崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

碍子

2008年10月17日 06時44分34秒 | エッセイ
 卒論中間発表を面白く聞いた。古い電信柱の電線をつなげている白い陶器の碍子についてのものである。私はその碍子に鳥がとまっている風景が奇麗で絵に描いたことがあった。韓国では戦前の日本植民地時代に作られた電柱を戦後壊れて使えなくなったものから碍子をはずして、その中に入っている硫黄を取り出して売った人がいた。それを買って熱で溶かしてマッチを作ったこともあった。今は博物館にしか見られない碍子である。
 直塚君は明治時代その碍子の供給に応じて窯業が発展していく過程の中の一部を卒論の問題にしている。私は彼が知らないはずのその中に何が入っているかという質問をし、わざわざ貧乏な時代の体験を自慢するような昔の話をしたりした。車輪の中に入る鋼鉄のベアリングを作って鋼鉄王になったカーネギーという人物を思い出す。金持ちにはこのように人に注目されない小さいものを作ってからでもなれる。私の在日の友人には裁縫用の針を作って金をもうけた人もいる。われわれの服装には数多くの金持ちたちのアイディアが調和して複合されたものであることに思いはたどりつく。

魏明温画伯の絵の展示会へ誘う

2008年10月16日 04時09分28秒 | エッセイ
 韓国の魏明温画伯の絵の展示会が2008年11月16日から下関ギャラリーレトロで行われる。そのパンフに私が次のように誘いの文を寄せた。

 映像が氾濫する時代に生きる我々にとっては静物の絵の前に立ち留まって考えることはまれであろう。忙しさに流される人の生活とは空虚なことにならざるを得ない。死魚は流されても、波に立ち留まり、また遡る生魚のように、さらに湧き飛ぶような自我を悟る生活は美しい。流れと波を切って自我に戻るために絵の前に立つ。その静かな時間は宝物、風景、静物などに視線を投じているといろいろな想像が広がるはずである。
初期ルネサンスまでは旅行などで風景をスケッチしたり、肖像画を描いたりするのが流行ったが、それらは写真によって替わった。写真はまた活動写真に替わってきた。しかし絵は人の感情と思索を、写真は自然そのままを、活動写真は力を表現するようになった。特に近代では絵と写真は芸術性を争った。絵と活動写真は対照的である。しかしそれらは絵の世界を共有している。活動写真を分析しようとすると停止画面に戻らないといけない。映像とは反対に立ち留まる芸術、その絵の前に立ち留まることになる。
 絵は明暗と色などによって創造されるものである。光線に照らされ、光と色の調和と変化に富む芸術、さらにその美の世界を越えて、思想や時代を表現する。
魏明温画伯の絵の展示会へ誘う。魏画伯は最近まで下関に居住したが、現在韓国全羅南道長興市青少年修練館の館長であり、各種展示会などで作品を出している。この度縁のある下関にて展示会をしようとしている。ぜひおいでくださって彼女の絵をごらんになって彼女の世界を味わうことをお勧めしたい。

保険金の生命観

2008年10月15日 06時51分05秒 | エッセイ
 1981年三浦和義社長(当時34歳)と妻の一美さん(当時28歳)は米国・ロスアンゼルス郊外の駐車場で二人組の男に銃撃され一美さんは頭を撃たれて死亡した。夫の三浦も足を撃たれて重傷を負ったが保険金1億5500万円を受け取った。それが保険金目当てに仕組んだ事件ではないかと疑惑報道が加速し、《三浦に一美さん殺しを頼まれた》という特種記事が報道された。1985年警視庁は三浦を一美さん殺人未遂容疑で逮捕、1998年最高裁は三浦の控訴を棄却し懲役6年が確定した。東京高裁は「確かな証拠が無い」として無罪を言い渡した。
 証拠が無いことで、疑惑が晴れたわけではない。今度再逮捕されたのである。保険金とは人倫に反する要素も含んでいる。妻の死から金を取るということがそれである。私は昔ベトナム戦争で戦死した人の慰霊祭を観察したことがある。国家から補償金を受け取った家族が子供の死によってお金をもらうことは人倫に反すると思って、それを本人のために使うと決心し、大きい死霊祭を行うことになったという。三浦の疑惑はこの人倫に関するものであるところに根本的な問題点がある。生命に保険金をかける生命保険などはむしろ生命を軽視する矛盾を含んでいることは議論すべきであろう。

