崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「東洋経済日報」にエッセー掲載

2011年07月17日 05時14分32秒 | エッセイ
私の病歴

崔吉城 

 明るい話ではなくて、恐縮ではあるが、私の闇の話をさせていただきたい。韓国で私の世代の人は肺結核になった人が多い。そんな人の中には100歳まで生きている人もいる。私にはそんなに長生きする自信はない。私の左上肺は広範囲に石灰化した痕跡を残している。今まで医師の説明を数回聞いたがいまだにレントゲン写真の見方はわからない。私の結核病歴は今から50年も昔からであり、それが今の私の健康状態に肉体的に、あるいは精神的に影響している。
 一昔前までは結核は大変恐ろしい病気であり、それで多くの人が命を落とした。私は1960年にこの病気の末期と知らされて死を目前にしたことがある。永六輔氏はよい患者は病気のことを言わないと言ったが韓国では病気は自慢すべきだという。このたびは私の病気自慢の話になる。
 李承晩大統領が下野し、農村の民衆は学生デモによる民主化を理解してくれなかったのでソウル大学校では学生啓蒙団を組織して農村に派遣した。私はそれに応募して勝ち抜いて選ばれ、初めて遠くの慶尚北道の山村で一ヶ月間民衆の前で演説をし、理解を求めた。その帰りの汽車で大量の喀血をした。それが数日間続き、ソウル大学付属診療所で診察をうけ、結核末期と診断され、「死の宣言」を受けたのである。私には死は早すぎる、死は他人のものであり、自分のものとして到底受け入れることができず、診療所の椅子に座ったまま泣いていた
 休学を命じられて田舎で療養生活をすることになった。私は地獄に落ちたような感じであった。てんかん発作患者と二人で養鶏場の部屋で延命することしか考えることがなかった。そんなある夜のこと、同宿者の病者を突然訪ねてきた若い伝道師によって私は救われた。当時私はイエスの最後の晩餐会の心情を理解する気持ちであった。自分の死を知っていながら晩餐に望むことは残虐なことだと思っていた。それから5年間の闘病生活の末、投薬も中止となり、生き返った。それは悔い改めの生まれ変わりでもあった。一緒に暮らした闘病中患者と共にクリスチャンになったが彼は青春で亡くなった。私は3年でも延命してほしいと願い、せめて50歳までは生きたいと願い、今ではそれをはるかに越えて生きている。
 私の古い病巣は今日まで私の行動をいろいろと制限してきた。チベットでは高山病で苦しかったし肺の病巣を気にしなければならなかった。スポーツとは縁のない生活、ただ規則的な生活習慣を守ってきた。風邪でもCTを取って頂いた。古い病巣が白く石灰化したのが写っており、専門的にはわからないが胸がぼろぼろなのかなあと写真を繰り返し見た。しかし医師は結核の跡とは別のところの気管支炎と診断し、薬をくれた。
 歳をとるにつれて健康のために急にスポーツや運動をする人も多い。私は今日まで延命してきたので、さらなる延命よりは、命の恩人をはじめ周りの人のために何ができるか、何を残すか、最善を尽くしたいと思いながら日々を送っている。

「恥の文化」

2011年07月16日 05時37分25秒 | エッセイ
 文化人類学でマーガレットミードの『ニューギニアでの成育』とルースベネディクトの名作『菊と刀』を取り上げた。前者の性の抑圧と性犯罪との関係、後者では恥と良心の関係を話題に提供して議論した。セクシュアリティー(生理的)とジェンダー(社会的)の大きい問題を1コマで扱った。他の大学ではフェミニスト論、女性論などの講義をしているところもある。当大学ではそれらを文化人類学で扱っている。男性らしさ、女性らしさ、トイレの男女分離、女性専用車両の問題、ユニセックスのファッション、「恥の文化」などにいたるまで広く国家のパーソナリティーや国家の品格など、そして新文化論へ誘うように進行してきた。
 このような大きい問題、また重い問題として学生はついてこない雰囲気、否定的な学生もいた。10月京都造形芸術大学で「性」をテーマに講演する時も性の微妙な問題に触れることになるであろうと思うが、学生たちにはどうであろうか、心配である。学期が終わりかけて振り返ってみる。知識伝達式の講義から考えて議論する授業へと、一貫してきた。それに乗った学生と否定的な学生に分かれるよううな印象である。授業は永遠に創造していかないといけないと思った。教育で一番難しいのは否定的な態度から肯定的に変えることである。ポジティブシンキング(positive thinking)の始まりは感謝の態度であろう。

