アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

火星のタイム・スリップ

2009-03-31 21:20:54 | 
『火星のタイム・スリップ』 フィリップ・K・ディック   ☆☆☆★

 大昔、多分中学生か高校生の頃読んだことのあるディック本を再読。ディックの傑作には必ず名前が挙がる本書で、川又千秋は解説で「SFのベスト5であれベスト3であれ自分は必ず本書を挙げてきた、ベスト1と言われれば悩んだあげくにやはり本書を挙げるだろう」とまで絶賛しているが、個人的にはそこまで好きではない。あまりに悪夢的で重苦しく、私がディックのもう一つの魅力であると考えるスラップスティックな軽みがまったく見られないからである。ディックは作品によっては数え切れないほど読み返しているけれども、これはまだ二回しか読んでいないのもそのためだ。

 タイトルから分かるように火星を舞台にした純然たるSFである。一部の地球人たちが新たなフロンティアとして火星に移住する時代のお話(といっても年代は1990年代である)。慢性の水不足に悩む火星移民たちは、地球と比べて文化レベルが低い火星ライフに幻滅しながら日々を過している。修理人のジャックは組合の有力者アーニイ・コットに雇われ、自閉症の子供マンフレッド・スタイナーとコミュニケーションを取るための装置の製作を命じられる。アーニイはマンフレッドに予知能力があると信じ、土地投機で儲けようと目論んでいた。ところが分裂症の病歴があるジャックはマンフレッドと一緒にいるうちに影響を受けておかしくなってくる。スクールのティーチング・マシンがガブル、ガブルと「マンフレッド語」を喋り出したり、同じ夜の経験が何度も繰り返されたりする。一方、土地登記でジャックの父親に先を越されたアーニイは、今度はあろうことか過去に戻って現在を改変しようとする。しかしマンフレッドの力で過去に飛んだアーニイは、そこもまたマンフレッドの精神に蝕まれた分裂症的世界であることを発見する。命からがら現在に戻ってきたアーニイは、今度こそ本当に彼をうらむ人物に殺される。マンフレッドは砂漠にさまよい出て火星の原住民=ブリークマンと行動をともにする。そして疲れ果てて家に戻ったジャックの前に、時間を越えて老人となり、半分機械の身体と化したマンフレッドが姿を現し、かつて自分を助けようとしたことに礼を言う。
 
 スクールのティーチング・マシンがマンフレッドの精神に影響を受けて「ガブル、ガブル」と喋り出すシーンや、ある夜の出来事が狂ったテープレコーダーのように何度も何度も繰り返すところ(しかも繰り返すほどにおぞましくなっていく)はまさに現実崩壊師ディックの面目躍如で、本書最大の読みどころである。悪夢的な描写が多いディックの小説の中でもとりわけ悪夢的な場面だ。今回ストーリーはほとんど覚えていなかったが、この二ヶ所だけは印象が強烈でよく覚えていた。こういうところがディック・ファンの間で本書の評判が高い理由だろう。この世界では物事は絶対にうまくいかず、常に何かしら恐ろしい変調をきたすのである。

 自閉症が時間感覚の変調であるという精神分析医の理論から、自閉症児が予知能力者である、さらに自閉症児がタイム・トラベラーであるとどんどん飛躍していく論理はいかにもディック的で面白い。火星に住む移民たちが文化レベルの低さに幻滅している一方で、地球では火星が輝かしいフロンティアのように宣伝されているという詐術もディックらしい世界観だ。

 ところで自閉症のマンフレッド少年は、年老いて施設に横たわる自分の姿を常に見ながら生きているという設定だが、これは初期短篇の『超能力者』(『地図にない町』収録)に出てくる予知能力者を思い出させる。あれも短篇ながら胸の奥にとてつもなく異様なしこりを残す、きわめてディック的な作品だった。


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2 コメント

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スラップスティックな軽み (ぽぉ~)
2009-04-01 18:05:02
そうですね「スラップスティックな軽み」ということで言うと「ザップ・ガン」なんかすごくいいですね。昔読んだときはメチャクチャな話に思えたんですが再読してみると以外にシンプルな気はしました。『ライズ民間警察機構』なんかはスラップスティックで『火星のタイム・スリップ』以上に悪夢的でぶっ壊れてました。
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ディック (ego_dance)
2009-04-03 10:36:06
「ザップ・ガン」は確か兵器開発の話で最後に変なゲームが出てくるやつですね? ああいうゲームみたいな妙なガジェットがディックの小説に出てくるとやっぱり嬉しくなります。ゲシュタルト構成機とかスクランブル・スーツとか大好きなので。「暗闇のスキャナー」みたいな痛々しい話もどこかおかしいエピソードがあるんで好きなんですよね。
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