人倫に反する

2008年10月15日 06時49分50秒 | エッセイ
 1981年三浦和義社長(当時34歳)と妻の一美さん(当時28歳)は米国・ロスアンゼルス郊外の駐車場で二人組の男に銃撃され一美さんは頭を撃たれて死亡した。夫の三浦も足を撃たれて重傷を負ったが保険金1億5500万円を受け取った。それが保険金目当てに仕組んだ事件ではないかと疑惑報道が加速し、《三浦に一美さん殺しを頼まれた》という特種記事が報道された。1985年警視庁は三浦を一美さん殺人未遂容疑で逮捕、1998年最高裁は三浦の控訴を棄却し懲役6年が確定した。東京高裁は「確かな証拠が無い」として無罪を言い渡した。
 証拠が無いことで、疑惑が晴れたわけではない。今度再逮捕されたのである。保険金とは人倫に反する要素も含んでいる。妻の死から金を取るということがそれである。私は昔ベトナム戦争で戦死した人の慰霊祭を観察したことがある。国家から補償金を受け取った家族が子供の死によってお金をもらうことは人倫に反すると思って、それを本人のために使うと決心し、大きい死霊祭を行うことになったという。三浦の疑惑はこの人倫に関するものであるところに根本的な問題点がある。生命に保険金をかける生命保険などはむしろ生命を軽視する矛盾を含んでいることは議論すべきであろう。

中国人母子留学生

2008年10月14日 04時37分57秒 | エッセイ
 広島大学院博士課程在学中に私の指導を受けた中国人朴氏が私の定年退官とともに留学を終えて帰国後、初めて訪ねてきた。彼女は最初に10歳の息子を連れて中国からきた。その息子が昨日広島から運転して母子で来た。息子は中国に帰国して高校を卒業して広島某大学の学部に留学生として在学している。彼は父母から留学の生活を見習って、うまく適応しているようである。まるで留学を世襲しているようである。彼の父も私の学生であったが、現在は中国大連で大学に勤めている。日本では政治家の世襲が多いのと対照的に、この家族は「留学世襲」しているようである。
 母子は嬉しそうに私に向かって「先生は幸せな人」だといった。最近数人の方からも言われたことばであることに気がついた。私は人から幸せそうに見えるようである。私は普通の生活をしているが、考えてみると「幸せである」と思う。また私に幸せといった人々も私から見ると、幸せな人である。人それぞれ幸せであることを認識すべきである。その「幸せの心」を保つことが難しいだけである。

敵を愛する

2008年10月13日 06時25分14秒 | エッセイ
 イエスは‘敵をも愛しなさい’といった(ルカ6章27節~36節)。ただの皮肉ではない。旧約聖書にはない、否その隣人への愛を深化して彼が確立した倫理でもある。彼は実行して、殺された。われわれは無数の敵に囲まれている現実である。そのわれわれの人間関係からみるとそれは大変無理な倫理であろう。敵とはスポーツにおいて相手のような敵から競争相手や不倶戴天(この世に一緒に生きることさえ嫌な)の敵まで様々である。愛人でも敵に変わり、たまには憎らしい人も愛することがある。
 このようにわれわれは多かれ少なかれ敵をもっている。敵に対する態度は主に感情に任せている。文学や芸術があまりも感情的な熱愛ばかり強調しているように感ずる。しかし愛は感情だけではない。知的な愛が必要である。われわれは意識せずして人をきずつけたり、人から傷つけられたりする。それでもその人と今までの人間関係を総合的に検討し、感謝すべきことを思うといやな感情を抑えることができる。私は子供の時「林巨正」(洪命喜作)という小説を読んだことがある。父親が自分の子供の夜泣きに我慢できず殺して後悔して泣く場面を読んで深く考えたことを思い出す。今、世の中にはこの子供じみた犯罪が多い。
 初めは敵を憎み、次に考え直して、人間関係を改善、最後には「敵を愛する」段階に至るように私も努力しようと心を新たにする。

