切迫した感覚を押しつけてくるものが、彼の小説の重要な構成要素なのである。
短篇のモチーフもそれに似合ったものばかりで、カリエス症患者の若者たち、家畜として飼育される黒人兵、バスの中で外国兵から受ける恥辱、外国兵の権力をかさに着る通訳への復讐、なりゆきから脱走兵をかくまうことになった男たちの焦燥、などである。ショッキングで不快、けれども心の中に確かな爪あとを残す作品ばかりだ。これはやはり人間の醜さや恥部を描いているからだろう。読んでいる方も、自分の恥部を見せられるような気がしていたたまれなくなる。この悩ましい感じがいかにも「純文学」だ。このところ軽やかな小説を好んで読んでいるので、この「そういえば純文学って昔はこうだったなあ」という感覚は妙に新鮮である。
心地よさではなく、葛藤あるいは苦悩。悩みといってもイデオロギーではなく、実存的不快とでもいうべきもの。もしくは、人間の甘さと弱さ。こうしたものを容赦なく、硬い石つぶてのように読者に投げつけてくる大江健三郎の作品集は、さすがだなと納得させられる貫禄に満ちていた。もう少し他も読んでみようと思う。
実はこれまで大江健三郎をちゃんと読んだことがなかった。昔『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』を読もうとしたがノレなくて中断し、内容もまったく覚えておらず、それ以来一冊も読んでいない。ここらでもう一度トライしてみようと思って初期の短篇集である本書を入手してみた。実質、大江健三郎のデビュー作品集である。
冒頭の「死者の奢り」は大学生が解剖用死体の運搬(というか水槽から水槽への移し変え)のアルバイトをする話で、死体運びという題材にいかにも文学青年的な重たい観念性があり、屈折があり、と同時に多少の若さゆえの気負いが感じられる。また、死体がモノであるという感慨へのことさらなこだわりや、妊娠した女の腹の中にいる胎児と死体のアナロジーなどは、ある種の古さを感じさせる。観念的な饒舌というスタイルがすでに古いし、日常の中の異物を拡大して、哲学的な深刻さを付与してみせる姿勢が少々うっとうしい。テクニックがすごいのはこれ一篇で充分分かるが、やはりイマイチ肌に合わないなと思いながら読み終えた。
ところが次の「他人の足」以降、その観念的饒舌はほぼ影を潜める。その代わりに描写の対象の生々しさが強くなり、迫力と臨場感を増す。どれを読んでも、読者にずっしりしたリアルな重みを投げかけてくる。要するに力強いのだ。確かにこれは大したものだな、と思いながら読み進めた。
特徴的なのは、肉体的、生理的なうっとうしさの執拗な描写である。たとえば、外国人の体臭への言及が何度も出てくる。「体臭」なんて生々しくて嫌なものだが、そうした感覚に着目し、作品の血や肉にしていくのが大江健三郎の流儀らしい。内面描写でいえば、恥辱と、それに続く怒りの感情がよく描かれる。人間をやりきれない気持ちにさせ、身をよじりたくなるような切迫した感覚を押しつけてくるものが、彼の小説の重要な構成要素なのである。
短篇のモチーフもそれに似合ったものばかりで、カリエス症患者の若者たち、家畜として飼育される黒人兵、バスの中で外国兵から受ける恥辱、外国兵の権力をかさに着る通訳への復讐、なりゆきから脱走兵をかくまうことになった男たちの焦燥、などである。ショッキングで不快、けれども心の中に確かな爪あとを残す作品ばかりだ。これはやはり人間の醜さや恥部を描いているからだろう。読んでいる方も、自分の恥部を見せられるような気がしていたたまれなくなる。この悩ましい感じがいかにも「純文学」だ。このところ軽やかな小説を好んで読んでいるので、この「そういえば純文学って昔はこうだったなあ」という感覚は妙に新鮮である。
心地よさではなく、葛藤あるいは苦悩。悩みといってもイデオロギーではなく、実存的不快とでもいうべきもの。もしくは、人間の甘さと弱さ。こうしたものを容赦なく、硬い石つぶてのように読者に投げつけてくる大江健三郎の作品集は、さすがだなと納得させられる貫禄に満ちていた。もう少し他も読んでみようと思う。
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