「突然の電話」

2011年07月15日 05時22分59秒 | エッセイ
 一昨日、韓国の若手の学者に突然電話をかけた。数年前ソウル大学校で開かれた文化人類学会の時に初めて挨拶をかわした方で編集の件でメールが入っていたのでそのために電話をしたのである。彼は、電話に応じて「恐縮、恐縮、光栄だ」と驚きと嬉しさを何度も表現していた。私も嬉しかった。昔私も大先輩の学者から電話を受けて嬉しかったことを思い出した。日本では現在このような電話は突発、唐突なことになるかもしれない。しかし私が生まれ育った韓国では突然の訪問、突然の電話は嬉しいことである。しかし都市化され、今では時間などの約束が一般化されており、突然ということは少なくなっている。本当に稀に友人に電話をすると驚く声が嬉しさを感じさせる。このような嬉しさが減っていく。最近はメールなどでワンクッションをおくからである。突然に電話で音信を伝える電話か少なくなり、嬉しい電話は減っている。その代わりに約束の電話、約束しての訪問が一般的である。それは事務的、仕事的になる。昨日ある外国人から電話をうけた。今朝研究室で彼と会うことになった。お互いに話す内容や時間などが決まっている。
 昔韓国で電話が不便な時代にスイスから女性研究者が突然現れた。もちろん私よりもはるかに身長が高く、そのうえに、高い帽子を被った女性が突然現れたのにびっくりしてとっさに言葉が出なかったことを覚えている。しかしそれも驚いて、嬉しいことだった。彼女はシャーマンの研究者だった。初めて会う人には期待感が誰にでもある程度あるかと思う。見合いする人の心のように、心の準備をして相手を向かえることも嬉しいことである。

下関広域日韓親善協会と済州島

2011年07月14日 05時57分47秒 | エッセイ

 下関広域日韓親善協会と済州島との姉妹提携に参加した。提携式には日韓の通訳を通して行なって祝電の披露は特に長く感じた。参加者の半分はおそらく日韓両国語のバイリンガーで、また3分の一は韓国から来た人などであり、国際化の難しさも実感させられた。祝電の文章が長かったのが特徴である。ファクスなどできた演説文のような長い文であり、通訳が続いて長くなったと思う。電報とは文字の数で計算する短文時代の象徴的なものであるのに長文時代に変わった。これからは電報の演説文をきく時代になるのだろうか。
 済州島は自然遺産になったという。私は以前新婚旅行のメッカとして済州島に一ヶ月ほど滞在しながら調査したことがある。その後韓国人の新婚旅行先は海外へ代わったと思ったが、まだつづいているという。それは済州島を観光化する政策と努力によるものであろう。済州島には陸地とは異なった村の守り神としてドルハルバン(石偶像:写真)が47個残っている。これには古く鳥居竜蔵などが注目し、戦後韓国では民俗文化財として宣伝して観光化に利用した。新婚さんがこの石像に触り祈ると子孫繁栄するというように観光化と結び付けている。古い素朴な民俗を知っている私には笑えるが、文化も都合よく変化させられていくように感じた。