「土亭秘訣」

2008年10月12日 06時39分10秒 | エッセイ
 韓国では토정비결 「土亭秘訣」という毎年の運勢を占なう、韓国特有の占ないの本(朝鮮王朝時代土亭の著)がある。この本は日本の御神籤のような構造になっている。昔それを分解して項目を分類してみたことがある。大きい項目には人の幸せや出世は「人との出会い」であるという項目がある。ここでいう人とは赤の他人を意味する。前欄で紹介したカーネギーの秘訣と通じるところがある。
 私は妻、先生、友人、弟子、同僚、知人などと巡り合ったことが私の人生にとって大事な「出会い」であった。しかし大事な出会いを粗末にすると意味がない。声をかける、会う、行動する、離れる、切る、裏切るなどさまざまな人間関係がダイナミックに行われながら生きる。今日も新しく誰かとの出会いがあるかもしれない。人との出会いを大事にしよう。

成功秘訣

2008年10月11日 06時43分43秒 | エッセイ
 ノーベル賞者をめぐって成功(?)が話題になっている。「真面目に働くと金持ちになるというのは誤解である」などの言葉で有名な、私が若い時読んだカーネギーの『人を動かす方法』という英語版を改めて読んでみた。私は金持ちになる方法は知らないし、関心もない。しかし成功することには関心がある。「真面目に働く」のは自己完成に向けての成功を意味するからである。学生の中には非常にネガティブな態度をとる者がいる。特に成績が悪い学生は先生への評価は厳しく、人の所為にすることが共通する。それは学生に限らない。ネガティブな人は肯定的な成果を果たせない。つまり大きいことを達成させるための力を発揮することは出来ない。私自身が成功したなどと言っているのではない。私なりに成功した人を観察したものとカーネギーの話とはそれほど距離がない。卒業前までにはカーネギーが常に主張するようにポジティヴな考え方を持ちなさいよと言っているだけである。

玄関に置かれたお土産

2008年10月10日 05時53分27秒 | エッセイ
 一昨夜韓国から来られた数名のお客が帰った後、玄関に置かれたお土産を見た。誰が持ってきたお土産なのか、忘れ物なのかわからない。韓国では伝統的に家庭を訪問した時、酒やお菓子などのお土産をもっていっても直接渡さず仏壇などに置く習慣がある。人にあげるために持っていっても何も言わずそのまま置いていくのがしきたりである。したがって、たくさんの方々が来られた時はいろいろなお土産が置かれているが、誰が何を持ってこられたのかわからない。しかし、そのお気持はしっかりいただくことになる。お土産の交換は日本と韓国の差が大である。昔、韓国人たちが「日本人はちっぽけなものを持ってきて自慢話のような説明をしながら渡す」と皮肉をいったことばを思い出す。
 実は私が昔日本に来たばかりで指導教官が入院された時に花を持って行ってその辺において帰ってきたら先生の奥さまから電話で忘れものではないかと言われたこともあった。両方とも日韓の異文化に無知であった。最近は韓国人でも土産を直接出すことも多くなったがまだ伝統は残っている。数名のなかから不特定な人が玄関に置いて行ったお菓子を美味しくいただきながら韓国の伝統的な慣習を改めて認識した。

