崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「独島の日」「竹島の動画」

2013年10月26日 05時23分16秒 | エッセイ
 竹島の問題でよく聞かれる。「ここだけの話、実際はどうでしょうか」と。それは私の意見を聞きたいということである。先週講義で「国際極東軍事裁判」の映像中に外国人弁護士たちの弁論を中心に公正、公平、客観などを議論した。これらの言葉は立派な意味をもつが、主観や自愛などが入ると難しくなる。自分自身とは関係ないことであれば公正、公平は社会正義になるが、自分を含めると困る。その代表的な問題が日韓関係を混乱させる竹島の問題である。昨日10月25日韓国では「独島の日」として記念した。それについて民族誌(民族主義的)「朝鮮日報」の記事に批判的な題が付いていたので探してみた。記者は次のように言っている。「そこまで日本を真似することはないだろう」と。それは「領土問題は存在しない」と言いながら領土を主張する矛盾を指摘している。つまり韓国が済州島を、日本が富士山をそれぞれ自分の領土と主張する必要性があるのかの論法である。この論法によると「領土問題は存在しない」と韓国は占拠しているので「独島の日」が必要であろうかという。
 近代的国民国家形成以前までは王宮や都が中心であり、島は「島流しの地」に過ぎなかった。今私は矢内原忠雄が書いた南洋群島パラオに関して読んでいる。マジェーランやクークが発見した島々は陸地から遠く、資源も少ない島に宣教がなされたことを知る。人々はすぐさま「収奪」と思われるかもしれないが、島にも関心を持つ視野の開発であろう。近代国家以前のことはさて置き、国境や領土意識が発生した時点から国境という意識によって竹島に注目すべきであろう。日本は1905年の条約によって日本領土説を主張しているが、韓国はそれより5年早く大韓帝国が1900年10月25日「石島(私は本欄で触れたことがあるがドクとは慶尚方言で石のことである)」(独島)を韓国領土すると勅令第41号で決めたという。これが近代国際法で領土を明らかにした最初のことであると主張する。
 国際化とグローバリズムは流行語にもなっているがナショナリズムと愛国心が強化されながらも都鄙の差は以前と同様である。領土意識より地方へ関心を注ぐ市民意識の変化が何より優先的であろう。