ホオズキ

2011年07月13日 05時13分13秒 | エッセイ
href="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/ea/4faf8b2677a3b006cdffe32824af4ad8.jpg"> 東京の浅草でホオズキ祭りが報じられているが千キロ近く離れた下関ではその雰囲気が届いていない。私が東京に留学した時には出かけたことがある。夏を確認するようなホオズキの実を思い出す。ホオズキは私の生まれ故郷でも夏には食べたことがある。若い実は緑色であり、味は苦い。真っ赤になると甘い。青い実でも指でもむと甘くなる。子供の時、苦い味から甘くなる神秘的に変化する「鬼灯」を思い出す。考えてみるとそのような果実は多い。青いとき酸っぱく、渋いものが熟して甘くなるものは多い。
 若いときの自分の味はどうであったのであろうか、今私は甘く熟しているのだろうか。土居健郎氏は『甘えの構造』で日本人の性格を指摘している。甘いものには虫がつきやすい。しかし甘さは多く有効に使われる。苦味と甘さは相反しながら調和する。パリのモンマルトルの丘で多くの画家たちを見ながらカフェで苦いコーヒーを楽しむ日本人は多い。その苦いコーヒーには甘いロマンスの香りがするようである。人生の苦労にも甘い香りがする。昔の人はそれを「苦尽甘来」といった。子供を早くから甘やかすとダメになるというメッセージも示されている。

個人情報

2011年07月12日 05時28分08秒 | エッセイ
 人に年齢を聞くことは微妙であり、特に女性に年齢をきくのは失礼だと言われている。中国や韓国から来た留学生たちにはそのような考えはなく、何歳か、結婚はしているか、子供は何人かなど初対面の人にも聞いたりするので最初に注意することがらである。しかし高齢者の間ではよく年齢を聞くのを見かける。そして互いに高齢者を上位者とするような態度をとるのが普通である。私も年齢を聞くことも多い。同年輩であれば親しい感じ、上年配であれば尊敬するような態度をとる。敬老思想ともいえるものである。昨日アパートの管理人とエレベーターに同乗したとき彼に歳を聞いた。私よりだいぶ年配と思っていたがかなり年下であり、急に位階が逆転したような雰囲気であった。
 人の名前、生年、性別などは基本的な個人情報であり、それは社会的に必要な基本的な情報である。今民主党の案で、国民一人ひとりに番号を割り振る番号制度を作ろうとしている。それに反対する意見もある。過去独裁国家では主に国民を監視するために使われたことがあって、私も韓国の住民登録制度には反対の意見を持ったことがある。しかし現在はそれを反対する理由もなくなったのである。いま韓国は民主主義国家であるから。
 日本では個人情報の流出を防衛するのが先に議論され、また規制や法則を多く作ろうとする。規制が社会的に必要とは言っても煩雑な、嫌なものにもなりうる。むしろすでに登録されている住民基本台帳や運転免許番号、など数多くできている番号を利用したほうがよいかもしれない。問題は政府が国民から信頼されているかであろう。患者は医者を信頼して見せたくないところを見せたり話したりする。医者がその個人情報を治療以外に悪く利用する人がいるとは思わない。それこそ国家の品格であろう。
 

メール・トラブル

2011年07月11日 05時26分24秒 | エッセイ
 電子メールが便利な手段であり、郵便を使うことがかなり少なくなった。郵政民営化となってもサービスの進展はあまり感じない。それは時間制約が宅急便に比してまだ大きい事も含む。メールや郵便でトラブルがあることは滅多にない。しかし重要な件がトラブルを起こすことがある。昨日は重要なメールが届いていない。その人にとって重要なメールである。おそらく迷惑メールに入って私が数多いそれらのメールを一斉に処分してしまったかもしれない。再度頼むつもりである。
 昔私が韓国へ帰国するとき大学総長宛に出した重要書類が届かなかったことを思い出す。当時は郵便の行方を調査することもできないときであり、私にとっては就職のための書類であり大変困ったことがあった。直接行って書いたのでよかったが未だに不思議な郵便トラブルだったと思う。競争相手がいて事前に書類が遮断されたかと思ったりする。
 物事を進める時には、時としては邪魔が入ることがある「好事多魔」かもしれない。ドラマや映画でも幸せな場面が長く続くと不幸なことが起きる予感がする。だから劇的といえる。日本の挨拶で「お邪魔します」という言葉には内心小さい抵抗を感ずることがある。