ノーベル賞、日本人の「匠人精神」

2008年10月09日 06時28分07秒 | エッセイ
 京都産業大理学部の益川敏英教授、高エネ研の小林誠名誉教授、南部陽一郎・米シカゴ大名誉教授がノーベル物理学賞を目出たく受賞された。社会から研究が注目されるよい機会である。一般的には研究者が注目されることなく、社会が動いているが、実は研究によって社会が大きく変わる。大学がその中心的な役割を担っているが大学では教育することが強調されるようになって、国立大学の法人化、私立大学の企業化などで研究が二の次になっているのが多い。しかし日本人三人の物理学者のノーベル賞受賞が決まって日本政府が喜んでいる。南部氏は研究与件がよいアメリカへ行き、アメリカの国籍も取っているアメリカ人であっても国籍云々とはいわない。
 韓国では日本人の「匠人精神」と国家の支援政策と評価している。ある受賞者は考える時間が欲しいと言った。創造力とそれを実行する努力である。ノーベル賞は社会的評価の一部にすぎない。すべての学問を代表するわけではない。ある意味では例外かもしれない。その賞が人生の成功を意味するものでもない。賞は目的ではないように、ただ正しく生きることについてくるものである。その意味でわれわれはすべてが受賞者であろう。

被差別から文化財へ

2008年10月08日 06時13分46秒 | エッセイ
 韓国のシャーマンの鼓と巫祖の位牌などを韓国の国立国樂院に寄贈する署名をわが家で昨夜行われた。そのために担当学芸官と職員、二人の写真記者がわが家でリスト作成と写真撮影を行った。そのつづみは今は故人となった人間文化財金石出氏からいただいたものである。この鼓は彼らの歴史そのものである。金氏は移動する時には分解して小さくして鞄に入れて持ち運ぶに便利なものである。それだけではない。つづみは巫者の象徴的なものであり、被差別の彼らは祭りを行う時以外には卑賎民という身分を隠すためにもそれを目立たないようにする必要があったと説明してくれた。彼の先祖代々によって使われたものである。金氏と初めて会ったのは1960年代末。私は彼に会って以来韓国の東海岸地方の村々を同行させていただき、一緒に旅に出て、シャーマンの集団生活や儀礼を調査することができた。
 もう一つは全羅南道長興郡冠山の被差別タンゴル巫女の先祖の位牌である。それは表面に紙を 貼って隠して祀ったものであったが、はずしていただいたものである。200年も遡って系譜がわかる貴重なものである。
 私が調査した時には唯一の差別集団のムーダン(巫堂)であったが、ナショナリズムによって伝統文化が尊重されるようになって社会的地位が上昇して人間文化財にもなった。時代の変化と彼らとの古い関係をもつ大事なものを博物館に寄贈すことになった。

雅楽鑑賞

2008年10月07日 06時27分29秒 | エッセイ
 韓国国立国学院から金キョンヒ学芸官と二人が昨日5時に着き、鍬野保雄氏の案内でホテルにチェクイン、そして食事も済ませて6時半に赤間神宮で行われる雅楽の演奏会が始まる一分前に着いた。下関市文化協会長の野村忠司氏が待っていてくださった。そして2時間近く、雅楽を鑑賞した。日本で雅楽を直接鑑賞したのは初めてである。鼓、太鼓、鉦鼓、琵琶、琴、笙、笛など十数名の方々による雅楽合奏であった。主に笙の合奏であった。雅楽は中国から伝来した宮中音楽として韓国や日本にも古くから伝わっている。民間の歌舞とは異なって宮中の権威を表すものとして壮厳な歌舞である。
 私は韓国の春と秋に成均館で行われるものを一度鑑賞したことがある。主に中国系の楽器、打楽器が多く、テンポが遅い音楽と舞であったという印象を持っている。昨夜鑑賞したものは管楽器が多く、テンポも比較的早く、民間芸を見る感じであった。日本的になっている。この雅楽は伝統的なものに基づいて作ったものである。これを鑑賞した韓国の専門家も日本の雅楽を直接鑑賞してよかったといい、韓国の雅楽とは非常に異なると言った。それより時間に間に合わせるために私が焦るのをみて「一番性急な人」と感じたという。

