崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

遅すぎた授業法

2014年06月04日 04時19分44秒 | エッセイ
ある新聞の連載コラムに「私の生け花」というエッセーを送った。いけばなに関しては以前も時々書いたが私の生活の一部であるので自然に繰り返される。昨日の「日本文化論」で「生け花」をテーマにした。学生は日本人4人、韓国人4人、中国人1人、ネパール人1人、欠席2人で10人への授業であった。全員の名前を覚えさせる。まず出席確認と前の時間のコメントや質問紙を返す。白紙を配り、今日のテーマは日本文化の一つである「生け花」という趣旨、そして10分ほど私のエッセーの読後感や質問を書かせた。
 
 約文:私は子供の時から遊戯が下手で外へ出ないで家にこもりがちで親などは心配し、女の子のようだといわれ恥辱(?)を感じたことも多かった。ソウルに転学してからは部屋で読書などをする時間がより多くなった。そんな私には趣味がないと思っていた。いわば男性の趣味といえばゴルフとか登山とかスポーツ系のものや、将棋、囲碁などであり、よく話題になるものである。私の趣味は生け花である。
 朝の散歩に剪定鋏を持って行き、枝や雑草を観察し、切って持ってきて生けるのは楽しい。私には生け花の免許はない我流である。日本の花流でいえば池の坊に近い。称賛されなくともよい。お客さんからは家内の技といわれることがあるが、私が生けたと言うと意外な表情をする。
 韓国では男性は生け花などには手をつけるものではないという固い社会慣習がある。それでも私は生け花に関心を持って、しばしば自習して趣味とした。このことが女性文化への侵入か、男女別のある枠を犯しているかのようにも感じないこともなかったがやはり好きだった。日本に留学してから日本で生け花が盛んであることを知った。生け花の美しさや楽しさを女性だけの世界にしておくのは、男性にとって「もったいない」感がする。それは幸せに関するものであるからである。男性も花を生け、生け花を鑑賞しながら幸せを積極的に共有すべきであると思う。
 ロシアの花屋を思い出す。そこでは24時間開店している。零下30度の冬でも花屋では深夜でも売っている。深夜でも恋人と会い、訪ねる時花は必須のものであるからである。日本でも都会では花売り自動販売機もある。・・・

 ネパールでは日本からの文化として生け花があること、韓国では男性の趣味として生け花とは意外、そして多くは花を楽しむのに性別は関係ないという意見であった。ロシアの花屋の深夜でも売っていることに質問などがあった。私は学生たちに「皆さんが司会者であればどのように展開していくか」と質問を投げかけた。一番多く共通している点は何か、また異なった意見を見つけるようにと言った。絶対に意見を無視しないことも注意するようにした。一人の男子学生は生け花に無関心と言いながら自然な花のままが良いという。意見交換がなされた後私の出番であった。花を切ること(切り花)、自然から人工への「生け花」か「死に花」か、自然美と人工美の対立について説明をした。「切って生ける」美の意味の講義になった。よくまとめて書いた荒瀬君の感想文を彼に読でもらって授業を終えた。全員で考え、意見交換をし、楽しく効果的だった。教育に45年の経歴を経て、今やっと教授法を十分生かすことができた。遅すぎた授業法かも知れない。帰宅して夕食後楽しむ連続テレビドラマもクライマックスを見逃して就寝した。