ジャジャン麺

2011年07月10日 05時19分41秒 | エッセイ
 いつだったか下関韓国教育院の徐院長に会った時、韓国のジャジャン麺を食べたいと言ったのを覚えていて下さり、昨日は十数名の韓国の留学生とともに招待された。他の大学にも声を掛けたというが参加者は東亜大学の教員3人と学生だけであった。院長の手作りのジャジャ麺は中国の黒味噌と豚肉や玉ねぎなどをいれた本格的な韓国料理であった。私は黒味噌で味付けされたジャジャン麺を見た瞬間、お替りができるか気になった。同席した副学長の鵜沢氏は初めて食べるというのを聞いてもそ味でどんな表情をするのか気にかけることもなく、夢中で食べ、お替わりをした。下関で韓国の本場のジャジャ面を初めて食べた。学生の中には3回以上もお替わりする人もいた。
私は満腹、満足であった。
 しかし、それは「食事」であって「食事会」ではなかった。結果的に食事がメインになってしまった。学生の中には初めから食事以外のことには積極的ではなく食べるだけのことであれば参加するという意見もあったという。私は食べる競争のようなことになるかと思い、批判的であった。しかし時間的に私が食べ終わってすぐ席を離れなければならなかったので私自身が食べるだけでその場を離れてしまった。考えてみると私は食事会から途中で脱席したことが多かったことを含めて反省する。一般的には昼食会、晩餐会などでは儀式があり、場合によっては長いスピーチが行なわれるのが普通である。その時は一流の料理でも味を楽しむことさえできないことがある。その時「食べる」本能から「宴」文化へ昇格するのである。昨日の私は食事に行って満腹して帰ってきたが、食事会「宴」に参加したことことにならなかったことを反省する。

「…してはいけない」

2011年07月09日 04時43分21秒 | エッセイ
 日本に来たばかりの留学生や海外旅行者から「日本はきれいな国だ」と聞かされることが多い。日本はよく整備されていて空気汚染などが少ない。自然環境がよいという人も多い。昨日韓国からの留学生7,8人が研究室に来て、いろいろと日本での生活4ヶ月間の感想を話してくれた。ある学生は日本には「…してはいけない」ことが多いという。私も大いに賛同した。
 整備されてきれいなことはよいが、精神的に弱い人が多い。回りにもそのような人がいる。先日は若い時うつ病を経験した人がクリスチャンになった話も聞いた。確かに私が生まれ育った韓国に比べて日本には心理的に弱い人が非常に多く感ずる。私はその理由の一つとして、重要な理由として「…してはいけない」という社会的な制裁、規制、規範などが個人を必要以上に圧迫するからではないかと想像する。制裁、規制、規範など社会的なルール、規則は社会の機能を効果的にするためのものであるが、いつの間にか日本はそれが社会機能、個性などを抑圧していて心理的な圧迫をしていると思う。皮肉に言うならばこんなにきれいな日本で十年も住めば誰でも精神がおかしくなりそうである。国民性などを一ことで言うのは専門的ではないが、日韓を長く往来して生きる私の経験からの感想である。