学歴偽装

2008年10月06日 05時55分30秒 | エッセイ
 私の友人の弟はわれわれの母校の中学校出身と学歴を偽装して結婚をしたが、結婚生活数十年後に妻から離婚された。このような学歴社会といわれる韓国では時々学歴偽装が社会的に問題になる。それは本人の偽装に焦点が当てられているが、実は制度の問題でもある。ある学者は、昔、小規模の夜間大卒業であるが後にその大学が大きい名門大学と合併したので後に名門大学の卒業者と履歴に書いた。またある人は台湾の「哲士」を韓国で博士と書いたことが偽装といわれた。国際的になるともっと複雑になる。私は韓国の大学校の師範大学国語教育科を卒業し、後にある大学校で「学長」をした。それを日本式にいうと韓国の「大学校」は「大学」、「師範大学」は「教育学部」に当たる。旧制学校制度を現在風に言うと、それも偽装のように聞こえる。現在日本では「博士前期」(旧修士課程)を韓国ではそのまま「博士課程」として通用することもある。「前期」終了者が「博士」ということもありうる。「学習」には関心が薄いが「学歴」には熱心な社会をいわば「学歴社会」という。

金正日の病気?

2008年10月05日 06時16分18秒 | エッセイ
 先日、金正日が手術を受けたというニュースが流れても私は信じなかった。1990年代、彼の父である金日成が死亡したというビッグニュースが誤報であったことがあるからである。休戦線の兵士が北朝鮮の国旗掲揚の様子を観察して情報を流したものだった。その後彼は平穏な死を迎え、国民の慟哭の中で葬儀が行われ、現在は錦繍山公園でガラスの中に安置され静かに横たわっており、今でもたくさんの人々の参拝を受けている。独裁者が死後、このように栄光を享することに矛盾を感ずる人も多いだろう。北朝鮮の放送は金正日が健康な姿で巡行したとや視察したという情報を流している。
 多くの人は独裁者の死を期待する。それによって体制の変化、つまり民主化への発展を望んでいるからである。しかし長い間、独裁体制の中では支配者・被支配者とも意識が腐食しているのがもっと大きい問題である。「植民地」から解放されても「独裁地」に変わっただけの酷い状況が、民族紛争などによっていわば脱植民地が全くできていないような国がアフリカにもある。植民地から解放されたとはいっても北朝鮮のように、人の往来も自由にできない国も存在する。私はアイルランドの調査の前に北朝鮮への訪問許可を申請して待ったが、それは無駄なことであった。

韓国ドラマ

2008年10月04日 07時08分42秒 | エッセイ
毎日韓国の連続ドラマを午後8時から1時間を楽しむ。一週間3個のドラマが毎日連続する。どのもの、いずれも面白い。一つは頑固な母としてクッパ食堂の経営者、もう一人は劇場の社長の頑固な父が登場する。彼は息子の前では頑固な態度をとるが、妻や娘にも頑固でありながら子供の将来のために努力する。また一方の食堂の経営者の女性は4人の子供の片親の母として長男中心の価値観で次男以下の息子や娘が頑固な母に反抗する。子供達には無情な頑固な母ではあるが、底には愛情が流れる。それぞれ子供たちは不満を持っていながらも親の愛情を感ずる。
 もう一つのドラマは子供の結婚を戦略的にさせようとしても当事者たちが反抗する内容である。またもう一つは親が子供の結婚を反対する。いずれも家族の親子関係が主である。家族の崩壊の危機感に対して家族の絆を大事にしようとするとはいえ、日本の家族状況からみると古いがなぜ面白いか。それはほぼ演者のキャラクターと劇的変化であろう。言葉、ユーモア、喧嘩、気絶、記憶喪失など必ずともいえるほど劇的変化がある。また終わりは終結的ものではなく、次のハプニングの始まりのように終わる。また見たくなる。わが夫婦はドラマの面白さというより一定の時間を決めてみるというリズムを持ちたいことがむしろ強いかもしれない。