崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

日本で小学校の後輩に会った

2008年10月29日 06時29分28秒 | エッセイ
 私は韓国京畿道楊州郡で生まれ小学校4年の時朝鮮戦争が起きてソウルの蓬莱国民学校に編入した。その学校はソウル駅の裏側の高地の頂上に立っている。私は1953年に卒業し、40数回期であることを逆算すると1910年代に創立した学校である。おそらく創立が植民地の初めころであったと思われる。学校のまわりこは日本人町であったところであり、銭湯などは戦後もそのまま使用されており、私もたまに行ったことがあった。私が住んだ家はいわば「敵産家屋」(日本人の住宅)を警官だった叔父が手にいれたものである。水道と電気はあっても都市ガスは切れていた。水道もところどころ破裂して道に水が流れて冬には凍って氷坂になり私を含め子供たちは坂道で滑りを楽しむ場でもあった。その小学校で2年以上在学して景福中学校へ入った。その小学校からその中学に進学できたのは私以外もう一人、たった二人だけで大いにほめられたがその後おそらく一度も訪ねたことがない。日本の国立大学へ小学校からの卒業証明書が必要ということで親戚の方がその旨学校に連絡したら卒業に関する記録はないという。戦争で焼失したということであった。
 先日小倉でその小学校の後輩の金明相氏にあった。なんと奇跡でも起きたように嬉しかった。過去の一部分を共有したというその縁は小さくない。特に外国においてはそれぞれ縁を探り合って親しさを深めようとする人の心が理解できる。インド人がカーストで縁をつなげていくのと変わりはない。私は人との縁を常に大事にしたいと思っている。