平昌

2011年07月08日 05時29分57秒 | エッセイ

 冬季オリンピック開催地として韓国のPYONGCHANG(平昌)が決まった。嬉しい。私には貧困な山村が世界的な舞台になるという驚き感もある。私のイメージは古い。1960年代、文化人類学を専攻するという意欲で始まったフィールドとしてこの地域の寧越、旌旋、平昌などの火田民(焼畑)を探して歩いたことが懐かしい。その調査記は日本文にも訳されている。平昌は李孝石のゆかりの地であり、寄ったことを覚えている。彼の「蕎麦の花が咲く頃」が代表作であるが私は彼の随筆「落葉を燃やしながら」が好きで、今でも落ち葉を燃やすにおいからそれを思い出すことがある。今は「平昌李孝石文化村」として有名になっているという。それ以降はスキー場ができて夏のシーズンオフのホテルに泊まったことがあり、冬のソナタの画像で見たのが全部である。
 山間奥の寒村が世界的に注目を浴びることとなった。信じられない。「ネズミの穴にも日がさすことがある」ということわざの通りである。世界的にアピールする韓国の力はすごい。そのオリンピックの開催の時には私は80歳近くなるが、行って見たい。

面と向かって

2011年07月07日 05時59分06秒 | エッセイ
 日本的な表現様式として面と向かって直接相手を叱らず言い回しや褒め殺し、慇懃無礼などがある。しかし国会中継を見る限り日本的なものとはとても思えない。首相に面と向かって「貴方は辞めるべきだ」と大声で叫ぶの見て特殊な集団のように感ずる。その人たちが暴言、妄言で重要な役職の人を追い込み辞任させたことは数多くある。議員のレベルより国会文化がおかしい。言葉の表現は多少パーソナルな点もあり、失言もあるのが普通である。その乱暴な言葉を平気で飛ばす議員たちが相手(主に与党員)を切り捨て、裁判のようにに追い込み、能力や業績は尊重しない。マスコミは扇ぎ立て役、彼らの口から被災地を大事にするという話はとても信用できない。一般社会には礼儀正しい日本人は多い。国会議員を真似するか心配である。しかし一般人のそれも変わりつつあると感じる。私の身の回りでも社長に面と向かって「あなたは社長病だ」、同僚に「幼稚だ」という人がいた。謹んで欲しい。特に司会者や指導者はそれを黙認せず注意すべきである。

登り釜

2011年07月06日 05時23分06秒 | エッセイ
 大学にも登り釜を作ったらどうかと思っている。広い敷地の中の小山の麓に作って欲しいと関係者と話をしているうちに私は生まれ故郷の登り釜や高麗青磁の遺跡まで古く広く「過去たち」を想起した。わが生まれ故郷にはキムチつぼなどを作る登り釜があった。そこで働く人々は村の人ではなく、外から移入してきた人だったので子供の私は接することはなかった。ただ近くに赤土を掘って運ぶのを見た。また売りに歩くことも知っている。しかし朝鮮戦争の時その赤土を掘った穴の傍で人を銃殺してその穴に埋めるのを見たことがあり、その後登り釜は長く残骸だけが残った。わが故郷の地域は庶民の食器のサバルを生産したところとして知られている。現在は芸術家たちのもの意外に村落レベルで登り釜を見ることさえ稀である。朝鮮の焼き物文化が日本に伝わって名産となり、その伝統が続いているといわれている。
 私は高校時代から古いものが好き、ナルゴニー(老者)というニックネームがついた。大学1年生のときからは骨董品に関心を持ち、中には貴重なものもあった。特にシャーマンの巫具などを室内に飾っていた。訪ねてきた人たちは私の母がシャーマンであると思い、噂が広がって母から処分するように言われたこともあった。最近その残りを国立国楽院に寄贈したのである。文化財専門委員の時代に高麗青磁の遺跡を調査し、数多く登り釜を見た。焼く体験はほんのわずかであるが、熱によって色が変わることは神秘的でもあった。登り釜を作って皆でそれを楽しむのをみたい。

写真トリミング(切り取り)

