アブソリュート・エゴ・レビュー

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ラストエンペラー

2015-01-22 23:21:21 | 映画
『ラストエンペラー』 ベルナルド・ベルトルッチ監督   ☆☆☆☆

 ご存知、ジョン・ローン主演、坂本龍一がアカデミー音楽賞を受賞した『ラストエンペラー』を日本版ブルーレイで鑑賞。なんでも米国クライテリオンのブルーレイは画面サイズがオリジナル劇場版より狭くトリミングされているそうで、だからわざわざこの日本版ブルーレイを購入した。またこのブルーレイには218分のノーカット全長版も収録されている。

 というわけで、今回は3時間以上かけてノーカット全長版を観たが、特に冗長さは感じなかった。カットされたシーンがどこなのかもよく分からず、ピーター・オトゥールの初登場時に車で市内を走る場面が増えていることに気づいた程度だ。つまり、特に新たなシーンやエピソードが追加になっているのではなく、ストーリーテリングがより丁寧になっているということのようだ。

 物語は歴史に翻弄された悲しき「エンペラー」、溥儀の数奇な人生を、壮大なスケールと豪奢なビジュアルで描く一大歴史絵巻である。とくに溥儀幼年時代の映像は圧巻で、実際に紫禁城でロケをしたという豪華さがこの映画を燦然と輝かせている。坂本龍一の重厚なメインテーマも良く合っている。溥儀は幼少の頃からエンペラーとして大勢に人間にかしずかれたが、実際に権力を握っていたことは一度もない。常に、お飾りのエンペラーでしかなかった。実権を握っているのは他の誰かであり、だから周囲の人間たちは恭しく仕えながらも心の底では彼を軽んじている。溥儀にはそれが分かっている。加えて、彼には行動の自由がない。エンペラーと呼ばれながら、紫禁城の外に出ることすらかなわないのである。実質的には虜囚だ。そしていざ出る時には、1時間前の突然の通告で追い出される。溥儀はもっとも高い地位にありながら、もっとも自由を剥奪されていた男だった。

 こうして「エンペラー」であることの空しさを誰よりもよく知りながら、その一方で彼は、地位にこだわってもいる。地位以外に自分のアイデンティティはないと感じていたのかも知れない。妻の忠告も聞かず、彼は進んで満州国の傀儡皇帝となる。再び「エンペラー」と呼ばれるために。

 幼年時代パートは豪奢な映像と少年皇帝の孤独があいまって甘美きわまりないが、ジョン・ローンが満州国の皇帝を戴冠する前後のパートは妙に寒々しい。妻を妊娠させた運転手を射殺するエピソードや妻が発狂するエピソードは三面記事的でメロドラマティックだし、日本軍はあからさまな悪役という単純な図式が安っぽい。だからこの映画は紫禁城が舞台の前半と溥儀投獄後のエピローグ部分が良く、中盤から後半にかけては弱い。ちなみに前半、乳母のアーマと溥儀少年が引き離される場面、「彼女はぼくの乳母なんかじゃない、恋人だ」と彼女の名を叫びながら少年がアーマを追うシークエンスなどは、坂本龍一の音楽の力もあって類を見ないほど甘美でロマンティックな名場面だと思う。

 もちろん、歴史に翻弄されたのは溥儀だけではない。彼の母親、幼少期の彼の世話をしたアーマ、生涯かけて彼に仕えた従僕、誰もが歴史によって運命を変えられたのである。歴史の歯車はその無慈悲な回転によって、無数の人々の人生を狂わせ押しつぶさずにはおかない。このテーマはエピローグつまり溥儀投獄後の年月を描いた終盤で、再び前面に出てくる。溥儀は獄中で庭師の仕事を覚え、長い年月の後に釈放される。もはや老人である。その後はごく平凡な、市井の庭師として働く日々を送る。やがて文化大革命がやってくる。溥儀は町で、かつて自分を厳しく訊問した監獄の所長が縛られ、引き回されているのを見る。若者たちは彼を体制側の腐敗分子と呼び、罪を告白せよと叫ぶ。かつて所長が、溥儀に向かってそうしたように。

 無慈悲な歴史の歯車、権力が次々と移り変わっていく無常。老いた世代を容赦なく断罪しながら若い娘達が踊り、花火が打ち鳴らされるこの場面は、世の無常と永遠に変わらない人間の愚かさを表現して見事だ。そして、それに続くラストシーンは更に素晴らしい。老いた溥儀が今は観光地となっている紫禁城に入っていき、守衛の子供にコオロギを見せる場面だが、ここで突然トーンが変化し、この物語はファンタジーへと変貌する。このシークエンスは夢か幻であって、もはや歴史物語ではない。観客は知らないうちに異なる虚構のレベルへと移動させられる。そして物語は再度転調し、ほんの数秒間の現代の場面で締めくくられる。

 このいくつかの転調を含む短いラストシーンが、映画全体の余韻を大きく膨らませていることは驚くばかりだ。溥儀の人生物語という意味では、その前の場面ですべて終わっている。このラストシーンでは何の史実もドラマも付け加えられてはいない。しかしあのラストがあるのとないのとでは、この映画を観終えた後の感慨に天と地の差があることに誰も異論はないだろう。これが演出というものの力である。この映画のラストは演出の離れ業だ。

 秘密は、虚構のレベル間のすばやい移動とそれによる観客への揺さぶりにある。その直前まで、映画は壮大な歴史のドラマを一定のテンポで、リアリスティックに綴ってきた。ところがラストの紫禁城でコオロギが出現することで映画の冒頭とラストが時間を飛び越えて繋がり、同時に唐突に幻想色が増す。虚構のレベルが変わることで、観客をはっとさせる効果がある。更にラストシーンで畳み掛けるように歴史と現代が繋がり、同時に虚構と現実までが繋がってしまう。それまでスクリーンの中で観ていた映画の世界と、観客が身を置く現実世界がリンクするのである。それが観客にめまいを起こさせる。一種メタフィクション的な効果といっていいと思う。私は初めてこの映画を観た時、このエンディングによってまるで映画が現実世界を侵食するような、軽い衝撃を味わったことを覚えている。

 坂本龍一は音楽担当だけでなく俳優として出演もしているが、演技はメッチャ下手である。当然だが、今見ると非常に若い。それからこの映画は史実の描き方が粗いという批判があって、溥儀は実際はああいう人ではなかったらしいし、前述した通り日本軍の描写は完全に中国側の史観に沿ってマンガ的なまでに極悪、逆にイギリスは善玉になっている。まあそういうわけで、日本人にとっては特に釈然としない部分が多いかも知れないが、しかしながらこの映画の本質はそうした部分にはないと思うので、そこはフィクションだと割り切って観るべきだろう。



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