崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「紅いコーリャン」

2013年10月08日 04時25分17秒 | エッセイ
 早朝4時の時間帯NHKラジオ深夜便で広島被爆の悲惨な話が今流れている。戦後日本では戦争被害がいたるところで語られて、被害が強調されている。それは反核運動、平和運動へ広がっている意味は大きい。しかしそれと同様中国や韓国で日本から被害を受けたことを日本で聞くことはあまりない。韓国では日本の慰安婦などの被害を、中国と北朝鮮では日本に勝った勝利を主張している話が多く、日本の植民地や日本との戦争などへの歴史認識はそれぞれ異なっている。戦争や植民地とは普通加害と被害、植民と被植民で語れるが、日本と韓国はそれぞれが被害を強調している。日本が加害を言わないように韓国が加害であったという「竹林はるか遠く」が非難されて「慰安婦像」を立てている。いずれもバランスを取っていない歴史認識と言える。
 私は昨日「しものせき映画祭」について記者会見をした時、中国での被害を強調する映画「紅いコーリャン」を推薦した意図を説明した。この映画はある女性を中心に3代に亘る家族史的な話であり、1930年代に日本軍が満州に侵攻した時、日本軍が生きている中国人の皮膚を剥ぎとって殺す場面がある。それを見た人たちが抗日運動を起こすという話である。広い満州を植民地(?)とし、紅いコーリャン畑で起きた酒と血の歴史の話である。今なぜ日本に私が紹介しようとするのか。それは日本人の歴史認識があまりバランスを取っていないからである。被害を認識して対策を考えるのは普遍的であろうが、その被害の裏には「加害者」が存在することも普遍的である。私は中国や韓国が「歴史認識」を政治的にいうことに不満を持つのと同じように日本の一方的な被害強調にも不満を持っている。残虐とは「如何に強調してもし過ぎることはない(too~to)」と言われているようにこの小説で生きている人の皮膚を剥ぎとる罰、北朝鮮で展示している締め殺し用の革ジャンパーはそのような表現、表示であろう。