2011年07月05日 05時13分31秒 | エッセイ
 今翻訳の本(原書は英語)の書評を書いているが、真面目な直訳で読破するのに苦労した。その翻訳文を引用しながら書評を書いているがとてもむずかしい。私も数冊翻訳したことがあるが、文脈きちんと理解した上で自分の文章で書こうとしてきた。最近韓国では日本語の本が韓国語で翻訳された本が氾濫している。日本語の漢字をよく理解されていない状態の直訳で、読みにくいし意味不明の部分も多い。中には新嘗祭を「新営」と翻訳したり「謝す」の誤りが「感謝」というような逆の意味で訳されたりする。
 今古い本を翻訳して写真などを再配置して入れて読みやすくする作業をしている。原典の意図を守りながら読みやすく、理解しやすくする作業である。一昔前までは写真を本文の中に挿入することができず、本文の前と後にまとめられていた。それを今本文と関連するところに入れている。原作者の意図を十分活かすようにしている。ある初歩的な研究者が写真をトリミングしたものは価値がないというのを聞いたが場合によって写真をトリミングすることによってより効果がでることもある。私の一冊の本がある翻訳家によって今翻訳されている。私は一切意見を出さない。それは彼の作品になるからである。

チャンポンやのカウンターで

2011年07月04日 00時07分05秒 | エッセイ
 大学の近くのチャンメン屋に寄ったが客が多く、初めてカウンターの椅子に掛けた。キッチンで働いている様子が観察できてよかった。ステンレスの調理台で男女二入の年配の方が麺を茹で、鍋でスープを作ってから皿を並べてごま油、麺、スープ、いためたり、煮たりして作った具の、モヤシ、キャベツ、肉、海苔などを入れてでき上がった。それを他の3人がお盆に、箸、スプーン、請求伝票などを載せて座席表の通りに運ぶ。彼らの中には会話はまったくなく、仕事ぶりを夢中に見ていながら待っているところに、私と家内の前に作品が運び置かれた。麺とスープの味から確かめると美味しい。胡椒、ラー油、にんにくなどで風味を加え、高級料理以上に美味しく、皿をなめるように食べた。
 5人が働いて収入はいくらくらいで、純利益はどのくらいなのだろうか、などと余計なことまで考えた。純利益は1日1-2万円であれば夫婦が働いてそれぞれ30万くらいかもしれない、客が多くてもぼろもうけではないと思った。私は物を売ったことはないが、いつの間にか金で利益を計算してみる癖があり、それがたのしい。ベランダの花や実ができると売ったらいくらになるだろうかと言っては経済観念がないと評価している家内に笑われる。なぜその癖がついたのであろうか。私の父は商売をしたのでその遺伝子が私に少し残っているのだろうか。

文は人なり」

2011年07月03日 06時03分41秒 | エッセイ
 新刊拙著の『雀様の学問と人生』(韓国語:참새님의 학문과 인생)を寄贈してからの返答感想が届いている。「雀様」への手紙も受けた(写真)。今度だけではなく、感じていることは返答なしのはそれでよいが、大体は「見た」「読んだ」の二つである。まずこちらで読むことを期待して厳選して送り返答をいただく重要なコミュニケーションである。今度の新作はエッセイ集であるので反響は早い。その返答からもその人が見える。ある人は「そのままの自由な人」、またある人は「在日の寄留者」など重要なポイントをおさえコメントを送ってくれた。また一気に読んだとか面白かったとか、いう人が多い。なにが面白かったかは言ってくれない。前回と今回も送っても返答のない人がいる。私が何か敵対されているのか心配である。あるいはその人に健康上の問題などがあるのではないかなどの心配まで及ぶ。
 私も人から著書などをいただくことが多い。その度少なくとも目を通して重要な部分を理解をした上で返事を書くことにしている。したがって時間がかかる。まだ返答をしてくれた人からは本当によく読んでコメントが来ることを待つ気持ちである。多くの人からは文章が上手いといわれたりするとそれだけでエッセイストになれた気分になったりする。しかし文章とはなにか、その人の人格だといわれる。わが家の壁には元法政大学学長の中村哲氏の親筆「学は人なり」という額がかかっている。「文は人なり」と読み替えてみる。